第6話 公爵の不幸の始まり
その夜のカーニー・キャンセル公爵はまるでついていなかった。いいカードがさっぱり手元にやってこないばかりか、たまに役が出来ても相手がもっと強かったり勝負を避けられてしまう。まったくもっていいところなしだった。
「軍資金が尽きたようですな」
「カッパ」ににやにや笑われて、腹立ちまぎれにカードをテーブルの上に投げ出す。
「まだやれるさ。つけにしておいてくれ」
「そうはいきません。あなたにはどれだけ貸しがあることか」
「ここらで払った方が気持ち良く遊べるんじゃないですかね」
無表情の「猿顔」とおどおどした「白豚」にそう言われて、仕方なく実家まで金を届けるように使いを出すことにした。
(実家、か)
嫌なことを思い出して公爵は顔をしかめた。思えば、彼の不運は3日前に実家を訪れた時から始まっていた。
別に大した用事があるわけではなかった。その日の昼下がりにたまたま近くまで来たので屋敷に立ち寄り、ついでに服をいくつか持っていくことにして、そそくさと引き揚げようとしたときに、母に玄関で呼び止められたのだ。
「セイジアに少しは優しくしてあげなさい」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
「誰のことです?」
「あなたの婚約者ですよ」
母にあきれ顔で言われてようやく思い当たった。あの娘か。騎士だったとかいう、いかにも色気のない少女、という記憶しかない。しかし、会ったのはもう何か月前のことだ。
「あの娘、まだいるのですか?」
「いるに決まっているじゃないの」
決まってはいないからそう訊ねたのだ。母が自分の婚約者をこの屋敷まで呼びつけては「花嫁修業」と称していびり倒しては次々に追い出しているのを息子は承知していた。キャンセル家にふさわしい嫁を見つけるという名目で若い娘を苦しめ泣かせている実態もわかっていた。ただ、それを止めるつもりはなかった。
(母上も退屈なのであろう)
もう若くはない女性が興じることのできる娯楽は少ない。老い先も短いのだから好きにすればいい、と無責任に考えていた。母親の不安の原因が自分にあるとは全く思いもしていなかった。
(それにしても、まだ粘っていたとは)
あの少女がまだ屋敷に踏みとどまっているというのは驚きだった。母のいじめに屈しないとは、一体どんな娘なのだろう。少しだけ興味がわいたその時、開け放された扉から、大きな声が聞こえてきた。
「いやー、たくさんもらってしまったなあ」
金髪の少女がポニーテールを揺らしながら玄関から入ってきた。両手にたくさんの野菜を抱えている。
「まあ、セイジア、一体何事です」
母が慌てて駆け寄る。
「近くの家の畑仕事を手伝ったら、おみやげをたくさんもらったのです。別にそんなつもりでやったわけではないのですが」
申し訳なさそうに、それでも朗らかに笑った。茶色いシャツとズボン、そして両手も泥だらけで、確かに農作業をしていたのだろう。この娘も一応は貴族のはずだ。そんな少女が野良仕事だと? 呆然となる公爵。
「あなた泥だらけじゃない」
見かねた夫人がメイドにハンカチを持ってこさせて、それでセイの顔にはねた泥を自らぬぐった。
(母上がそんなことを)
またしても公爵は驚く。彼女が愛情を寄せるのは息子である自分だけで、それ以外の他人には気を許すような人ではなかった。しかも、礼儀作法もなっていない田舎娘を認めることなど決してないはずだった。自分が不在にしている間に信じがたい事態が進行していたことに、本来この屋敷の主人であるはずの男はようやく気付きだしていた。
「あらあら、本当に立派なお野菜ですこと」
「今夜は早速これを使うことにしますかな」
メイド長とコック長も出てきて娘の戦果を口々に褒めそやした。家来たちも公爵の婚約者にすっかり信頼を寄せているらしい。
「本当か? それは楽しみだな」
そう言ったところで、娘はようやく婚約者の存在に気づいた。
「あれ、公爵様? こんなところで珍しい」
青い瞳にまっすぐに見られて中年男はたじろぐ。
(こんなところも何も、ここはわたしの屋敷だ)
そう言いたかったが、留守にしている時間の方が長いので反論しづらい。気まずくなって、立ち去ることにした。そもそもこんなに長居するつもりもなかったのだ。
「カーニー、あなた、何処へ行くのです?」
「何処へ行こうとわたしの勝手でしょう」
40歳を目前にしているのに子供のような言い草をする息子に母が呆れているのがわかった。それに彼が何処へ行くのか本当はわかっているのだろう。愛人の家だ。年増の商売女に入れあげ、家の財産を食いつぶしているのがよからぬ噂になっていることは公爵本人にもわかっていた。ただ、今まではそれを気にするつもりはなかった。
(言いたいやつには言わせておけばいい)
そう思って、無頼を気取っていたつもりなのだが、今ここで母と家臣たちに冷ややかなまなざしを浴びると、自らの日々の行状に思いを致さざるを得なかった。そもそも、ドラ息子が「無頼」を気取る時点で笑止千万なのであったが。
「公爵様、出かけられるのですか?」
「ああ、まあな」
しかし、本当に気になるのは自分の婚約者だとかいうこの娘だ、とカーニー・キャンセルも気づいていた。彼女の全身からあふれている若々しさに、日々迫りつつある老いを実感せざるを得なかった。色男のつもりでも、白髪は増え腹はたるんできている。いつもは目をそらしている厳しい現実を突きつかられたかのようで、身が細くなる思いしかなかった。苛立ちとともに足早に立ち去ろうとしたその時、
「いってらっしゃいませー!」
明るく大きな声が聞こえ、唖然として振り返ると、セイジアとかいう名前の娘が自分に向かって大きく手を振っていた。
「公爵様、頑張ってきてください! ご武運をお祈りします!」
ニコニコ笑って応援してくれている。
(この娘、馬鹿なのか?)
