第60話 いやだからその起こし方もやめてくれってば

 この年になると、そこまで長時間は寝続けられない。



 久々に普通の夜の時間に寝た亮太が目を覚ますと、部屋の中はまだ暗かった。カーテンの隙間からは朝日が薄っすらと差し込んでいる。


 亮太の胸の前にはコウが気持ちよさそうに寝息を立てていた。まつ毛が長く、少し開いた口は子供みたいで何だか可愛いなあとつい寝顔を見続けていると、コウが薄っすらと目を開けた。


「コウ、具合はどうだ?」


 昨夜はベロベロだった。もし二日酔いでもなっていたら、今日は絵を描くことが出来なくなる。


「水でも飲むか?」


 我ながら過保護だと思うが、でも絵は描きたい。すると。


「……まだ寝る」


 コウはそう言うと亮太の腕に頭を乗せて目を瞑った。すー、と寝息が聞こえてくる。寝ちまった。亮太の腕枕で。


 腕枕自体はしょっちゅう狗神にしているので違和感はないが、何というかその。



 亮太はジタバタしたい要求を必死で抑え込むのだった。



 コウは二日酔いにはならなかった。


 動けなくなって結局二度寝してしまった亮太の顎の下を、腕枕されたままでくすぐって起こすという「お前は新婚さんか」と言いたくなる起こし方で亮太を起こしてきた。


 ゾゾッとしながら半身を起こした亮太がコウに抗議する。


「だからその、コウ、そういう起こし方はな」

「この方がすぐ起きるんだ」


 居候が常に居るのでなかなかあちらの処理が出来ていない状況でゾクッとくる起こし方は是非とも止めて欲しかったが、同じ部屋にアキラが居るのにそういう直接的な表現ではコウに伝えにくい。同じ男なら分かってくれるかなとも思っていたが、どうもコウはそういうところは鈍いのか、分かってくれないのだ。


 亮太は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。全く。


「シャワー浴びてくる」

「分かった」


 亮太は服を持って風呂場に直行することにした。シャワーの水がお湯になるのを待たずに頭から被った。危ねえ危ねえ。


 後で店でモデルになってもらう時にならアキラがいないので、少し注意しておこう。女子中学生にあまり見られたくないものというのはおっさんにだってあるのだ。それを見られて軽蔑されたくはない。


 やはり同居というのは色々と難しいものなのだな、と悩む亮太であった。


 さくっとシャワーを終えてタオルを首に掛けつつ頭を拭いていると、アキラとコウが小声で何か話していた。あまりアキラが誰かと近くに寄って話すのを見たことがないので、新鮮だった。


 亮太が近付くと、明らかに分かりやすく会話を終了した。こうも露骨にされるといい気分はしないが、アキラもコウも神の現身だ。二人の間でしか交わせない会話というのもあるのかもしれなかった。


 亮太は急にタバコを吸いたくなり、勾玉を掛けていなかったことに気付いて台所に取りに戻って首に掛けた。


 急に襲われた欲求に、亮太は愕然としていた。まだ、全然駄目だった。苛々するとやはり吸いたくなる。


 そして不意に疑問を覚えた。



 一体何に苛々してるんだ?


