第434話 オストライヒ陥落

 王暦二二六年(アールクヴィスト大公国の公暦では七年)、七月十九日。午前。


 ベトゥミア共和国軍の侵攻部隊はロードベルク王国沿岸部オストライヒに到達し、上陸を開始した。


 侵攻部隊の輸送船が遠く沖合に見えた時点で、オストライヒでは至急避難を指示する鐘がけたたましく鳴らされ、住民と日雇い労働者を併せたおよそ三千人が避難。以前より非常時の避難計画が立てられていた上に、この一週間ほどはベトゥミア共和国軍の侵攻を警戒するよう警備隊上層部に伝達があったため、逃げ遅れる者はいなかった。


 非戦闘員が逃げ切った後、その避難誘導のために発った少数の若い兵士を除く警備隊およそ百余名は、オストライヒ市街地の広場に集結していた。


 都市の南端、港の方では既にベトゥミアの侵攻部隊が上陸を開始している。敵が最も警戒しているのが上陸の瞬間。港で迎え撃とうとしても、矢や攻撃魔法によって簡単に殲滅されるのは明らかなので、警備隊は市街地戦闘を行う。


 この戦闘を指揮するのは、王国南西部の一角に領地を持つヴォルテル・バチェリコフ男爵。彼は領地の戦後復興が一段落した時点で領地運営の実務を嫡男に譲り、自ら志願してこのオストライヒ警備の任を国王オスカーより拝命している。


 彼と、彼の部下たちが生きて戦闘を終えることはない。全員が死ぬまで戦い、ここで玉砕を遂げる。


「……ようやくこの日が来た。この日を待っていた」


 集結した警備隊の先頭に立って騎乗し、ヴォルテルは呟く。


 バチェリコフ男爵領は、王国南西部の中でも南寄り、アハッツ伯爵領に隣接する位置にあった。先の大戦でベトゥミア共和国軍の侵攻を受けた際、ヴォルテルも家族もまだ領内にいた。そして、敵の侵攻部隊に捕えられた。


 バチェリコフ男爵領を占領した兵士たちは、侵攻部隊の中でも特に質の悪い連中だった。そんな者たちに捕えられた、地元の領主一族がどんな目に遭わされるか。おおよそ世間の想像する通りの残虐な所業を受けた。


 ヴォルテルの妻と二人の娘は、領民たちが集められた領都の広場で、ヴォルテルも見ている前で、数十人の敵兵によって想像を絶する暴行を受けた。あらゆる尊厳を踏みにじられ、最後は吊るされた。服どころか布の一枚さえかけられていない死体は、終戦近くまで広場で晒され続け、腐り朽ちていった。


 そして、ヴォルテルに片目はない。片耳も、手足の指も何本か失われている。腕には肉を抉られた傷が、鎧に隠された身体には火傷の跡がいくつも残っている。敵兵はヴォルテルを殺すことなく数か月にわたっていたぶり続け、侵攻部隊主力の敗走に合わせて逃走していったのだ。


 戦後、ヴォルテルは死のうと思った。しかし、死の危険を前提とした沿岸部警備の任があると知り、志願した。憎悪すべきベトゥミア共和国軍と再び戦う可能性が僅かでもあるのならと思い、ベトゥミアの兵を一人でも殺せればと思い、志願した。


 そして、ヴォルテルの悲願は今日叶う。


 ヴォルテルは馬を操り、後ろを振り向く。これから共に玉砕する百余名の警備兵たちを見回す。


 彼らもまた、先の大戦でベトゥミア兵たちに深い恨みを抱いた者たちだ。ヴォルテルほど壮絶な経験をした者は少ないが、誰もが家族を目の前で失い、そのときの光景が脳裏にこびりつき、もはやその光景から逃れられないでいる。


 その表情は様々。死んだ目をした者もいれば、燃えるような憎悪を目に浮かべている者もいる。しかしやはりというべきか、ついに訪れる死を前に、さすがに震えている者も多い。彼らの多くは元々ただの平民で、これが初めての実戦なのだから、仕方のないことだ。


