1月6日 白井 冬至朗

 白井冬至朗は自転車から降りた。右手だけで片方のハンドルを持って自転車を押しながら、停めておける場所を探す。

 確か小さな公園があったはずだ、と四階建てのマンションの角を曲がった。記憶にあったよりもはるかに狭い公園があった。車の進入を防ぐ柵の間をくねくねと自転車を押して、公園内に入る。トイレの裏手に自転車を置いて、鍵をかけた。

 ママチャリの前カゴから茶色のショルダーバッグを引っ張り出したとき、左足に軽い衝撃を感じた。

 足元に目をやると、軟式野球のボールが転がっていた。

「すみません」

 明るい声のほうに顔を向けた。小学校低学年らしき男の子と女の子が、白井に向かって駆け寄ってきていた。二人よりも早く、白井のもとにたどり着いたものがいた。

 犬だ。

 白い毛のところどころに黒の混じった耳の長い犬が、白井のジーンズの膝あたりに鼻を押しつけてきた。

「ハナ、ダメだよ」

 どうやらハナというのが犬の名前らしい。ハナならメスかな、と白井は思った。

 白井は犬嫌いだった。正確には犬に嫌われていると思っていた。

 それは白井が子どもの頃に住んでいた家の近くに大きなコリーがいて、やたらと吠えられたことが大きい。

 二十歳も過ぎた今なら、それほど大きな犬ではなかったと思えるが、当時の白井にしてみれば、ジョンだかジョナサンだかジャッキーとかいった茶色のコリー犬は、ほとんど自分と同じサイズの化け物だった。

 無邪気なハナに鼻を押しつけられて、白井は妙に嬉しくなった。初めて犬というものがかわいく思えた。愛犬家の気持ちが少しだけわかったような気がした。

 足元のボールを拾って、ボウリングの球を転がすかのように二人の子どもに向かって投げてやった。ボールは公園に敷かれたタイルの通路の凹凸にぶつかり、あさっての方向に進んでいった。

 ハナはボールを追わず、白井の脚にまとわりつくようにしている。

 犬のくせにボールを追いかけないのか、と白井はまじまじとハナを見た。

 やがて少女はやってきて、ハナの体に手を回した。

「ダメだよ。そんなに簡単に人を好きになっちゃ」

 いかにも子どもっぽいピンクの服を着た女の子の口から、三十女のような台詞が飛び出て、白井はおかしくなった。笑わなかったのは、笑っては悪いと思ったからではなく、笑ったら不審者だと思われかねないと案じたからだ。

「ミドリ、なにしてるんだよ、早くハナ連れて戻ってこいよ」

 ボールを手にした男の子が叫ぶ。

「わかってるって。今行くってばアオ」

犬をなでながら少女が声を張り上げた。その言葉にハッとした。

 アオ。

 確かにそう聞こえた。

 それがボールを持って不機嫌そうな顔をしている男の子の名前なのだろう。

 白井は自転車のスタンドのストッパーに足をかけた。

 夏八木蒼の様子を確かめるために夏八木のアパートの近くまで来たのだが、どうしようもなく恥ずかしい気分になっていた。

 夏八木が一月三十一日に死ぬという予知夢をみた。どうにかしなければと日本列島を寒気が襲うなか、自転車を飛ばしてきたのだが、今なにかができるわけでもないことに気づいた。

 かすかだが、夏八木の部屋は公園から見えた。

 カーテンの隙間から夏八木に見られていなければいいなと思いながら、白井は自転車の向きを変えた。

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