第386話 一線

 料理屋での獣人による普人の誤認逮捕騒動はすぐに噂として公都ノエイナ内に広まり、悪い影響をもたらすこととなった。


 普人たちは下手な言動をすれば自分が犯人だと疑われるのではないかと不安を感じ、獣人たちは周囲の普人の誰かが一連の事件の犯人かもしれないと疑心暗鬼になり、公都内の空気はさらに緊張を孕むようになった。


 しかし、少なくともいきなり獣人と普人が決定的に対立するような事態にはなっていない。誰もが数年、古参の民に至っては十年以上をこの地で暮らしているので、皆それぞれ異種族の知人友人がおり、そうした者同士の大半は良好な関係を続けている。


 それでも、異種族の者同士の会話でぎこちなくなる場面が増えたり、見知らぬ異種族の人間とすれ違う際は何気なく一歩離れたり、普人が多く座っている店に獣人が入店するのを止めたり、その逆があったりと、今までの平和な公都と比べると不穏な空気が漂っていた。


 そして、料理屋での騒動から一週間後、夜道を歩いていた普人が何者かに襲われ、袋叩きにされて怪我を負うという事件が発生。


 被害者は「暗がりで顔は見えなかったが、獣の耳があるのは影で分かった」と証言しており、気が立った獣人による普人への無差別の報復だという噂がまたすぐに広まった。


 その噂は、種族間の気まずい距離をさらに一歩、広げることとなった。


「……はあ」


 それから数日後のある日。一日の仕事を終えたノエインは執務室を出て居間に入り、ソファにどかりと座り、疲れた顔でため息をつく。その隣には、マチルダが心配そうな表情で寄り添う。


 そして、大公立ノエイナ高等学校の校長としての仕事を終えて帰宅していたクラーラも、マチルダとは反対側に座ってノエインの手をそっと握った。


「あなた、お疲れのご様子ですね」


「さすがにちょっとね。今まで種族間の表立った対立は起こってなかったところに、これだけの騒動だから……こういう問題は初めてで、どう対処すればいいのか迷うよ」


 両隣から愛する女性に寄り添われて、ノエインは微苦笑を浮かべた。


 軍はよくやってくれている。公都内に多少の混乱はあるものの、それでも決定的に治安が崩壊するような事態には至っていない。それは軍が公都内の巡回に力を入れているおかげだ。


 一連の事件についての捜査も続いている。最初の事件から数週間。まだ具体的な成果は出ていないが、そもそも軍は捜査機関ではなく、このように繊細で複雑な事件に対処するためのノウハウもない。人員も限られている。


 領外から迫る危機を防ぐのが軍の本来の仕事で、民心を穏やかに保つのは君主であるノエインの仕事だ。だからこそ民の愛と信頼を得るよう努め、自身の考えを慈愛をもって説いてきたが、それも完璧なものとはいかなかったのだろう。


 精一杯の努力はしてきたつもりだが、まだ力不足だった。そう思うと、気を落とさずにはいられない。


「ちちうえ、だいじょうぶ?」


「フィリア、父上はお仕事で大変なんだよ。なぐさめてあげて」


 そこへ、間もなく二歳になるフィリアがとてとてと歩きながら近づき、彼女が歩くのを支えながらエレオスもやって来る。


「二人とも心配してくれてありがとう。二人が一緒にいてくれるだけで僕の疲れもとれるよ」


 ノエインは表情をほころばせながらフィリアを抱きかかえ、エレオスは自分でソファによじ登った。


「父上、どうして種族が違うだけで、ひどいことを言ったりいじめたりする人がいるんですか?」


 エレオスは無垢な表情で問いかけてくる。公都ノエイナで最近起こっている事件については、勉強させる意味もあって彼にも簡潔に伝えられていた。


「そうだね。この地で生まれ育ってきたエレオスたちにはあまり実感がないだろうけど……アールクヴィスト大公国は、少し前まではロードベルク王国の一部だった。ロードベルク王国では人の見た目を重要視するんだ。見た目が違う普人と獣人は、別の生き物だと考えられてる」


 実際はもっと複雑で根深い事情があるが、今年で六歳のエレオスではその全てを理解できない。なのでノエインは、あえて単純化して語る。


「例えば、うちでも獣――馬や牛、豚、鶏を飼って、人間とは違う扱いをしているでしょう? 獣の耳を持つ獣人に対して、普人はそういう扱いをしていいんだと考える人もいるんだよ。そこまで極端な人は少ないとしても、人間の方が獣より賢くて偉いから、自分たちよりも見た目が少しだけ獣に近い獣人を馬鹿にしていいと考えてる普人は多い」


 ノエインの言葉を聞いても、エレオスはあまりぴんとこない様子だった。生まれたときからマチルダをはじめとした獣人が普人と同じ扱いを受ける社会を見てきた彼には、ロードベルク王国の獣人に対する根深い差別感情はいまいち飲み込めないようだった。


