第423話 英雄
アールクヴィスト大公国は賭けに勝った。
全ての感染者を医院に詰め込み、新たに発生した感染者も片っ端から収容し、およそ二週間で新規感染者はいなくなった。
それからさらに三週間ほどで、医院に収容された感染者も全員が回復し、あるいは死んだ。
ロードベルク王国北西部も感染は収束に向かいつつあるが、未だ流行が終わったとは言い難く、国境の封鎖は今しばらく継続されることが決定。ロードベルク王国よりも遅くヘルツゲンハイム病が入り込んだアールクヴィスト大公国だが、ロードベルク王国よりも早く病に打ち勝つかたちとなった。
医院の封鎖が解除されて数日後。要塞都市アスピダのノルドハイム士爵家の屋敷。ペンス・シェーンベルク士爵は、腐れ縁の悪友であるラドレー・ノルドハイム士爵のもとを訪れていた。
「よお、死にぞこない」
「うるせえクソが。ゲホッゲホッ、ぶっ殺すぞ」
ペンスが顔を合わせるなり軽口をたたくと、ラドレーは軽く咳き込みながらぶっきらぼうに返す。時おり咳が出るこの症状はヘルツゲンハイム病の後遺症としてはごく一般的なもので、長くて数か月ほど続くと言われている。
互いの言葉選びが、この時期としてはやや不謹慎なほどに乱暴なのは、他者の目がないからこそ。今は一国の貴族となったペンスもラドレーも、こうして二人で会うときだけは傭兵時代の感覚に戻る。
「なんだ、後遺症に悩んでると聞いたからもっと辛そうにしてるかと思ったのに、別に元気そうじゃねえか。見舞いに来てやって損したな」
「けっ、俺が咳ごときでウジウジするわけねえだろ。今月中にも森の見回りに復帰してやらあ……それよりおめえ、見舞いに来といて手土産もなしか?」
「ちゃんと持って来たぞ。お前の生還祝いに、レーヴラント王国産のクソ高い蒸留酒をな。だけどこの部屋に来る前にジーナに取り上げられちまった。お前のその咳が治るまでは、強い酒はおあずけだとよ」
「……そうかよ。ジーナが言ったんなら仕方ねえ」
ラドレーは不満そうに鼻を鳴らしながらもそう呟く。アールクヴィスト大公国で最強の戦士と謳われながらも妻には頭が上がらない悪友の姿に、ペンスは小さく苦笑を零した。
その後もしばらく、二人は雑談に興じる。話題に上がるのはやはり、此度のヘルツゲンハイム病流行のことだ。特にラドレーは患者として封鎖された医院の中にいたこともあり、内部の様子をペンスに語って聞かせる。
院内は過酷ではあったが、凄惨ではなかった。食料その他物資の配給をはじめとした院外からの支援も手厚く、現実的に叶う最善の手を尽くすことができた。ラドレーはそう話した。
「結果的に、こうしてクソ流行り病も収束したんだ。ノエイン様のご決断は英断だったんだろうよ」
「ああ、それは疑う余地もねえな……まあ、お前も無事でよかった」
「なんだよ気持ち悪いな。おめえらしくもねえ」
「いや、一応な。全員が無事とはいかなかったんだからよ」
気恥ずかしさを感じて頬をかきながら、ペンスは言った。
身体の頑強さに定評があり、数々の激戦を生き抜いてきたラドレーだ。流行り病などであっさり死ぬはずもない。しかし、万が一があるのが世の常。もしかしたら今日明日にも、悪友の訃報を聞くことになるかもしれない。
彼が重症に陥ったと聞いたとき、ペンスは本気でそう思った。要塞都市アスピダから連絡役の兵士が大公家の屋敷を訪れるたびに、心がざわめいた。
「……そうだな。せっかく死にぞこなったんだ。助からなかった奴らや、俺を助けてくれた人たちのためにも、とっとと咳なんか治して働かねえとな」
ラドレーはやや感傷的な声色で呟く。
結果的に、ラドレーは生き残った。しかし、生き残れなかった者たちもいる。
アールクヴィスト大公国において、今回のヘルツゲンハイム病流行による感染者は累計二八四人。そのうち死者は三十一人。
その三十一人の中に、医師セルファースもいる。
セルファースは封鎖された医院の中で感染者たちの世話に努め、その中で自身も感染し、体力が持たずに死んだ。今回の流行において、彼が最後の死者だった。
・・・・・
「そうですか。セルファース先生は最後まで感染者たちのために……」
「ええ。彼は高熱に苦しみながらも、魔法薬の使用や感染者の手当てについて私に指示を出し続けていました。最後の感染者が快方したのを見届けて、その翌日に息を引き取りました。魔法薬のおかげか、最後は苦しむことなく穏やかに旅立たれました」
感染収束と医院の封鎖解除後も後処理に追われていたノエインは、数日経ってようやく一段落し、今はハセル司教からセルファースの最期について詳しい話を聞いていた。
「……残念です。本当に」
「私も同じ気持ちです、閣下。ですがどうか、此度のご決断を後悔なさいませんよう」
ハセル司教は穏やかな声で、しかし力強い眼差しで言った。
「間違いなく、セルファース先生の進言を受け入れた閣下のご決断によって、多くの人命が救われ、アールクヴィスト大公国における感染は早期に収束を見せました。そして、セルファース先生は自らの信念に則って医院に残り、感染者たちを支え、救いました。先生が亡くなられたことは……こればかりは神のご意思なので、我々人間にはどうしようもありません。ですが、先生に後悔はなかったはずです。立場は違えど、社会に尽くす生き方を選んだ身として、そう断言できます」
なので閣下も後悔なさいませんよう、とハセル司教は語る。
ノエインは無言の間をおいて、それに頷いた。
