第2話 狐の嫁入り
『キーンコーンカーンコーン』
「はーい、じゃあ号令」
先生が号令係に声を掛ける。
「きりーつ」
間延びした係の掛け声に、生徒たちがぞろぞろと立ち上がる。
「礼〜」
「ありがとうござーしたー」
適当な挨拶とともに、生徒が一斉に動き始める。
私は前の人がぐぐと伸びをしているのを横目に捉えながら、ちらりと空を見上げる。雲はどんよりとしていて、ぽつぽつと静かな雨が朝から降り続けている。
「サエ〜!帰ろ〜」
友達がキーホルダーのたくさんついたバッグを手に持って、廊下から手を降っている。
「今行く〜」
私はあたふたと自分のバッグに手をかけ、彼女たちに駆け寄る。彼はこんな雨の日にも絵を描くのだろうか。
一瞬よぎった彼のことを頭から振り払って、私は階段を降り始めた。
「でさぁ、今日の授業中にさ〜……」
騒がしい廊下を人にぶつからないように歩きながら他愛もない話をしていると、ふと、あのどこか悲しげな笑顔が頭に浮かんだ。
「あ……」
私は思わず声を出してしまったようだ。友達が
「どうした?」
と口々に聞いてくる。
「ごめ、忘れ物したかも。先行ってて!」
私はとっさに嘘をついて、先程降りてきた階段を駆け上る。
途中、人とぶつかりそうになったが、どうにか避け、屋上へと急ぐ。
なぜ、こんなに急いでいるのかは自分でもわからなかった。
だけど、何故か心が焦って。
彼に早く会いたいと、そう思った。
少し暗い踊り場につくと、彼の大きなバッグが置いてあるのが目についた。
私は慌ててドアを開ける。
秋の生暖かい雨が、風に乗ってパラパラと踊り場へ入ってくる。
「あ、ルナちゃん、昨日ぶり」
彼の声の方を向くと、私の心は一瞬で奪われた。
雲の合間から届いた光が、彼を包み込むように優しく照らす。
彼の雨に濡れた髪が、光を浴びて
頬を流れる雨粒が、彼の顎へとなめらかに伝っていって。
それは、まるで一枚の絵画のように私を引き込んだ。
「おーい、大丈夫?」
彼が私の近くに駆け寄ってきて、目の前で手を振っている。それのおかげで、私は現実に引き戻された。ぽかんと開いていた私の唇を、彼の細い指がそっと閉める。
「口あいてるよ?ふふ、お魚さんみたい」
「あ、ごめん、ぼーっとしてた」
先程の光景を見たからか、自然と目をそらしてしまう。
何意識してんだ、私。そんなキャラじゃないだろが。
自分にそう言い聞かせて彼を見ると、雨に濡れたままで私の反応を待っていた。
「か、風邪引くよっ?!」
忠犬のような目で見てくる彼に慌ててそう言って、踊り場の中に彼を引き込む。
雨で濡れた彼に、なけなしのハンカチで髪の毛の水を拭いてもらった。
彼の足元には、小さな水たまりができている。風邪、引かないといいけど。
「ッくしっ!」
彼が可愛らしいくしゃみを手の甲で抑えている。案の定、風邪をひいてしまったようだ。
「いつから雨に降られてたの?」
びしょ濡れの彼にそう聞くと、
「んー、5時間目の終わりからかなぁ…」
と予想をはるかに上回る返答が。
「えっ、6時間目は?」
「サボっちゃった」
ちろっと舌を出す彼は続けて言った。
「今日の空がとっても魅力的だったからなぁ…」
そう言って踊り場にある小さな窓に目を向ける。
その向こうでは先程のような幻想的な風景ではなく、ただの黒い雲が世界を覆っていた。
彼が服が乾くまでは家に帰れないというので、私は彼と一緒に階段に腰をおろした。
彼は麻のバッグからスケッチブックを取り出すと、すごい勢いで何かを描き始めた。
カリカリという、鉛筆ならではの音が階段に響く。私はその音に耳を傾けながら、ぼーっと窓を眺めていた。すると、鉛筆の音が止み、彼は筆を持ってパレットへと運んでいた。
「……面白い筆。」
思わず声に出していた私に、彼はふふんと鼻を鳴らしてから答えた。
「これはね、ウォーターブラシっていうんだ。筆の中に水が入っててね、手軽に水彩画が描けるんだ〜!」
そう言って、私にその筆を渡してくれた。
水が入っている部分がひんやりして、気持ちいい。
「ルナちゃん、描いてみる?」
「え、いや、いいよ私、絵描けないし」
私が勢いよく断ると、少し寂しそうな顔をした。
「そっか……、じゃあ、ボクが描き終わるまで、待ってくれる?」
首を傾けて、顔を覗き込むように見てくる彼が、とても健気に見えて、私は思わず頷いた。彼はそれを見てにこっと笑って、スケッチブックに向き直った。
透明な筆先が、美しい空色に染まっていく。
彼は少し音の外れた鼻歌を歌いながら、筆を進める。
彼の手によって、白黒だった空がカラフルに染め上げられていく。
私はそれを隣で見ながら、どうでもいいことに思いを馳せてみたりする。
ぼーっと彼の筆の動きを見ていると、すっと紙から筆先が離された。
「……描き終わったよ。」
彼の手が少し名残惜しそうにその絵の上をなぞる。
「見てもいい?」
私がそう尋ねると、彼は優しく笑ってスケッチブックを渡してくれた。
その絵に中には、灰色の雲の隙間から覗く太陽の光と、階段に続く入り口。
そしてそのドアは開け放たれ、あれ、人が描いてある。
「この人、誰?」
「ふっふっふ、誰でしょう?」
「えー……」
「正解は……君でした!!」
彼はそう言って楽しそうに絵を眺める。
「君が迎えに来てくれたのが嬉しくてね、残しておきたいなって」
ふふ、と笑った彼は本当に嬉しそうだった。
「……私で良ければどこでも迎えに行くよ、雲くんのためなら」
小さな声で答えると、彼は恥ずかしそうに歯をのぞかせた。
「へへ、そんなこと言ってもらえるなんて、思わなかったなぁ……嬉しい」
彼はそのまま、踊り場にある小窓に目を向けた。
彼の頬は心なしか赤くなっており、私もなんだか恥ずかしくなってしまった。
「そろそろ帰ろうか、雨も止んだし。」
私はそう言いながら立って伸びをする。
「うん、そうだね」
少し寂しそうに答えた彼に、小窓から光が降り注ぐ。
紅い光が彼の白い肌を優しくなぞる。
その光景は、先程の雨に打たれた彼とは違った儚さをまとっていた。
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