「僕はそういう考えは良くないと思ってるし、民にもそう言い聞かせてるけどね。それでも民の多くは、特に大人たちはもともとロードベルク王国で生まれ育ってきたんだ。生まれたときから獣人を馬鹿にしていいと教えられてきた人たちは、その考えを全部変えるには時間がかかるんだよ」


 自分の説明がエレオスにとって十分なものかは分からなかったが、ノエインはひとまずそう締めた。


「……父上、どうして人は人を馬鹿にしたりいじめたりするんですか?」


「あははっ、それはきっと、世界の誰にも答えられないくらい難しい質問だろうね」


 きっとどんな偉大な王でも、おそらくは神でも、エレオスの問いに対する完璧な答えは持たない。ノエインはそう考えながら苦笑した。


・・・・・


 事態が決定的に悪化したのは、それから数日後だった。


 獣人による普人への襲撃事件の報復か、今度は夜道を一人歩いていた獣人が襲撃される事件が発生。


 現場の状況を見るに、被害者はおそらくは顔を殴られて強く突き飛ばされた。六十歳を超える高齢だったためにすぐに反応ができなかったようで、不運にも後頭部から石畳の地面に倒れ――頭の打ちどころが悪く、命を落とした。


「……この部屋ですか」


「はい。手は尽くしたのですが、医院に運び込まれたときには既に意識はなく、心臓も動いておらず……申し訳ございません」


 大公立ノエイナ医院に運び込まれたという被害者のもとへ自ら足を運んだノエインに、院長である老医師セルファースが答える。


「いえ、セルファース先生が謝られることはありません。これは……事態がここまで悪化することを防げなかった、僕の責任です」


 愛する民を、自分を愛してくれる民を一人、失ってしまった。今日死ぬはずではなかった民を死なせてしまった。その事実は今、ノエインの心に重くのしかかっている。


 遺体が安置されている部屋に入ると、そこには被害者が同居していたという息子夫婦、そして被害者の孫だという少年がいた。


 君主がやって来たことで、遺族たちは慌てて立ち上がり、頭を下げようとする。


「そのまま楽にしてて。邪魔してすまないね」


 ノエインはそれを手で制し、被害者の遺体と向き合う。遺体の前で目を瞑り、両手を組んで祈りを捧げる。


 そして目を開けると、遺族たちの方を向いた。


「公都ノエイナの中で混乱が起きて、その混乱に巻き込まれて彼は亡くなった。これは君主である僕の責任だ。本当にすまない」


「そ、そんな、ノエイン様が謝られることなんて……」


 ひどく恐縮しながらぺこぺこと頭を下げる、被害者の息子の肩に、ノエインは手を置いた。


「こんなかたちで命を落として、君の父も無念だったと思う。彼の無念は必ず晴らす。一日も早くこの事態を解決して、公都内で今起きている不和を解消させる。普人も、亜人も、君たち獣人も、この地に生きる誰もが平和に暮らすことのできるアールクヴィスト大公国を取り戻す。約束するよ」


「……ありがとうございます、ノエイン様」


 被害者の息子は涙を流してそう答え、ノエインは彼に優しい微笑みを向けた。


・・・・・


「……事態は一線を越えた。民が、僕の大切な臣民が死んだ。これはもう、ただの盗みや落書き、嫌がらせじゃない。僕はこの事件を引き起こした者を、不和のきっかけになる一連の事件を起こした者を許すことはできない」


 屋敷の会議室で、緊急招集された数人の臣下たちを前に、ノエインはそう語った。声色は穏やかだが、その視線は冷えている。


「ただちに事態を鎮静化させないといけない。一連の事件の犯人を見つけ出して、アールクヴィスト大公国に平和を取り戻さないといけない。そのために君主として全力を尽くす。君たちにあらゆる協力を求めたい。この事態への対応を最優先事項として、それぞれの視点から、あらゆる角度から捜査してほしい」


 ノエインの言葉に、公都ノエイナの治安維持を務めるユーリとペンスが、それぞれの立場から民をまとめるマイとエドガーとケノーゼが、国の内務を司るアンナとクリスティが、情報収集面の責任者であるバートが、それぞれ頷く。


「捜査のために必要なものがあれば、僕に何でも言ってほしい。人員も、権限も、捜査を優先する分の通常業務の時間的猶予も、できる限り全てを認めるから……それじゃあ、よろしく頼むよ」


「「「はっ」」」


「「「はい」」」


 武官は敬礼で、文官は頭を下げる礼で応え、アールクヴィスト大公家の総力を挙げての捜査が始まった。




 急ぎでない通常業務を後回しにする勢いで人員と時間を割き、各省の間を人が行き来しながら行われた捜査の結果、一週間後には大きな進展が見えた。

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