「分かりました。後悔はしません。皆がそれぞれやれることを、やるべきことをやった。そう信じて前を向きます。そしてセルファース先生を悼み、救われた命があることを喜びます……ハセル司教。あなたが無事でよかった。よく生き残ってくださいました」
「ありがとうございます。神はまだ私を御許へとお呼びになりませんでした。この世で、この地で神の教えを守って働けと仰せなのでしょう。であれば、神のご意思に従うまでです。これからも何卒よろしくお願いいたします、閣下」
ハセル司教は微笑を浮かべる。
医院の中に残り、感染者たちの世話に努めながらも、彼はついに最後まで感染しなかった。こんなこともごく普通に起こりうるのが、流行り病の不可解なところだ。
「……リリス。君たちもよく頑張ってくれたね。大公家当主として感謝するよ」
「はい、閣下」
ハセル司教とともに後処理の報告に訪れていたリリスは、落ち着いた声で答えて頷いた。
セルファースの一番弟子であった彼女が、これからはアールクヴィスト大公国の医療の責任者となる。師を失って悲しくないはずがないが、彼女は少なくとも今は、気丈に振る舞っていた。
「私たちこの国の医師は、セルファース先生の持ち得る全てを教えられ、学んできました。先生のご遺志を継いで、これからは私たちがアールクヴィスト大公国のために尽くします」
「セルファース先生の弟子である君たちがいてくれたら、何も心配はない。これから一緒にアールクヴィスト大公国を守っていこう。信頼してるよ」
リリスはもう、幼く弱気な少女ではない。十数年を経て、彼女は一人前の医師となった。そんな彼女を頼もしく思いながら、ノエインは慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
・・・・・
アールクヴィスト大公国におけるヘルツゲンハイム病の流行収束から数週間後、ロードベルク王国北西部でも流行は収まった。
およそ百年ぶりに流行の直撃を被り、対応が後手に回った北西部の各貴族領では、それなりに大きな被害が出た。しかし幸いにも、ノエインの親しい貴族や、深い繋がりのある商人たちに犠牲者は出なかった。
自国とその近隣地域で流行が収まり、感染の再発生の心配が限りなく小さくなったのを機に、アールクヴィスト大公国では今回の流行による死者を悼む儀式が開かれた。
公都ノエイナの中央広場。大公家とミレオン聖教教会の主導のもと、命を落とした臣民たちの冥福を皆で祈る儀式がしめやかに執り行われ――その後には、医師セルファースの国葬が開かれる。
「……彼は恩人だった。私たち全員にとって」
広場の中央、花に埋め尽くされた祭壇の前。そこに設置された壇上で、ノエインは集う臣民に向けて語りかける。
壇の傍らには黒い喪服に身を包んだマチルダやクラーラ、子供たちが静かに立ち、壇の周囲は臣下と親衛隊兵士たちが囲む。民衆の最前列には、リリスたち医師がいる。
「この地がまだアールクヴィスト士爵領と呼ばれていた頃から暮らす者たちは、よく憶えていることと思う。彼は幾度も私たちを助けてくれた。病に苦しみ、戦いに傷ついた私たちを、彼は隣領から救いに来てくれた」
ノエインがエルド熱に倒れたとき。多くの民が盗賊団との戦いで怪我を負ったとき。セルファースはレトヴィクから駆けつけ、治療にあたってくれた。
「そして、彼は晩年を過ごす場所として、この地を選んでくれた……この地に幸福が築かれていく様を見ながら余生を送りたいと、僕に言ってくれた。今も憶えている。忘れることはない」
あえて一人称を崩して、ノエインは語った。
「この地の一員となってからも、彼は幾度となく僕たちを救ってくれた。僕たちの病や怪我を治療することで。そして、新たな医師を、若く優秀な医師たちを育てることで」
そう言って、ノエインは民衆の最前列にいるリリスたちを手で示した。俯く者、嗚咽を漏らす者もいる中で、リリスは目元を赤くしながらも堂々と顔を上げている。
「……彼は人々の命を救うことで、この地に大きな貢献を示した。そして、彼はこれからも多くの人命を救う。彼の教えが、彼の遺志を継ぐ者たちが、数えきれないほどの人命を救っていく」
涙が出そうになるのを、声が震えそうになるのを堪えながらノエインは語る。最も大きな悲しみを抱えているであろうリリスが気丈に振る舞っているのだ。自分が泣き出すわけにはいかない。
「彼は英雄だ。その功績は消えない。その遺志は消えない。彼が……医師セルファースがここに生きたことを、ここで成したことを、一緒に語り継いでいこう」
ノエインはそう演説を締めた。
ノエインと入れ替わってハセル司教が壇上に上がり、祈りの聖句を唱える。ノエインは家族と並び、ミレオン聖教の一信徒として、臣下や臣民たちと一緒に聖句を復唱する。
最後に信徒の礼をとって静かに祈り、立ち上がる。
「……先生。僕はあなたの期待に応えることができたでしょうか」
ノエインは呟くように言った。そんなノエインの手を、両隣からマチルダとクラーラがそっと握った。
この日を以て、大公立ノエイナ医院は大公立セルファース医院へと名を改められた。
★★★★★★★
ここまでが第十六章となります。ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回第十七章、大きな出来事が起こります。お楽しみに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます