第十七章 決戦
第424話 尊い平和
ロードベルク王国北部からアールクヴィスト大公国にかけてのヘルツゲンハイム病の流行は、公暦五年の晩夏には完全に収束した。
そして、その年の秋以降、さらに翌年である公暦六年、アールクヴィスト大公国は平和を享受した。
大公国だけではない。ロードベルク王国も、ランセル王国も、さらにはレーヴラント王国をはじめとしたレスティオ山地以北の国々も、多くの国々が穏やかな時を過ごした。
ロードベルク王国と東のパラス皇国の国境では何度か小競り合いが起こったが、それは両国においては日常茶飯事。大規模な衝突がなかった以上、平和だったと言って過言ではない。
アールクヴィスト大公国の君主であるノエインも、一年以上にわたるこの平和を享受した。まるで夢のような、あるいは何か大きな出来事の前触れのような平和を、存分に楽しんだ。
そして、公暦六年、ロードベルク王国の王暦に直すと二二五年の十二月。ノエインは王国北西部閥の年末の晩餐会に招待され、ベヒトルスハイム侯爵領の領都ベヒトリアを訪れていた。
「アールクヴィスト大公閣下、ようこそ我が屋敷へ。それにフレデリック・ケーニッツ殿もよく来てくれた」
「ご招待ありがとうございます、ベヒトルスハイム卿」
「今宵はお世話になります」
晩餐会の夜。侯爵家の屋敷に到着したノエインと、大公家の馬車に乗り合わせたフレデリックを、ジークフリート・ベヒトルスハイム侯爵が出迎える。
侯爵家の主である彼がわざわざ寒い玄関先まで出迎えに降りてきたのは、爵位としては格上であるノエインを重んじていることを態度で示すため。フレデリックが大公家の馬車に同乗していたのは、アールクヴィスト大公家とケーニッツ伯爵家がそれほど親しい間柄であることを行動で示すため。貴族社会ではこうした行動の一つひとつに、何らかの意図が含まれる。
「さあ、外は冷えます。中へお入りください。広間には既に多くの貴族が到着しております」
ジークフリート自らの案内で、ノエインたちは晩餐会の会場である屋敷の広間に向かう。
扉を抜けて広間に入ると、嫌でも貴族たちの注目がノエインに集まった。
正式にはもはや北西部閥の一員ではないが、地理的にも経済的にも、北西部閥と未だ強い繋がりを持つアールクヴィスト大公国の主。王国北西部とランセル王国の貿易の要衝を領土に持つ重要人物。一代で木っ端貴族から国持ちの大貴族へと成り上がった成功者。
そして、「ワイバーン殺し」「オークカイザー殺し」「ベゼルの悪魔」など様々な異名を持つ偉人、あるいは異常者。
それがノエイン・アールクヴィストだ。ノエインの登場に意識を向けない者はいない。
自身に向けられる視線を気にせず、ノエインは広間の中に進み入る。ノエインの傍らには、いつものようにマチルダが控えている。
こうした北西部閥の社交に集まる顔ぶれは、ノエインがまだ士爵として派閥に加わった当初と比べると多少変わり、全体的には若返った。年老いて継嗣に家督を譲った、あるいはその準備を始めた者が少なくないためだ。
例えば、ノエインの派閥加入時点で老人だったアントン・シュヴァロフ伯爵などは既に家督を息子に譲り、自身は隠居生活を謳歌しているそうで、もうこの場にはいない。派閥盟主であるベヒトルスハイム侯爵も、間もなく自身の後を継ぐ娘エデルガルトを連れて彼女が会話の主役になるよう立ち回っている。
そんな中で、見知った顔ぶれもある。
「アールクヴィスト大公閣下、お久しぶりにございます」
「これはマルツェル卿。お元気そうで何よりです。一年ぶりですね」
フレデリックと一旦別れたノエインは、歩み寄って挨拶の言葉をかけてきたエドムント・マルツェル伯爵に笑顔で応える。
知り合った当初と比べると、マルツェル伯爵のノエインに対する態度は別人のように柔らかくなった。ノエインが実力で彼の敬意を勝ち取ったからこそだ。
「いかがでしたか、今年一年は?」
「そうですな……穏やかだった、としか言いようがありません。もちろん平和であるに越したことはありませんが、武を重んじる貴族としては少々退屈でした」
