第416話 流行り病

 アドレオン大陸には、定期的に流行する病がある。


 その病は、普段は世界の中で息を潜めている。稀に軽症の感染者が現れるのみで、そうした感染者も一週間から二週間ほどで完治し、その間は隔離されることが多いために他の者への感染は滅多に起こらない。


 ところが、十年に一度ほど、この病は大きな流行を見せる。まるで己の凶暴性を思い出したかのように猛威を振るい、一地域に、場合によっては一国全体やその周辺の国々に感染爆発を引き起こす。


 その場合の感染者は悲惨だ。尋常でない高熱と、喉を潰すような咳に苦しめられることになる。年齢や体力、持病の有無にもよるが、感染者の十人に一人、ひどい場合は五人に一人が死に至る。


 この病が発見されてから数百年。奇妙な感染爆発のメカニズムは未だに不明で、一説には病そのものが太古の悪しき魔法の一種であるとも言われている。


 名前は「ヘルツゲンハイム病」。この病が発見されたばかりで体系的な対処方法も確立されていなかった大昔、この病によって滅び去った大都市の名から取られている。


 近年この病が流行した時期は、ロードベルク王国における王暦二〇五年の年明けから春にかけて。流行した地域は、主にロードベルク王国の東部とパラス皇国の西部だった。


 そのおよそ十年後、ランセル王国よりさらに西の小国群で、比較的規模の小さい流行が起きた。


 そして、ロードベルク王国での流行から十九年後の王暦二二四年。ヘルツゲンハイム病は、再びこの国でその凶暴な芽を出した。場所は王国北東部の東端南側。ノルトリンゲン伯爵領内の一都市だった。


「閣下、現地に駐留する領軍より詳細な報告が上がりました。現時点で症状が出ているのは都市内の貧民街を中心に五十人ほど。死者も既に数人出ているとのことです。現在は領軍が貧民街を封鎖し、医師と聖職者による感染者の手当てが始まっております」


「ふんっ、よりにもよって我が領がヘルツゲンハイム病の流行の起点になるとは。とんだ貧乏くじだな……だが、流行が始まったのが、さして重要でもない領の外れの小都市なのは不幸中の幸いだ」


 側近の配下である士爵から告げられたノルトリンゲン伯爵は、顔をしかめながら吐き捨てた。


「貧民街の封鎖だけでは生ぬるい。今より領軍の五十人隊を出動させ、その都市の出入り口を封鎖しろ。都市に入るのは自由だが、誰であろうと出ることは一切許さんと布告しろ。この布告を破って都市から抜け出そうとした者は殺せ」


 ノルトリンゲン伯爵家は王国北東部でも屈指の武闘派として知られ、当代ノルトリンゲン伯爵も歴代の当主と同じく、良くも悪くも「保守的な王国貴族らしい」男として知られている。


 すなわち、彼は自身が生まれながらの支配者層であることを当然と考え、支配者であるからこそ民を意のままに扱う権利があると考え、その考えのままに動く人物だった。


 戦争では無類の強さと勇ましさを発揮して活躍する猛将で、先のベトゥミア戦争でも国王オスカー三世のもとで将の一人として大戦果を上げた英雄ではあるが、臣下や民にとっては優しい主君とは言い難い。


 現に今の命令も、自身の支配下の小都市を丸ごとひとつ切り捨てることさえ厭わない、厳しいものだった。


「現地の駐留部隊の隊長を務めているのはハリエル様ですが、駐留部隊ごと都市を封鎖してよろしいでしょうか?」


「よいに決まっている。誰であろうと出ることは一切許さんと言ったばかりだろう。早く兵を招集しろ。私は布告書を書いておく」


 士爵の口から、領軍に所属する自身の次男の名が出ても、ノルトリンゲン伯爵は一切の迷いなく即答した。


「……御意」


 臣下や民に厳しいが、それ以上に身内や自分自身にも容赦がない。だからこそ厳かな敬意を集めているノルトリンゲン伯爵に、士爵は敬礼して退室する。


 執務室で一人になった伯爵は、椅子の背もたれに乱暴にもたれかかった。高価な椅子が、伯爵の屈強な体躯をぶつけられて軋む。


「ちっ、そもそも、都市ひとつ封鎖して感染を抑え込めるなら苦労はない」


 苦虫を噛み潰したような表情で言った伯爵のそれは、自分以外の誰にも、臣下にも家族にも聞かせることはない愚痴であり、弱音だった。


 伯爵とて、何の痛みも感じずに千人近い領民の暮らす小都市を封鎖する決断をしたわけではない。都市も領民も、父祖より受け継いできた大切な財産だ。その財産を、一部とはいえ捨て置く所業を選んだのは、褒められたものではない決断だと思っている。


