1月7日 桃野 千秋

 桃野千秋は経済学のテキストの余白に落書きをしていた。

「数学できないから文系進んだのに、なんで経済学にまで数学が出てくんだよ」

 小声で文句を口にしながら、経済学の担当教授、冬柴の似顔絵に皺を描き込む。

 桃野は彩陽大学の文学部国文学科の学生だ。経済学部ではない。教養科目としての経済学だから、桃野が学んでいるのは経済学の初歩の初歩だ。二回目の講義の「需要曲線と供給曲線」までは、簡単な連立方程式も満足に解けない桃野にもすんなりと理解できた。感覚的にわかったからだ。二次関数や微分積分よりもよっぽどわかりやすかったし、実用的に思えた。

 ところが三回目の講義でxというおなじみの未知数や変な式が登場してから、経済学は桃野の手に負えなくなってきた。

 経済学部なのに文学部の教養科目の経済学の講義に出席している夏八木のおかげで、なんとか桃野は前期試験を乗り切った。身も蓋もないことをいえば、桃野は夏八木の解答をカンニングしたのだ。

 夏八木は正規の聴講生ではない。だから、答案用紙を提出するわけにはいかない。階段状の席の教室で、桃野は夏八木のすぐ後ろの席に陣取り、夏八木の答えを丸写ししたのだ。夏八木は答案用紙を出さずにいたのだが、この明らかに不自然な行為が頭のかたい学生に目撃されていた。

 桃野は夏八木の名前を出さず、夏八木が処分されることはなかった。だが、桃野は厳重注意のうえ、両親にまで連絡がいき、レポートが課された。

 今、桃野は一人でペナルティの課題に取り組んでいた。こんなものは夏八木の手にかかれば、一時間で充分、片付くのだが、桃野は自力でのぞむことにした。あまり夏八木に頼って、なにか無茶な要求をされても困ると思ったからだ。

 そもそも、文学部の桃野にしてみれば、教養科目の単位一つを落としてもどうということはない。他にも教養科目は受講している。そのうち、二つの講座で単位を取れば、卒業資格を得られるのだ。

 桃野にとって夏八木は謎めいた存在だった。

 二人とも映画同好会に所属していた。彩陽大の映画‘研究’会のほうは有名だった。映像作家を何人も輩出している。ところが映画‘同好’会のほうは、あまり熱心に活動していない。

 口の悪い学生からは「他校との合コンに熱心なほうの映画サークル」とも揶揄されているほどだ。実際には合コンすらほとんど開催されていない。文化部棟の四階、4018号室で、会員がお菓子を食べながら持ち寄った映画を観るのと、映研出身の業界人に罵詈雑言を浴びせることが生き甲斐としか思えないOBの青山という男性が経営している居酒屋で映画以外の話をするのが主な活動だった。

 文学部の教室にいる夏八木の姿を見かけて声をかけたのは、桃野だった。映画同好会の最初のコンパの自己紹介のとき、夏八木が経済学部だと言っていたから妙だと感じたからだ。

 話を聞くと、夏八木は本当は文学部志望だったらしい。ところが両親と高校の担任の希望で「潰しの効かない文学部」ではなく、「多少でも就職に有利な経済学部」に進むしかなかったと夏八木は語った。

「頼めばよかったかなぁ」

 桃野はスマホのメール作成画面を開いた。

「いや、やめよう」

 桃野はスマホを置いて、分厚いテキストを開いた。


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