エピローグ

 公暦百年。アールクヴィスト大公国にとって大きな節目を迎えたこの年の秋。マチルダ・アールクヴィストは浮かない表情で大公家の屋敷の自室にいた。


 マチルダは今、十九歳。建国の父ノエイン・アールクヴィストの再来とも呼ばれる才人で、大公家の歴史において大きな意味を持つ「マチルダ」の名を継いだ初めての人間で、そして来週には、大公国の歴史において初めての女性君主となる。


 建国当初から今もなお発展を謳歌するアールクヴィスト大公国の頂点に、若くして立つ。それにふさわしいと誰からも見られている。そのことに、しかしマチルダ自身は重圧を感じていた。


 本来は、これほど早く大公の位を継ぐ予定ではなかった。マチルダにもそのつもりはなかった。


 しかし、元々あまり身体の強くなかった父が重い肺炎を患ったことをきっかけに君主であり続けることを断念し、四十歳を前にして隠居することになったため、継嗣で才覚も申し分ないと見られたマチルダは、予定より十年以上も早く家督を継ぐことになったのだ。


 公暦百年を迎えたことを祝う、先日の式典。そこで民に向けて言葉を語ることを最後の晴れの場とし、父は隠居を決めた。


 それはいい。マチルダも父に寿命を削ってまで無理はしてほしくない。この式典を終えたら自分が家督を継ぐとマチルダ自身も昨年には決意し、周囲にそれでいいと言った。


 しかし、いざ自身が次代のアールクヴィスト大公となる日が迫ってくると、やはり心が重くなる。


 豊かで平和なアールクヴィスト大公国。建国の父ノエインが、この地に暮らす全ての者のために、その子孫たる自分たちのために築いた理想郷。それを守り抜いていくという重大な使命を一身に背負うのは、十九歳の小娘にとってはひどく恐ろしいことに感じられた。


 ノエイン・アールクヴィスト。無尽蔵の愛で一族を、臣下を、民を包み込んだ、今もなおその愛で大公国を守る、偉大なる建国の父。大公国の誰もが心から敬愛する、現人神に等しい偉人。


 多少賢いことを理由に彼の再来などともてはやされる自分は、果たして彼のような偉大な君主となれるのだろうか。いや、なれないだろう。とても自分がそんな器とは思えない。自分は現人神ではない。ただの弱い人間だ。


 だからこそ、マチルダは怖かった。この段になっても覚悟が決まらず、しかしそのことを誰にも言えずにいた。


「マチルダ、いるか?」


 自室の窓から公都ノエイナの街並みを眺め、陰鬱な気持ちを抱えていたマチルダを呼ぶ声がした。扉の向こうから聞こえるその声は、来週に大公の位を退く父のものだ。


「……はい、父上。どうぞ」


 扉を開けて部屋に入ってきた父は、マチルダの顔を見て微苦笑する。


「最近、お前の顔が暗いと聞いてな。やはりその歳で大公の位を継ぐのは憂鬱か」


「……いえ、そのようなことはありません。光栄に思っていますし、偉大なるノエイン様のような良き大公になろうと決意を固めています」


 笑顔を作って言ったマチルダの言葉を、しかし父は丸ごと信じてはくれなかったらしい。マチルダの隣に座った父は、娘の頭を優しく撫でる。


「お前にはまだまだ時間があったはずなのに、私の身体が弱いせいで可哀想なことをしてしまうな……だが、お前が感じているその重圧も、これを読むことで少し楽になることを願っている」


 そう言って父がテーブルの上に置いたのは、一冊の古びた書物だった。いや、書物と呼べるものなのかも分からない。紙の束の端に穴を開けて紐で束ね、表紙となる羊皮紙で挟んだだけの代物だ。


「父上、これは?」


「建国の父――ノエイン様が遺された手記だ」


 それを聞いたマチルダは目を見開いた。ノエイン・アールクヴィストについて記録した書物は、彼の正妻で建国の母であるクラーラが記した伝記と、ノエインの功績について様々な証言をまとめたいくつかの資料集があるのみ。ノエイン自身が手記を綴ったという話は聞いたことがない。