 流行り病の只中に息子を閉じ込めることも、親として苦しくないはずがない。


 そして、おそらくこれだけ無慈悲な措置を講じても、感染を完全に抑え込むことは不可能だ。


 過去の記録から、ヘルツゲンハイム病は感染しても発症までに一週間から二週間ほどの潜伏期間があると考えられている。今の時点でも病魔はほぼ確実に都市の外へ、下手をすればこの領都にまで、その手を広げているだろう。


 それでも、感染の起点から外へと出る者は少しでも減らさなければならない。そして、他領から「病が広がったのはお前の無策のせいだ」と後ろ指をさされないためにも、可能な限り迅速で厳しい措置をとったという証拠を残さなければならない。


 ノルトリンゲン伯爵家はできる限りの手を尽くしたと、それでも感染が広がったのは防ぎようのない天災だったのだと胸を張って宣言できる状況を作らなければならない。


 家と領地を守るためとはいえ、このような打算的で言い訳がましい行為に走っている己を憎みながら、伯爵は都市封鎖の布告を文章にするために紙とペンをとった。


 ・・・・・


「……悪い報せだ、ノエイン殿」


 公暦五年、王暦では二二四年の二月中旬。


 妻クラーラと二人の子供を連れてケーニッツ伯爵家の屋敷へと顔を出したノエインは、領主代行を務める義兄フレデリック・ケーニッツからそう切り出された。


 よく手入れのなされた屋敷の中庭で、クラーラと子供たち、そしてフレデリックの妻レネットと息子サミュエルが触れ合っているのを眺めながら、フレデリックの表情はやや険しい。


「何かありましたか?」


「ああ。端的に言うと、王国北東部でヘルツゲンハイム病の流行が始まった」


 それを聞いて、ノエインも顔をしかめる。


「ヘルツゲンハイム病……懐かしい名前ですね。できれば生涯忘れたままでいたかった名ですが」


「そうか、ノエイン殿は王国南東部の出身だったな。前に王国内で流行したときは、その只中にいたわけか」


「はい。幸い、僕自身は罹りませんでしたが……罹って死ぬ者は見ましたね」


 高熱に苦しみ、我が子へと八つ当たりの恨み言を呟きながら死んでいった母親を、ノエインは思い出す。もう二十年近くも前の記憶だ。今では母親がどんな顔だったかも曖昧になっている。


「王国北東部ということは、この北西部にはまだ?」


「今のところはな。流行の発生源も北東部東端のノルトリンゲン伯爵領だ。最初に流行が発生した都市は完全封鎖されたそうで、初動対応には成功していると言える」


「なるほど……ですが、ヘルツゲンハイム病は潜伏期間が長い。発生源を封鎖したところで、感染者は既に都市の外に漏れ出ているでしょうね」


 ノエインの意見に、フレデリックは険しい顔のまま首肯して同意を示す。


「ああ、私もそう思う。実際、既にその都市の外でも、さらにはノルトリンゲン伯爵領の外でも、ぽつぽつと感染者が発生しているそうだ……王国北西部と北東部を行き来する商人も多い。感染が北西部に広がるのも時間の問題だろう」


「……王国北東部や南東部は、前回の流行を教訓に、ある程度迅速な封じ込めを成せるところもあるでしょう。ですが、北西部ではどうなるか……」


「君の言う通り、北東部や南東部の貴族領は、早いところでは既に領境の通行を制限あるいは封鎖しているそうだ。領内の都市や村落間の移動も、必要最低限にするよう布告を出していると聞いている。仮に感染者が出ても、前回ほど酷い流行は起こらないだろう。だが、この北西部でヘルツゲンハイム病が流行したのは。記録だと確か百年以上も前の話……対処の要領を得ている者がどれほどいるか」


 エルフの医師などはヘルツゲンハイム病に対応した経験のある者もいるだろうが、問題はその絶対数の少なさだ。王国北西部の各貴族領のうち、そのような人材を抱える地は、おそらく片手の指に収まる。


「そもそも、ヘルツゲンハイム病の恐ろしさを正しく認識している貴族家当主も少ないでしょうし……ある程度の流行は避けられないものとして、今から備えておくべき、ということになりますか」


「そうなるな。他領との人の行き来を封鎖する手順はもちろん、領内……君の場合は国内で感染者が出た際の対応方法も定めておくべきだろう」


 ノエインは椅子の背にもたれかかり、ため息を吐く。それに釣られるように、フレデリックも息を吐いた。


「戦争や社会の騒乱に備えて、国を封鎖してもある程度の期間を耐えられるだけの用意はしてますが、まさか流行り病への対処に使うことになるとは」


「気持ちは分かる。我が領もベトゥミア戦争以降、非常時への備えは進めていたが、まさか領主代行となって最初に立ち向かうのがヘルツゲンハイム病とはな」


 ノエインとフレデリックは、流行が王国北西部に及んだときのことを考えて暗い気持ちになりながらも、そのときは互いに協力して対処することを確認し合った。

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