第零章 歪な庶子の前日譚

一話 出会い

 母が死んだ。あっけない最期だった。


 王暦二〇五年の年明けから春にかけて、ロードベルク王国の南部を中心に流行り病が広まった。王国の歴史上で何度か起こったこの流行り病は、今ではある程度の対策方法も確立されていたために、過去の流行と比べると被害は少なかった。


 人口およそ七万を数えるキヴィレフト伯爵領では、三千人ほどの感染者と、年寄りや子供、体の弱い者を中心に四百人強の死者が出ただけで済んだという。


 しかし、その犠牲者の中にはノエインの母も――マクシミリアン・キヴィレフト伯爵の妾もいた。


 発病者と触れ合うことで伝染ると言われているこの病が領内でも流行し始めたとき、マクシミリアンは過剰なまでに屋敷の外との接触を絶った。


 使用人たちにも職務上どうしても必要な場合以外の外出を禁じ、警備の人員も固定して屋敷に寝泊まりさせ、出入りの業者さえ門の前までしか入らせなかった。


 マクシミリアンは自身と正妻、嫡子の安全ばかりに気を遣い、領内の流行り病の収束については領民たちの自主的な努力に任せて屋敷に引き籠ったのだ。


 しかし、強欲で愚かな妾――ノエインの母は外出禁止の言いつけを破った。何度か忍びで市街へと遊びに出て、どこかで流行り病をもらった。


 健康な成人であれば必ずしも死亡率は高くないこの病で、しかし日頃から過度の飲酒と美食に耽り、ろくに運動せず暮らしていた彼女は、高熱が続いて体力を使い果たし、死んだ。


「死にたくない。どうして私がこんな目に。まだまだ楽しく暮らしていたいのに。私がどんな悪いことをしたって言うのよ」


 ノエインが最後に会ったとき、母は熱にうなされながらそう言っていた。


 この病を発症した者との接触は、病が伝染る最大の原因になる。なので普通は、特に死にやすい老人や子供を発症者には近づかせない。


 しかし、マクシミリアンは「お前の母親がお前に会いたがっている」と言ってノエインを母の寝室に入らせた。後から思えば、病が伝染ってノエインが死んでくれたら幸いだと思っていたのだろう。


 平時であれば庶子の死は「当主が自分の都合で、血の繋がる我が子を始末したのではないか」という貴族社会での風評に繋がるが、ノエインが流行り病で死ねば、それは「不運だった」で済まされる。マクシミリアンにとってはまたとない機会だ。


 しかし、神の気まぐれか、あるいは悪魔の悪戯か、ノエインは母に触れられさえしても病にはかからなかった。


「どうして私がこうなって、あんたが元気なままなのよ。あんたが生きてて何になるのよ。おかしいじゃない」


 そう言って母はノエインの腕を掴んだ。恨みがましい、しかし高熱にやられて虚ろな目でノエインを睨んだ。


「ごめんなさい、母上」


 ノエインは表情を全く動かさずに呟いた。今の弱々しい母は全く怖くはないかったが、今まで彼女にぶたれないようにと何度もくり返してきたこの言葉を、いつもの癖で口にした。


 それが、ノエインが母と交わした最後の会話になった。


 数日後に母は死に、遺体はすぐに焼かれた。埋葬はキヴィレフト伯爵家の墓地ではなく領都ラーデンの共同墓地で行われ、ノエインと、母と多少は親しかった数人の使用人、そしてマクシミリアンだけが参列した。


 母はマクシミリアンから見れば金遣いの荒い面倒な妾で、しかし立場を気にせず気楽に情を交わせる相手だったのだろう。その死に少しは思うところがあったのか、どこか寂しげなマクシミリアンの横顔を見て、ノエインは反吐が出る思いだった。


 普通、親とは子を可愛がって大切にするもので、しかし死んだ母と隣に立つ父が自分のことを可愛いとも大切だとも思っていないことは、九歳のノエインにももう分かっている。


・・・・・


 母が死んで一か月ほどが経ったある日の朝、屋敷の端に位置するノエインの部屋に、メイド長がやって来た。


 いつも不愛想なメイド長は、今日もぶすっとした顔と冷たい視線をノエインに向け、口を開く。


「旦那様のご決定により、ノエイン坊ちゃまのお住まいが変わることになりました。お荷物をおまとめください」


 ノエインが曲りなりにも当主の子であるが故に丁寧な言葉づかいで、しかし敬意は欠片も込めていない口調で、メイド長は告げた。


 ノエインは子供ながらに、自分のおかれる状況の変化を察した。どうやらこれからの自分は、この屋敷の中には居場所がないらしい。


 ノエインの私物はごく僅かだ。質は良いが見た目の地味な何着かの服を、こちらも生地はしっかりしているが地味な鞄に押し込めると、メイド長の後に続く。


 屋敷を出て庭を進み、石壁に囲まれた敷地の隅の隅へ。運動不足の子供の足では、広い屋敷の敷地の隅に歩くだけでも多少疲れる。


 広大な庭の一角、人工的に作られた小さな林を抜けると、そこには小さな小屋があった。綺麗な外観を見るに、これは物置の類ではなく、人が住むためのものだ。


 父は金になる作品を生む芸術家や研究で利益をもたらす学者を何人か飼っていて、彼らの住居はこのような小屋として屋敷の敷地の中にある。だが、この林の中には、以前まではこんな建物はなかったはずだった。