 マチルダの驚きを察したのか、父はさらに言葉を続ける。


「お前が知らなかったのも無理はない。これを読むことを許されているのは、大公の位を継ぐ者と、その配偶者となった者だけなのだからな。これの内容や存在を他言することは、ノエイン様の遺言によって固く禁じられている。たとえ大公の継嗣であっても、その者が位を継ぐことがまず間違いない段階になるまでは読ませるな、と念を入れて語られたほどだという」


「……それは、一体どれほど重要なお話が書かれて……」


 息を呑むマチルダを見て、父は小さく吹き出した。


「ノエイン様がそのような遺言をされたのは、これに重要な話が書いてあるからではない……いや、ある意味では他の何より重要な話かもな。ノエイン様がごく一部の者にしかこれを読ませたがらないのは、これを読まれることを、ひどく気恥ずかしいと感じておられるからだ」


 気恥ずかしい。重要書物の話題でそんな言葉が出てきて、マチルダは怪訝な表情を父に向けた。


「とにかく、読めば分かる。お前なら数日もあれば余裕をもって読みきれるだろう」


 父はもう一度マチルダの頭を撫で、部屋を去っていった。


 父の奇妙な言動に首を傾げながら、マチルダは父が置いていったノエイン・アールクヴィストの手記を手に取る。


 そしてページをめくり、読み始める。


 それから二日半かけて、マチルダは建国の父ノエインの人生の回顧を、彼の心情がありのままに綴られた書物を読んだ。読み始めたらページをめくる手が止まらず、食事と入浴と睡眠以外の時間を全て使って、父から書物を受け取った翌々日の午前には隅々まで読みきってしまった。


 書物を閉じたマチルダは、呆然とした表情でしばらく固まり、


「……あははっ」


 そして、笑った。


 手記に書かれていた内容は、確かにどんな国家機密より重要なものだった。同時に、ノエインが読まれるのを気恥ずかしいと感じている理由も分かった。


 書物には、ノエインの行いとともに、ひたすらに彼の赤裸々な感情が綴られていた。


 今年の建国記念日にはこういう演説をしたが、どうだっただろうか。民からの敬愛を高めることはできただろうか。


 この施策の結果はこうなった。臣下たちがそれに満足し、自分への一層の敬愛を感じていることを願う。


 今日は子供たちにこういう言葉を語った。子供たちに自分の愛は伝わっただろうか。


 街に視察に出て、こういう振る舞いをした。きっと良き君主らしく見えたはずだ。これでまた民の敬愛を維持することができるだろう。


 今日は珍しくこういう失敗をした。皆に愛され続けるために、次はもっと気をつけなければ。


 そんな話ばかりだった。呆れるほど、笑ってしまうほど、ノエインは周囲から自分が愛されることに、自分の愛が伝わっているかどうかにこだわり、気にしていた。


 そうした感情の暴露と併せて彼の君主としての施策を見ていくと、彼の治世への印象も変わってくる。


 間違いなく、ノエイン・アールクヴィストは偉大な君主だった。建国の父だった。彼の施策はどれも家族や臣下や民を愛するが故のもので、実際にそれは家族や臣下や民の幸福に繋がっていた。それは変わらない。


 しかし、その裏でノエインは、臣下や民から愛されることに懸命だった。ある意味で彼は、究極的に利己的で自己中心的だった。彼は愛されたかったのだ。自身の庇護下にある家族に、臣下に、民に。


 彼の行動は全て、そのためのものだった。何ともひねくれていて、性格が悪くて、それでいて何とも人間らしい。現世に降臨した神のように語られ、今もなお敬愛を集めるノエインもまた、聖人君子ではない一人の人間だったのだ。


 読まれたくないはずだ。彼はこの心情を知られたら、皆からの愛が失われてしまうと思うだろう。実際はそんなことはないであろうが。


 そして同時に、彼は誰かには知ってほしかったのだろう。自分が本当はどういう人間だったのかを。ノエインは自身の心情を知ってもらう相手として、自身と同じ立場に立つ子孫たちを選んだ。その配偶者にもこれを読むことを許したのは、彼が二人の妻――クラーラとマチルダに生涯心を開き続けたからだろう。