「大丈夫だ」


 震えている者たちに向けて、ヴォルテルは言った。


「何も恐れることはない。我々はこれから、愛する者のもとへ向かうだけだ。仇は討ったと、敵に一矢報いたという土産話を手にして、愛する者と再会するだけなのだ」


 ヴォルテルの声は、自身でも驚くほどに優しく響いた。それを聞いて、震えていた者たちの表情も見違えて落ち着いていく。


 これから侵略者と戦い、散っていく百余名。しかしその様は死地に赴く兵士のものではなく、まるで巡礼の旅に出る信徒のように静かで、穏やかだった。


「閣下、敵が見えました」


 今日までヴォルテルの副官を務めてくれた、南東部の貴族領の元従士だという初老の男が言った。それを受けてヴォルテルが前に向き直ると、広場から延びる通りの先に、確かに敵侵攻部隊の先遣隊が見えた。


「全軍突撃用意。いいな、事前に説明した通りだ。私たち先頭の三十人ほどが死んだところで市街地内に散開し、遊撃戦に移れ。時間を稼ぎ、こちらが本気で抵抗していることを敵に示せ。捕虜にはなるな。捕まる前に死ね……では諸君、往こう」


 軽やかな感覚を覚えながら、ヴォルテルは剣を抜いた。後ろでは、剣や槍、戦斧を構える兵士たちの、鎧が擦れ合う音が聞こえた。


 この世でやり残したことはない。領地は、先の戦争時には王都にいたために無事だった息子が継いでくれる。


 息子は母親と妹たちの凄惨な最期を話に聞いてはいるが、直接見たわけではない。息子ならばまだ、この世でやっていける。息子が王都から連れてきた嫁もいる。夫婦揃って、これからも領地を守ってくれるだろう。


 自分たちの死は無駄ではない。自分たちが全力で戦って死んで見せれば、敵はこちらの作戦に気づくことなく上陸を完了し、進軍を続ける。そして、最後にはそんな愚かな敵をこちらの主力が殲滅してくれる。


 ロードベルク王国側の防衛計画はヴォルテルも聞いた。春先に王城に呼ばれ、国王オスカーから直に説明を受けた。必ず仇を討つと、自分たちの死を礎にしてくれると、国王が一男爵である自分の肩に手を置いて語りかけてくれた。


 今日まで極秘だったこの計画を、先ほど、兵士たちにも明かした。


 憎きベトゥミアに報いを受けさせる。そのための壮大な戦いの第一歩を自分たちが刻むのだ。自分たちにとって、これ以上を望むべくもない最期だ。


「前進」


 ヴォルテルの静かな命令を合図に、百余名の警備隊は敵に向けて走り出す。


「……待っていてくれ。これから私もそっちへ行く」


 妻と娘たちに向けた、誰にも聞こえないその呟きが、ヴォルテルの生涯最後の言葉だった。


・・・・・


 ベトゥミア共和国軍のロードベルク王国侵攻部隊。その第一陣の先遣隊は、七月十九日の午後にはオストライヒを完全占領した。


 そして夕刻。後続の兵や士官、将官、さらに各種の物資が次々に上陸し、司令本部の設置が進んでいた。


 上陸した一団の中には、今回の侵攻作戦の司令官もいた。


「司令官閣下、報告いたします。敵警備隊の死者数は一〇六人。生存者はおりません……全員が投降することなく戦い、捕えようとした者にも自害されました。申し訳ございません」


 オストライヒの行政府だった建物を使った司令本部。その会議室にて部下たちと軍議を行っていた司令官ドナルド・パターソン将軍に、士官が敬礼しながら告げる。


「……そうか。致し方あるまい。死ぬまで戦うと決めた敵を捕らえるのは極めて難しい。敵が勇敢だった、それだけのことだ」


 先遣隊の指揮官の一人であった士官を、ドナルドは叱責しなかった。


 わずか百余名で玉砕するとは、さすがに要所に配置されただけあって士気と忠誠心の高い精鋭か。内心でそう考える。


「軍議を続ける。第一陣の上陸は、予定より早く進んでいるのだな?」


 士官を下がらせたドナルドが言うと、それに部下である大軍団長の一人が頷いた。


「はっ。敵の抵抗が少数の警備隊によるもののみであり、オストライヒ住民は全員が避難していたため、都市制圧が予定より半日ほど早く済みました。明日までかけて第一陣の兵力と物資を船から降ろす予定でしたが、この調子でいけば、明日の午後には街道を使って北へと最初の部隊を進軍させることが叶うでしょう。敵の王都リヒトハーゲンまでの進軍にかかる時間を短縮することができます。それでよろしいでしょうか?」


