第328話 新たな国交①
建国から最初の冬を何事もなく乗り越え、春を迎えたアールクヴィスト大公国では、穏やかな日々が続いていた。
「ほら、エレオス。そっとだよ。そっと抱っこしてあげて」
静かな声でそう言いながら、ノエインはエレオスの腕に赤ん坊を――先日生まれた第二子で、長女であるフィリアを渡す。もちろんエレオス一人で赤ん坊を抱き抱えるのは難しいと分かっているので、取り落とすことのないよう自身の腕でもしっかりと支える。
「わあ……」
初めて妹を間近に見たエレオスは、幼いながらに感動した様子で目を見開いている。
「声をかけてあげて。驚かないように、優しくね」
「……フィリア。おにいちゃんだよ」
フィリア。その名前には古典語で「愛」の意味がある。
エレオスが呼びかけると、フィリアは彼の方に顔を向けてむずむずと動いた。まだ目は開いていないが、自分に声がかけられたことは分かっているかのような仕草だ。
「わあぁ……フィリア、フィリア」
その反応が嬉しかったのか、エレオスはしきりに妹の名前を呼ぶ。幼い兄妹の交流に、ノエインは思わず顔をほころばせた。
その横では、まだ出産後の疲れが残っているためベッドで休んでいるクラーラと、その隣に寄り添うマチルダも微笑ましい表情を浮かべている。
フィリアをあまり動かすのも良くないので、その後間もなく赤ん坊用のベッドに戻し、彼女の午睡を邪魔しないよう声を抑えてノエインたちは団欒する。家族で過ごす平和な午後だ。
「……さてと、僕とマチルダはそろそろ仕事に戻らなきゃな」
その途中で、ノエインは名残惜しそうに立ち上がった。今はあくまで昼食後の休憩時間だ。あまり長く休んでいるわけにはいかない。国の長は何かと忙しい。
「それじゃあ、クラーラはゆっくり休んでて。エレオス、お母さんをよろしくね」
「ありがとうございます、あなた」
「おまかせください、父上」
妻と息子に笑いかけ、最後に娘の顔をもう一度見てから、ノエインはマチルダと共に部屋を出る。
そのまま仕事のために自身の執務室に戻ろうとすると、そこへキンバリーが声をかけてきた。
「旦那様、先ほどシェーンベルク閣下がご報告に参られました」
「ペンスが?」
「はい。少々急ぎの内容とのことです。今は会議室の方でお待ちいただいております」
少々急ぎの報告。つまり、何を置いても対応しなければならない緊急事態ではないが、なるべく早くノエインに確認してほしい事項があるというということだ。具体的には、あまり待たせずに応対すべき重要な客人が来ているときなど。
しかし、ロードベルク王国やランセル王国の要人であれば、面会の前に先触れを寄越し、約束を取り付けるのが普通だ。不思議に思いながらも、ノエインはキンバリーに報告してくれた礼を伝えると会議室に向かった。
「待たせたね、ペンス」
「いえ。ご休憩中にお邪魔するほどのことではなかったので」
ノエインの入室を立ち上がって迎えたペンスは、首を振りながら答える。
「それで、急ぎの報告って?」
「はい、実は……ノエイン様にご対応いただきたい客人が来てるそうで。キルデの方に」
ノエインは首をかしげた。アールクヴィスト大公国に客が来るなら、最初に辿り着くのは公都ノエイナか要塞都市アスピダになるはずだ。
「キルデ? ……もしかして、アドレオン大陸北部からレスティオ山地を越えて?」
そして、ノエインは客人がどこから来たかに思い至る。
アドレオン大陸を南北に分断するレスティオ山地は、無数の険しい山が並び、人の行き来を困難にしている。
が、越えるのが不可能というわけではない。現にロードベルク王国やランセル王国には大陸北部と繋がる細い交易路がところどころに存在し、規模は小さいものの北部の国々との交流がある。
大陸北部の人間がレスティオ山地を越えてやって来たのなら、最初にキルデに辿り着くのも納得だ。
「お察しの通りでさぁ。レスティオ山地を挟んでちょうどアールクヴィスト大公国の真北にある、レーヴラント王国からの使者が来ました。あっちの王家からの正式な遣いだそうで」
「そっか。それは確かに、早く会わないとね」
「ちょうどバートがこっちに帰ってたので、今はあいつをキルデに送って応対させてますが……どうしますか? 使者をこっちに招きますか?」
ノエインは少し考えて、そして頷く。
「そうだね。隣国の王家の使者なら、丁重に迎えるべきだ。屋敷に案内して」
「了解です。コンラートを使って、使者をこっちに連れてくるよう『遠話』でバートに連絡します。二、三時間もあれば着くでしょう」
ペンスが退室していくのを見送り、ノエインは小さく息を吐いた。
「レーヴラント王国か……」
一応は隣国ということで、レーヴラント王国の名前と簡単な概要はノエインも知っている。臣下たちにも話している。
小規模な国がいくつも並び立つアドレオン大陸北部の国らしく、人口はおよそ二万人。ノエインが言えた義理ではないが、大陸南部の感覚で見れば小国だ。
また、種族の割合はこちらとは大きく違っている。獣人が人口のおよそ五割、亜人が一割、普人が四割。北部にはこのように獣人が多数を占める国も多く、これらの国では獣人への迫害はなく、むしろ普人の方が「種族的な長所を持たない」ためにやや地位が低いという。
そして、レーヴラント王国の王家は虎人だ。獣人が王族として国を治めているのも、大陸北部では珍しいことではないとノエインは聞いている。