「亮太、私もシャワーを浴びてきたら店に行こう」


 コウが亮太にそう笑いかけてきた。


「あ、ああ」

「待ってて」


 コウが風呂場に消えていった。その後を亮太は目で追っていた。


 足元にとことこと歩いてきた狗神が亮太を見上げて尋ねる。


「亮太? どうされました?」

「あ、いや、別に」

「まだ昨日の疲れが残っているのでは」


 心配させてしまったらしい。亮太はしゃがむと狗神の頭をわしゃわしゃと撫でながら笑った。


「疲れる程のことはしてねえよ。ちょっとな、分からなくなっただけだ」


 撫でられるとつい手に頰を傾ける狗神が、片側の目を閉じながら聞き返してきた。


「分からなくなった? 何がです?」

「俺もよく分かんねえよ」


 何に苛々するのか、何にモヤモヤしているのか自分でもさっぱり分からなかった。だが、誰に対してなのかは分かっていた。


 コウだ。怒ったと思ったら急にご機嫌になって笑ったり、本当によく分からなくて、亮太は振り回されっぱなしなのだ。


 自分がどうしたいのかも分からないしコウにどうなって欲しいのかも分からない。ぐしゃぐしゃだった。


 アキラも狗神もみずちとも、出来ればずっとずっと繋がっていたい。勿論コウにも幸せになってもらいたい。


 だが亮太がそんなことを思っていい程の縁だろうか。結局はそこに思考がぐるりと一周して戻る。

 そういう時はどうするか。



 絵を描くのだ。



 昨夜に降り止んだ雨は今日はもう降ることはなく、窓から差し込む秋の日差しが今日もコウのほっそりとした横顔に陰影を刻む。


 いつも、どこの色を一番に入れようかと暫く悩む。この悩み自体も何年振りだか分からないが、もう感覚はすっかり戻っていた。


 筆が新品なので筆に慣れるまで少し時間はかかるだろうが、でも指はこの感覚を忘れてはいなかった。


 後でしっかりと落とさないと、飲食業に汚れた指はあってはならない。それは分かってはいたが、でも最初のひと塗りは決まっていたのだ。右手の薬指。キャンバスのコウの頬のラインに一筋、入れた。これが全体のベースとなる。


 薄い色を全体に伸ばせとか色々あるが、亮太のやり方はこれだった。真ん中の色合いとなる一筋を入れ、そこから明るい色、次いで濃い色を入れていく。迷ったらここに戻る、そうすると見失っていた色を思い出すのだ。


 アクリルの良いところは、油絵の具と違って色を重ね易いところだろう。違ったな、そう思ったら上書き出来る。亮太の様にどんどん足したくなるタイプにはこっちの方が向いているだろうと思う。


 キャンバスの裏に、コウの名前を題名として書き入れた。コウの苗字は吉永だそうなので、吉永光がフルネームだ。何とも有り難そうな字面である。ちなみにアキラは岩倉だった。どうして誰も苗字を言わないんだと思ったが、恐らく亮太が聞かなかったからだろう。


 今度は筆を使って肌の色を乗せていく。コウの肌は綺麗だから、自然と筆もなめらかに滑らせる。懐かしくも手に馴染んだこの感触に、亮太の耳の後ろから後頭部、そして背中にかけてゾクゾクしてきて、快感だった。


 コウの腕に絡むみずちがコウを見上げ、そして腕にスリ、と顔を付けていた。余程嬉しいのだろう。みずちにくっつかれたコウの顔を順に見る。顎に力が入っている。何かを我慢しているかの様な力の入れ方だ。


「コウ、どうした?」


 トイレでも我慢しているのだろうか。


「いや、つい笑ってしまいそうになって」

「? 何か可笑しいか?」

「そうじゃないんだけど」

「じゃあ何だよ」


 話しつつも亮太の手は止まらない。コウの首を描いていく。そうだ、背中を見せてもらいたかったんだった。それに、起こし方についてもまだ注意していなかった。


「内緒」

「何だよそれ……まあいいや、コウ、一つ、いや二つお願いがあるんだけど」

「何だ」


 嫌な方から済ませてしまおう。亮太は嫌いな物から先に食べてしまう派なのだ。


「起こし方。起こしてくれるのはいいんだけどよ、ああいう起こし方はちょっともう止めてくれ」


 するとコウがこちらを向いた。


「何で?」

「あ、ほら背中背中」

「あ、悪い」


 コウがまた背中を向けた。ああもう何でこんな説明をしないといけないんだ。亮太は恥ずかしくなってきた。


「お前も男なら分かんねえか? ああいうことをされるとつい反応しちまうんだよ」

「反応……?」

「うちにはアキラっていう女子中学生がいるだろ? 万が一硬くなってんのを見られてみろ。俺は恥ずかしくて死ぬし、アキラがごみを見る様な目で俺を見るのがありありと目に浮かぶんだよ」

「あ……」


 するとコウが黙り込んでしまった。よく見ると耳が赤い。何でこいつが照れてるんだ、恥ずかしいのは亮太の方なのに。要は今朝のコウのあれで反応してしまったと白状させられているのは亮太の方なのだから。


「な? だから普通の起こし方にしてくれ」

「……分かった」


 コウの目が窓の奥に向いてしまった。本当はこちらに戻したかったが、亮太も今だけはちょっと直視出来ない。だからそのままにしておいた。


「……もう一つは?」


 そうだ、それだ。絵を描いてるとつい自分の世界に入り込み過ぎて片っ端から忘れてしまう。


「そうそう、背中を見せて欲しいんだ」


 すると、コウの全身に力が入った様に見えた。

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