「この離れが、今日からノエイン坊ちゃまのお住まいとなります。坊ちゃまがこの離れの外に出ることを禁じると、旦那様が仰っております。ご留意ください」


「……外っていうのは、具体的にはどこから?」


「この離れの入り口の扉から一歩も出るな、という意味です。離れの中と、木柵で囲まれた離れの裏庭までが、坊ちゃまが移動を許された範囲になります」


 ノエインの質問に、メイド長は面倒そうな表情で答える。


「へえ……分かったよ」


 ノエインは皮肉な笑みを浮かべて言った。どうやら自分はこれから、この小さな離れ小屋に閉じ込められるらしいと理解した。


 屋敷の敷地の隅に位置する林の、その奥の奥に作られた離れに面倒な妾の子を隠してしまえば、父の心も穏やかになるのだろう。こんな敷地の隅など、当主はわざわざ訪れるはずもない。客人に見せることもない。ずっと目にすることがないのならば、父にとって自分はいないことと同じだ。


 それは完全に父の都合で、ノエインの不満など一切考慮はされていない。今までずっとそれが当たり前だったので、ノエインは今更何も言わない。


「だけど、普段の生活はどうすればいいの? ご飯は? 身の回りのことは? 僕は飢え死にするまで監禁?」


「いえ」


 わざと煽るような口調でノエインが言うと、メイド長は一層苦い表情で短く答える。その前に小さな舌打ちが漏れたのを、ノエインは聞き逃さず、しかし何も言わなかった。


「旦那様は坊ちゃまのお世話係として、専属で奴隷を一人付けるよう仰られました。その奴隷をここへ連れて参りますので、少々お待ちください」


 メイド長はノエインの返事も待たずに、林の中の小道を本館の方へと戻っていく。


 一人になったノエインは、離れの外観を眺め、その周りを一周してみた。


 正面玄関のある側とは反対、裏手の方は木柵に囲まれており、その中がメイド長の言った「裏庭」らしかった。裏庭の広さは、離れの広さより少し広い程度か。


 たったこれだけの広さの敷地から出るなとは。一体どれだけの期間、自分をここに閉じ込めるつもりなのか。


 父はよく「こんな不義の子を成人するまで食わせてやらねばならんのか」と嘆いていたので、おそらく自分は成人すると同時に縁を切られ、放逐されるのだろう。であれば、この離れに閉じ込められる生活は六年程度か。それとて、軟禁状態で暮らすには長すぎる時間だ。


 今までの九年間も、屋敷の敷地から一歩も出ることを許されなかった。そこにきてこの境遇だ。自分は成人するまでの間、あらゆる自由を奪われて暮らすのだ。自分は罪人ではないのに。何の罪も犯していないのに。


 高さ二メートル以上の、ノエインの背丈では向こう側がまったく見えない木柵を眺めながら、ノエインは憎悪にまみれた凶悪な笑みを浮かべた。それは九歳の子供が浮かべる表情では到底ないが、ノエイン自身にはそんなことは分からない。


「ノエイン坊ちゃま」


 そう呼ぶ声がして、ノエインは我に返ると離れの正面側に戻る。そこにはメイド長と――ボロボロの服を着て地面に座り込む、薄汚れた獣人の少女がいた。


 痛んでボサボサになった黒髪から伸びる長い耳を見るに、種族は兎人。垂れた髪と腫れた目元、痣のある頬のせいでいまいち分からないが、年は十代半ばほどだろうか。


「これが、ノエイン坊ちゃまの世話係となる奴隷です……ほら、礼をなさい」


 メイド長はそう言いながら、足で兎人の少女の背中を軽く蹴る。蹴られた少女は前のめりに揺れ、地面に手をついてノエインに頭を下げた。


「食事は屋敷の本館から離れまでこの奴隷に運ばせるように。他に必要なものや欲しいものがあれば毎月渡す小遣いから用立てるように。何か用があればこの奴隷に手紙を持たせて本館の使用人に届けさせるように。今後は屋敷の本館には一切近づかず、身の回りの用は全てこの奴隷に言い遣わすように。奴隷は好きなように扱ってよいが、殺してしまった場合はお前の生活費から奴隷の代金を差し引く。以上が旦那様からの言伝となります」


 汚物を見るような目で兎人の少女を見下ろしていたメイド長は、その目のままノエインの方を向いて淡々と語る。


「それでは、以後はこの離れからは出ないよう、あらためてお願いいたします」


 そして、やはりノエインの返事を聞くことはなく、林の中の小道を歩いて去って行った。


 後にはノエインと、座り込んだままの兎人の少女だけが残る。


 ノエインは屋敷の外に出たことはないが、一年だけ家庭教育は受けて字を読めるようになり、他にも書物を読んだり使用人たちの雑談を盗み聞きしたりしてきたので、社会のことも多少は知っている。ロードベルク王国、特にキヴィレフト伯爵領のある南部では、獣人がひどく迫害されているという知識はある。


 だからなのだろう、ノエインの世話係となったこの兎人の少女は、酷い扱いを受けてきたようだった。


 ノエインは彼女に歩み寄り、彼女の前で膝をつく。九歳にしては小柄なノエインが膝をつけば、ぺたりと座り込んだ彼女と視線の高さはほぼ同じになる。


 ノエインは彼女の痣と傷だらけの顔に手を伸ばし、


「……痛そうだね。可哀想に」


 優しい表情でそう言って頬を撫でた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る