二話 愛玩

 ノエインは親の愛を知らずに育ったが、だからといって温かさの一切ない、完全に無味乾燥な九年の人生を送ってきたわけではない。


 キヴィレフト伯爵家の屋敷の敷地から一歩も出ず、妾の子として冷遇され続けてきたノエインにも、ごく僅かながら優しい者はいた。


 例えば、まだ乳飲み子だった頃のノエインを世話した乳母。ノエインが乳離れすると同時に、口封じのための金を渡されて遥か遠い貴族領へ移住させられたと噂に聞いているが。


 例えば、ノエインに屋敷の外の話を色々と聞かせてくれた出入りの商人。そのことが発覚してからは屋敷への出入りを禁じられたそうだが。


 そして、「庶子とはいえ自分の長子が字も読めないのは情けない」というマクシミリアンの無駄なプライドのおかげで、ノエインが七歳のときに一年だけ付けられた、年老いた家庭教師。


 彼から読み書き以外にも人や社会の何たるかを教えられたおかげで、ノエインはかろうじて人間らしさとは何かを知っている。その恩師は、今回の流行り病で残念ながら死んだと使用人たちが噂していたが。


 これらの人々の善意を受け、字を覚えてからは書物でも様々な人の交わりの物語を知って、他の存在を可愛がる、という感覚はノエインも今は理解している。


 ノエインなりに、その感覚に基づいて行動したこともある。


 例えば、冬に屋敷の庭の林で弱っていたリス。温かい屋内に連れ込んでミルクや果実を与えたら回復の兆しを見せ、ノエインに懐くような様子も見せてくれた。その後に異母弟のジュリアンに見つかり、悪戯で熱湯に沈められて殺されてしまったが。


 例えば、巣から落ちて親鳥に見捨てられていたカラスの雛鳥。こっそりと自分の部屋に連れ帰り、食事の残りを与えたら、ノエインを新しい親だと思ったのか大変に慕ってくれた。鳴き声でマクシミリアンの知るところとなり、「不潔な鳥を私の屋敷に持ち込んだ」と激怒した彼によって叩き殺されてしまったが。


 それらのノエインが可愛がってきた存在と、目の前の兎人の少女は重なって見えた。


「……痛そうだね。可哀想に。もう大丈夫だよ。これから僕が可愛がってあげるからね」


 なので、ノエインはそう声をかけて、彼女の頬を優しく撫でた。


 しかし、腫れた頬に触れられるのは痛かったのか、兎人の少女はビクッと身体を振るわせると、虚ろな、しかしどこか怯えるような目でノエインを見上げる。


 その目も、ノエインがかつて可愛がった生き物たちが、最初にノエインに向けた瞳を思い出させた。


 彼女はこれまで接したリスや雛鳥とは違う。彼女は人だ。これだけ大きな生き物で、言葉も通じるのだ。きっと可愛がり甲斐もある。ノエインはそう考えた。


「さあ、僕たちの新しい家に入ろう」


 ノエインはそう言って離れの方に向き直り、扉を開け、中を覗き込む。


 まず目についたのは、部屋の隅に置かれたベッドだった。一人用としてはやや大きく、歳のわりにも小柄なノエインが寝るには広すぎるほどだ。見たところシーツは綺麗で厚みもしっかりとしていて、ふんわりとした膨らみ方を見るに、中に詰められた藁も新しいものなのだろう。


 そして部屋の中央には、テーブルと椅子がひとつずつ。壁際には棚がひとつ。棚の中には、大小ひとつずつのタオルが重ねて置かれている。


 扉の横、玄関側の壁には、小さな台所らしき設備もあった。『沸騰』の魔道具が置かれ、お茶を淹れるためのポットと、綺麗なカップと粗末なカップがひとつずつ並んでいる。茶葉は見当たらない。


 小さな居間にあるのは、それでほぼ全てだ。殺風景だが、今までのノエインの自室もこれと大差なかったので、特に不満は感じない。


 奥には小部屋が二つあり、今は扉が開け放たれているので、その中が浴室と厠だと分かる。


 居間の窓には板ガラスがはめ込まれ、晴れている日には外の光が室内に降り注ぐようになっている。そのおかげで今は室内は明るい。新築だけあって、壁も床も綺麗に見える。


 悪くない。このままだとひどく退屈しそうだが、少なくとも清潔で快適そうではある。それがこの離れの第一印象だった。


「……ふふっ」


 室内を見回して、ノエインは凶悪な笑みを浮かべ、笑い声を零した。


 清潔で快適な生活空間。しかしこれは、マクシミリアンがノエインのことを思いやって用意したものではあるまい。これはノエインに脱走を考えさせず、ここで大人しくさせておくための待遇だ。


 どうせノエインは、外に逃げ出してもまともに生きてはいけない。非力で世間知らずな小僧一人が、脱走などという手段で束の間の自由を得ても、キヴィレフト伯爵家という大貴族家に目をつけられながら生き延びられるはずもない。