「あはは。確かに、マルツェル卿にとっては物足りない年となったかもしれませんね」
ノエインは微苦笑で答える。
マルツェル伯爵の言う通り、この一年は特に何事もなく、ただひたすらに平和だった。ここ十数年、毎年何かしら特筆すべき出来事が起こっていたのが嘘のように。
ノエインも、大公国にほとんどずっと引きこもって、昼は臣下たちと共にその理想郷のさらなる発展に努め、夜や休日は家族と穏やかに過ごした。時おり社交で国を出ることもあったが、どの社交も極めて穏やかなものだった。
これぞ人生の理想形。こんな日々が、こんな年がずっと続けばいい。心からそう思った。
「アールクヴィスト閣下! お会いしたかったですぞ」
「お久しぶりですね、閣下」
ノエインとマルツェル伯爵が話していると、そこへトビアス・オッゴレン男爵とノア・ヴィキャンデル男爵もやってくる。信頼できる友人たちを前に、ノエインも心からの笑顔を見せる。
平和な一年を締めくくる晩餐会の時間は、和やかに過ぎていく。
・・・・・
「アールクヴィスト閣下、お呼び止めして申し訳ない」
「いえ、他ならぬベヒトルスハイム卿のお誘いですから」
晩餐会もお開きとなった夜更け。フレデリックとともに宿に帰ろうとしていたノエインは、ベヒトルスハイム侯爵に呼び止められた。「少し話したいこともあるので、よければ二人で軽く飲み交わさないか」と言われて。
それが単なる誘いではなく、何か重要な用件があるのだと気づかないほどノエインも鈍くはない。表向きは気楽に、内心では身構えて誘いに応じ、今に至る。
「ひとまず、一杯どうぞ。これはガルドウィン侯爵領より取り寄せた最上級のワインです」
「ありがとうございます。私的な席ですから、どうぞ気安くお話しください。昔のように」
「……では、そうさせてもらおう」
杯にワインを注がれながらノエインが言うと、ベヒトルスハイム侯爵は頷いた。
ノエインはワインをひと口飲み、無難な感想を語りながら、思考する。
案内されたのは小規模な社交用の一室。室内にはノエインとその従者であるマチルダ、ベヒトルスハイム侯爵、そして護衛を兼ねて彼の後ろに控えるエデルガルトだけ。
継嗣であるエデルガルト以外の供を連れていないことからも、これから語られるのがよほど機密性の高い話だと分かる。
「それで、ベヒトルスハイム卿。お話というのは?」
少しの間たわいもない世間話をした上で、ノエインは尋ねる。
ベヒトルスハイム侯爵はワインの杯を置くと、小さく咳ばらいをして、部屋の扉が閉じられていることをあらためて確認してから口を開いた。
「オスカー国王陛下より、王都リヒトハーゲンへと赴くようノエイン・アールクヴィスト大公に伝えろと、極秘の王命が届いた。年が明けてからすぐに、なるべく早くと」
「……極秘の王命ですか。それも年明けすぐにだなんて、なんとも穏やかではありませんね」
ノエインは笑みを浮かべるのを止めて答える。
「おまけにベヒトルスハイム卿がわざわざ私に対面で伝えるということは……」
「ああ、卿が王都に赴くことを、世間に知られることが極力ないようにしろとのことだ。王家直属の伝令がわざわざベヒトリアを訪れて、口頭で王命を伝えてきた。ここまで情報漏洩対策を行うということは……何かよほどの事態に違いない」
アールクヴィスト大公が王に呼ばれたと、世間に知られたくない。重要人物を極秘に呼び寄せなければならない用件がある。
きっととんでもない面倒ごとが待っているのだろう。そう思ったノエインは、ため息を零した。
「もしかしたら、この平和な日々も終わりかもしれませんね」
「ははは、そう悲観するな。まだ陛下のご用件は聞いていないのだから」
「わざわざ隠れながら来いだなんて、よほど面倒な話をするのでなければ陛下も仰らないでしょう。後で落胆が大きくならないように、今のうちにがっかりしておきますよ」
ノエインは若干拗ねた素振りを見せながら、ワインを口にした。
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