「わざわざ王家が平和的に使者を寄越してきたってことは、悪い話をしに来たわけじゃないんだろうけど……どんな用件だろうね」
そう言ってノエインはマチルダに笑いかけた。マチルダもそれに応えて微笑む。
おそらくは交易路を作って貿易をしたいだとか、そのような話だろう。用件を予想しつつ、ノエインは使者を迎える準備に入る。
・・・・・
それからさほど待たず、バートの案内を受けてレーヴラント王国からの使者が公都ノエイナに到着したと先触れが入る。
一国の王からの正式な使者に相応の礼を示すため、屋敷の前で出迎えに立っていたノエインは――その一行を見て小さく眉を上げた。
その種族の編成は、アドレオン大陸南部ではまずあり得ない。武装した男女一人ずつのエルフと、こちらも武装した一人のドワーフの男。そして、その三人よりも明らかに位が高いと思われる――ダークエルフの女性。おそらく彼女が使者で、他の三人はその護衛だろう。
使者たちはそれぞれ珍しい魔物の毛皮や爪、牙や骨を使っているのであろう装飾を身につけており、中でも使者の女性の服装は、どこか神秘的な威容を放っている。アドレオン大陸南部とはまったく違う文化を持つ地からの客だと、一目見ただけで分かる。
「……ダークエルフか。ロードベルク王国では相当に珍しいな」
「そういう種族がいるとは知ってたけど、実際に見るのは初めてだよ」
「無理もない。俺だって傭兵時代に二、三度見かけたことがあるだけだからな」
一行が屋敷の敷地に入ってくるのを見ながら、ノエインは側近としてこの場に同席しているユーリと小声でそんな会話を交わす。
護衛と思われる三人は徒歩で、使者のみが騎乗していた。山地を越えてきたためか、乗っているのは馬ではなく、グロースリザードという巨大なトカゲのような魔物だ。
これも、見た目の特徴からかつて図鑑で読んだそれだと分かっただけで、ノエインはこの魔物の実物を見るのは初めてだった。
ノエインたちの前に着き、使者はグロースリザードから降り立つ。そして、臍の辺りで両手を組み、優雅に一礼して見せた。
「お初にお目にかかります、アールクヴィスト大公閣下。私は騎士パウリーナ・ベーヴェルシュタム。レーヴラント王国の王であらせられるガブリエル・レーヴラント陛下の友好の遣いとして参上いたしました。レスティーア山地を越えての初の訪問であった故、先触れを出さずに参りましたこと、お詫び申し上げます」
「その点についてはどうかお気になさらず。険しい道のりだったことと思いますが、ようこそアールクヴィスト大公国へお越しくださいました。この国を治める者として、あなた方を歓迎します」
言葉が通じることには、ノエインは驚かない。
古の大国は大陸北部にまで一定の影響力を持っており、その名残から大陸北部でも南寄りにはロードベルク王国とほぼ同じ言語を母語としている国が多い。レーヴラント王国もそんな国のひとつで、一部の単語の訛りなどが違う程度だ……という話を、ノエインは歴史に詳しい妻クラーラから聞いたことがあった。
しかし、このパウリーナ・ベーヴェルシュタムの「騎士」という名乗りには内心で驚く。彼女の身なりは周囲の護衛と比べても明らかに軍人のそれではなく、体つきも戦闘職のそれには見えない。
そんなノエインの疑問を察したのか、騎士ベーヴェルシュタムは微笑んだ。
「我が国ではいわゆる『騎乗して戦う者』の意ではなく、身分のひとつとして騎士という言葉を用います。大陸南部で言うところの下級貴族が騎士、上級貴族が候、その上に王がおります。なので私のことは……士爵に準ずる立場としての扱いをいただければと」
「……なるほど、分かりました。説明に感謝します。長旅でお疲れでしょうから、ひとまず中へどうぞ」
ノエインは騎士ベーヴェルシュタムの一行を屋敷内へ招き入れ、使者である彼女を応接室に自ら案内する。
テーブルを挟んで向かい合わせに座り、ノエインの隣にはユーリが、後ろにはマチルダが、ベーヴェルシュタムの後ろにはエルフの女兵士がついた。
ノエインはまず準男爵であるユーリを紹介した上で、あらためてベーヴェルシュタムにはるばる遠くから来たことへの労いの言葉をかける。彼女からは歓迎への感謝や大公国建国への祝辞を伝える言葉が語られ、そうした社交辞令で場の空気が暖められる。
そして、ベーヴェルシュタムが少し姿勢を正した。
「さて、アールクヴィスト閣下。私はレーヴラント王国よりの友好の使者として参上したと、お伝えいたしました。その件について、お話させていただきたく存じます」
本題に入る気配を見せた彼女に、ノエインの隣でユーリが気を引き締めたのが気配で分かる。ノエインもあらためて社交用の笑顔を整えつつ頷く。
「分かりました。話を聞きましょう」
「感謝いたします。それでは……我が主君であらせられるガブリエル・レーヴラント陛下は、アールクヴィスト大公国と友好を結び、交易路を築いて貿易を行うことを望んでおられます。私はそのことをお伝えし、閣下にご承諾をいただくための交渉の使者として、この度参りました」
おおよそ予想通りの用件だ。内心でそう思いながら、ノエインは微笑みを保つ。
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