少女の後ろで母たちもさすがに呆れているのが見える。どこの世界に愛人の家に出かける男を笑って送り出す婚約者がいるのか。いや、自分が何処に向かうのかを彼女は知らないのだろう。だが、それにしたところで、行き先も分からないのにエールを送るなんて、しかも「ご武運」とは、この娘は本当に馬鹿なのか。いまだかつてないむかつきを胸に覚えながら、公爵は待たせていた馬車に乗り込んだ。
それが不運の始まりだった。夜になり愛人の家に行き、一緒に酒を飲んでもちっとも酔えなかった。しなだれかかってくる女も不愉快でしかなかった。いくら杯を重ねても、昼間に見た少女の笑顔がどうしても頭から離れない。そして、その笑顔と目の前の愛人をつい比べてしまう。いつもは魅力的に見えていた顔に皺が寄りつつあることに気づく。胸が悪くなり女を邪慳に扱い、そのせいでいさかいが始まり、やがては本格的に喧嘩になり、とうとう最後には家を追い出されてしまった。夜更けの路上に放り出されてから、酒場を何軒かはしごしたが、それでも酔うことはできなかった。翌日は娼館で憂さ晴らしをしようと思ったが、そこでもやはりあの少女の顔を思い描いてしまい楽しめなかった。彼女以上の娘など居はしないのだ。その腹立ちのあまり、暴れて装飾品を壊し、従業員に当たり散らしたところで、店を追い出され出禁を申し渡された。気に入っていた店だったが、もう行くことはできない。そして、今夜はツキムの繁華街の地下にあるカジノで有り金をすべて失った。全ては婚約者である金髪の娘のせいだ、と公爵は理不尽な怒りを少女に向けていた。
(あれは呪いだ)
カーニー・キャンセルは、あの日自分をにこやかに送り出したセイジア・タリウスをまた思い出していた。思えば、乱行にふけるようになってから、あれほど暖かい反応をされたことはなかった。母の説教も涙も、友人の説諭も、周囲からの白眼視も、どれも彼を正しい道に戻すことはできなかった。逆にそういった世間に対して反抗し堕落していく快感に公爵は酔いしれていた。「みんなが馬鹿にしていることをあえてやっちゃう俺ってすごい」とくだらない優越感に浸っていたのだ。しかし、それをすべてあの少女が打ち壊した。自分の行いを認められたことで、逆に自らのやっていることの程度の低さに気づかされてしまっていた。
(わたしをなめるんじゃない)
普通の人間であればここで自分の生き方に疑問を持って見直そうとするものだが、あいにくキャンセル公爵の性根は腐りきっていた。年端も行かない少女に影響されてたまるか、と歪んだ誇りが彼に敗北を認めさせなかった。だから、今夜のギャンブルにも必ず勝利するつもりでいた。金はなくなったがまだ負けてはいない。自分は持っていないが家にはある。家の金がなくなれば、またどこかの土地を切り売りさせればいい。そうやっていれば、いつかは勝てるはずだ。いずれ負けた分を取り返して、母も家来も友人も、そしてあの娘も、自分を馬鹿にしているすべての人間を見返してやる。
(今に見ていろ)
そんな夢想に男は浸りきっていた。いくら名門の公爵家とはいえ、財産も領地も無限にあるはずがない、という子供にでもわかる事実を見るだけの勇気も今の彼にはない。
目の前のテーブルに、金貨の入った袋が置かれた。実家からの使いが来たらしい。
「遅かったな」
そう言いながら、ずしりと重い袋を取り上げた。これで勝てる。ここからが本当の勝負だ、さあ、やるぞ、と言おうとして異変に気付いた。同じ丸いテーブルを囲んで勝負している他の3人、「カッパ」「猿顔」「白豚」が揃って、ぽかん、と口を開けているのだ。何かを見て驚いているようだ。そして、公爵も背後の気配に気づいた。金を持ってこさせた人間がまだいるのだろう。
(用は終わったのだから、もう帰っていいぞ)
そう言おうとして振り向いたカーニー・キャンセルもまた、ぽかん、と口を開けてしまった。
「こんばんは、公爵様」
セイジア・タリウスがにこにこ笑って、そこに立っていた。
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