「……いいだろう。ただし、無茶はさせるな。王都リヒトハーゲンまでの道程を阻む敵戦力がどの程度かは不明だ。部隊を突出させすぎることなく、後続の本隊との連携を維持させろ」


「かしこまりました」


 その後も軍議は続き、今後の作戦計画があらためて確認される。


 第一陣の正規軍による精鋭三万は、このオストライヒを拠点に準備を整え次第、二千から五千ほどの部隊に分かれて順次出発。街道を通って北へと進む。


 敵の抵抗がどれほどあるかは不明だが、オストライヒからリヒトハーゲンまでは大都市はない。七年前からその状況は変わっていないと諜報員から確認もとれている。ロードベルク王国の国力を考える限り、数千の部隊で勝てないほどの抵抗は起きないと見られている。


 そうして第一陣が進軍する一方で、一週間以内に到着する予定の第二陣、さらに第三陣が上陸し、橋頭保たるオストライヒの守りを固める。後続のうち二万は王都侵攻の増援として第一陣の後に続き、オストライヒや侵攻路の東西の守りにそれぞれ一万を、オストライヒ周辺の占領維持と主力への補給任務に一万を充てる。


 今のところ、この作戦は計画通り、むしろ当初の計画以上に迅速に遂行される見込みだった。


「では司令官閣下、引き続き作戦を進めてまいります」


「……分かった。各自、役割を果たしてくれ。共和国の崇高なる理想のために」


「「「はっ!」」」


 それぞれの職務のために部下たちが退室していった後、ドナルドは会議室に残って小さく息を吐く。


「閣下、お疲れさまでした」


「ああ」


 若く有能な副官に声をかけられて、ドナルドはため息交じりに答える。


 この侵攻作戦が上手くいくと、ドナルドには思えなかった。


 今はいい。初撃の勢いに乗っているうちはいい。しかし、問題はこの先、敵の王都リヒトハーゲン攻略だ。前回は五万の兵力を以て落とせなかった。それなのにどうして、また五万の勢力で攻めて今度は上手くいくと信じられるものか。


 敵とて馬鹿ではない。再び侵攻される可能性を考え、その日に備えて防衛計画くらいは立てているであろう。どこかの段階で、大規模な反撃を仕掛けてくる。


 そうなると厳しい。ロードベルク王国はベトゥミア共和国より規模も文明力も劣るが、弱くはない。むしろ、敵の貴族には粒ぞろいの有能な逸材がおり、兵士たちも自分の土地や家族を守るために血気盛んに立ち向かってくる。それを、前回の侵攻で西部侵攻部隊の指揮官だったドナルドは身をもって知っている。


 前回の侵攻時はドナルドの部下だった、今はベトゥミア共和国軍の最高指揮官に据えられたアイリーン・フォスター。


 若き逸材だと思っていた彼女が、富国派の現政府に媚びてこのような粗末な作戦を立て、実行し、その現場指揮をドナルドに押し付けて自身は平和な本国に居座っているとは。ドナルドは彼女への失望を覚えながらここにいる。


 これはただの、政治のための戦争だ。現政府が、権力者たちが延命を成すためだけの戦争。そのために自分たち職業軍人が、そして国民から志願した兵士たちが死ぬ。


 しかし、止める術はない。この再侵攻を決定した現政府を選んだのも、そもそも再侵攻を望んだのも、世論誘導されたとはいえ国民たち自身だ。正当な手続きがなされた以上、政府に従う立場である共和国軍人の自分たちは、与えられた命令を遂行するしかないのだ。


 前回の侵攻の総指揮を務めたチャールズ・ハミルトン将軍も、きっとこのような気持ちだったのだろう。ドナルドは早くも徒労感を覚えている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る