「……」


 マチルダは自室を出た。使用人に魔導自動車を出させ、一万人が生活を営む公都ノエイナの通りを抜け、公都の北西にある丘――大公家の一族が眠る墓所へと赴いた。


 公都ノエイナを見渡せる、人工的な丘として作られたこの墓所。その頂上で、建国の父たるノエイン・アールクヴィストは悠久の眠りについている。安らかに眠りながら、自身の築いた大公国の中心たる公都を今も見守っている。


「……ノエイン様」


 一人で墓所に入ったマチルダは、ノエインの墓標の前にしゃがみ、墓標にそっと手を触れ、建国の父に語りかける。


「あなたの手記を読みました。あなたは……偉大なあなたでも、この地を治める者として悩みながら、日々を送っていたのですね」


 マチルダは微笑を浮かべる。数日前までどこか畏怖の念を抱いていた建国の父が、今はとても親しみやすい存在に思えた。


「私も不安を抱いています。恐れを感じています……ですが、それでも大公国の主として前に進んでいけるのだと、あなたの遺した言葉に教えていただきました。だから私も、あなたのように大公として歩みます。あなたのように皆を愛し、この国を守り、そして次代に受け継ぎます」


 そう語りながら、マチルダはノエインの墓標と、その左隣に寄り添うように並ぶ建国の母――クラーラの墓標を見つめた。


 マチルダは近いうちに夫を迎え、世継ぎを生す。マチルダはノエインのような君主を、そしてクラーラのような国母を目指す。


 二人の墓標を前に静かに祈ったマチルダは、ノエインの墓標の右隣に佇むように立てられた、マチルダの墓標を最後に向く。


 彼女はノエインが世を去る少し前、ノエインとクラーラの願いを受けて奴隷身分から解放され、正式にノエインの妻となった。生涯をノエインの忠実な従者として、ノエインの一部として生きた彼女は、今はノエインの伴侶の一人として、ノエインの隣で眠っている。


 彼女はマチルダの名前の由来となった。今から二十年前、マチルダの亡き祖父が大公国において奴隷制度を廃止し、全ての奴隷を解放する法を施行したことを記念し、祖父にとっての初孫にマチルダの名前が受け継がれた。


「マチルダ様」


 マチルダは、自身の名前の由来となった兎人の女性の墓標に、力強い声で呼びかける。


「私はあなたの名前をいただきました。この名前と共に、あなたの意思も受け継がせていただきます。あなたが生涯をノエイン様に捧げたように、私はこの生涯をアールクヴィスト大公国に捧げます……だからどうか」


 見守っていてください。


 そう語り、マチルダは立ち上がる。振り返り、公都ノエイナを見渡す。


 ここは理想郷だ。建国の父が、ノエイン・アールクヴィストが築き上げ、彼の遺志を継ぐ一族が守り抜いてきた、幸福の園だ。


 一歩踏み出しながら、マチルダは心に誓う。これからは自分が守るのだ。この地を。この地に受け継がれてきた理想を。歴史を。


 この地に生きた彼らの時代から、連綿と続く物語――幸福譚を。




★★★★★★★


これにて『ひねくれ領主の幸福譚 性格が悪くても辺境開拓できますうぅ!』のWeb版本編は完結となります。

450話以上、字数にして180万字以上の長きにわたってノエインたちの物語をお読みいただき、本当にありがとうございました。

ここまで書ききることができたのは、偏に読者の皆様に支えていただいたからこそです。心よりお礼申し上げます。


ここからは今後のお話を。

Web版本編は完結となった本作ですが、今後もノエインたちの後日談などを時々更新できたらいいなと思っています。

おそらくかなりのスローペースかつ不定期更新で、特に明確な終わりも定めないかたちとなりますが、更新された際はお付き合いいただけますと幸いです。


そして別作品の話にはなりますが、現在『ルチルクォーツの戴冠』という作品を連載中です。

平民から小国の君主になってしまった青年が生き抜いていく戦記・内政ものです。よろしければこちらもチェックしていただければと思います。


引き続き、エノキスルメの小説をどうぞよろしくお願いいたします。

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