 そもそも、屋敷の敷地を囲む、高くて足がかりもない石壁を乗り越えることは、たとえ兎人のマチルダの力を借りたとしても難しい。


 そのような環境に置かれた上で、一応は屋敷の敷地内に快適な環境を与えられれば、ノエインがひどく分の悪い賭けに出て逃亡しようとする可能性は限りなく低くなる。


 この離れはノエインの逃走の意欲を削ぎ、ここへ繋いでおくためのものだ。小さくて綺麗で快適な檻だ。


「ほら、君も見てごらん。なかなか過ごしやすそうなところだよ」


 皮肉を込めてそう言いながらノエインが振り返ると、兎人の少女は立ち上がってはいるものの、最初にいた場所からまだ動いていなかった。


「どうしたの? ほら、こっちにおいで?」


「……」


 ノエインが呼びかけると、少女はやはり怯えた様子で、ようやく歩み寄ってくる。


 そして、おそるおそる離れの中に足を踏み入れ、部屋を見回した。


「……ああ、そう言えば、君の分の生活用品がないね」


 ノエインはそこで初めて気づいた。ベッドは一人用で、椅子もひとつだけ。タオルも大小が一枚ずつだけ。ノエインの快適さは考慮されているが、奴隷である彼女の生活についてはまったく考えられていない。


 部屋の隅には汚い毛布が敷かれている。おそらくはそこが彼女に与えられた生活空間だ。獣人奴隷は床で食事をとり、床で眠れということか。


 テーブルの上には小さな袋が置かれており、開くと中には大銀貨が十枚入っていた。一万レブロ。これが今月の小遣いということなのだろう。


「まあいいや、後々買い揃えていこう……ところで、君の名前をまだ聞いてなかったね」


 ノエインが尋ねると、獣人の少女は床に平伏する。


「マチルダと申します。よろしくおねがいいたします、坊ちゃま」


「そっか……顔を上げて、マチルダ」


 ゆっくりと顔を上げ、怯えた目を見せるマチルダに、ノエインは優しく微笑みかける。


「僕の名前はノエインだよ。『坊ちゃま』っていう呼び方は少し苦手でね、僕のことは『ノエイン様』って呼んでほしいな」


 この家で「坊ちゃま」と呼ばれると、自分があの憎き父の子なのだと嫌でも思わされる。なのでノエインは、この呼び方を好まない。


「……っ、申しわけございませんでした。甘んじて罰をお受けします」


 マチルダはそう言ってひれ伏す。知らずとはいえ、ノエインの気に入らない呼び方をしたことで罰せられると思ったのだろうか。


 知らなかったことで叱責を受けるのが当たり前だと思っているような、罰を受け慣れている様子のマチルダを、ノエインは憐れむような目で見下ろす。そして、彼女の頭にそっと手を置いた。


 マチルダがビクッと震えるが、ノエインがそのまま彼女の頭を優しく撫でると、彼女はきょとんとした表情でノエインを見上げた。どうして自分が殴られないのか不思議に思っているような顔だった。


「僕は他の意地悪な人たちとは違うよ。酷いことはしない。僕は君を可愛がってあげるんだ。だから、安心していいよ」


 かつて自分が慈しんだ、弱ったリスや雛鳥。それらと出会ったときのことを思い出しながら、ノエインは言った。


 リスや雛鳥に死なれたとき、ノエインは寂しさを覚えた。あんな小さな生き物の死さえ寂しかったのだ。これほど大きくて言葉を交わせる存在の死は、もっと寂しいのだろう。


 この兎人の少女にはずっと生きてほしい、自分に寂しい思いをさせないでほしいと、そのためにも可愛がってやらなければと、ノエインはそう考えた。


・・・・・


「ノエイン様、お食事をおもちしました」


 夕刻。屋敷の本館に夕食を取りに行っていたマチルダが、お盆と器を持って帰って来た。


「ありがとう、マチルダ」


「……あの、ノエイン様、このテーブルは?」


 マチルダは戸惑った表情で言う。彼女が本館に行っている間に、ノエインがテーブルを引きずって移動させていたからだ。


 テーブルはベッドの方に寄せられ、ノエインはベッドを椅子代わりに座っていた。テーブルを挟んでノエインの反対側には、この部屋で唯一の椅子が置かれている。


「こうすれば、君もその椅子に座って、このテーブルで食事ができるでしょう? 君の分の椅子を買うまで、こうやって一緒に食べよう」


 かつて慈しんだリスや雛鳥とも、ノエインは共に食事をとった。家族の食堂ではなく自室で一人で食事することを強いられていたノエインにとって、一緒に食事をとる存在がいるのは楽しい経験だった。


「でも……奴隷の私が、ノエイン様とおなじテーブルで食べるなんて……それも、ノエイン様の椅子にすわるなんて」


 しかし、どうして自分がこんな扱いを受けるのか分からないマチルダは目を泳がせる。


「僕は君を可愛がるって決めたんだ。だから一緒に食べようよ。お願い」


「……かしこまりました」


 それをノエインの命令と受け取ったマチルダは、テーブルにお盆と器を置き、おそるおそる椅子に座る。


 ノエインの前に置かれたお盆に載っているのは、肉と野菜がふんだんに入ったシチューと、焼きたてのパン、そして果実水だった。シンプルではあるが、質も量も申し分ない食事だ。


 一方で、マチルダが自分の前に置いた器には、泥のように濁ったスープが注がれている。その上には見るからに硬そうな黒パンが雑に乗せられている。


「……」


「……」


 ノエインがシチューを匙で口に運び、柔らかいパンを千切る一方で、マチルダは黒パンを濁ったスープに浸してふやかし、それでも噛み千切るのに少し難儀している。


 このような食事を食べ慣れているのか、マチルダは嫌な顔はしていない。が、スープもパンも、ノエインの目にはとても美味そうには見えない。


 なるべく早く、彼女がもっと人間らしい食べ物を口にできるようにしようとノエインは思った。

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