第323話 建国式②
アンリエッタ女王を迎えた夜には、別館の広間を使って会食の席が用意された。
ノエインとクラーラ、オスカーとイングリット、アンリエッタが夕食を共にし、ここでは政治の話ではなく、単純に互いに友好を深めるための歓談がなされる。
主な目的は、初対面であるノエインたちとアンリエッタが打ち解けること。オスカーとイングリットの手助けもあって会食は和やかに進み、アンリエッタの表情も最初よりは幾分か柔らかくなった。
アールクヴィスト家の当主夫人であるクラーラはそのことに安堵しつつ――今は会食後、女性同士の茶会に臨んでいる。
これは別館のバルコニーでお茶を囲み、女性同士で親交を深める場だ。ノエインとオスカーの方も、おそらくは他の貴族も交えて男たちで酒を飲みながら語らっていることだろう。
マチルダはノエインの方についているので、ここにいるのはクラーラと客人と、それぞれの傍付きの使用人だけだ。
「アンリエッタ陛下、少しお疲れですか?」
「……ええ、旅の疲れでしょうか。申し訳ございません」
「いえ、謝られる必要などございませんわ。長旅は疲労するものですから」
クラーラはアンリエッタを気遣いつつ、おそらくは移動だけでなく、今夜の社交による気疲れもあるのだろうと考える。
「……それにしても、アールクヴィスト卿は信心深い方ですのね。先ほどの会食のときは、少し驚きました」
場の空気を和らげようと話題を提供したのは、王妃イングリットだ。彼女が話題にしたのは、食事に手をつける前に神への祈りを捧げていたノエインの行動について。
世俗化されて久しいロードベルク王国では、王家や貴族の人間であってもそれほど頻繁には祈らない。ノエインのように、食事前に必ず己の信じる神に祈りを捧げる者は珍しい部類に入る。ランセル王国の方も似たようなものだ。
「そ、そうですね。私も驚きました。事前にお話を聞いた限りでは、アールクヴィスト卿の印象はどちらかというと……」
「……どちらかというと、実利を重んじて伝統や信仰には興味を持たない性格に思われましたか?」
クラーラにそこまで言われて、アンリエッタは「安易な言い方をしてしまった」という顔になる。
「も、申し訳ございません」
「ふふふ、大丈夫ですよ。どうかお気になさらず」
縮こまってしまったアンリエッタに、クラーラは優しく微笑んだ。
「確かに、夫は実利を強く重んじる性格です。実際の力こそが家と民を守り、相互利益こそが信用を生むと常に考えています。ですが……いえ、だからこそ、実利を重視する考えの限界もあると理解しているのでしょう」
「限界、ですか?」
「ええ。先のベトゥミア戦争で、夫は現実に用意できるあらゆる力を集め、実現の見込みのあるあらゆる策をめぐらせて戦いました。それでも絶体絶命の状況に陥り、そこで最後に夫を救ったのは、ひとつの幸運でした」
あのとき、まさしく神のもたらした奇跡とでも言うべきタイミングでランセル王国の参戦がなければ、ノエインたちは敗北し、アールクヴィスト領は滅びていた。
「夫は決して神を妄信しているわけではありません。ですが、この世には人智を超えた何かがあるのかもしれない。人の運命を左右する、人に壁を越えさせる、見えざる力があるのかもしれない。そう考えています。夫は実利を重んじるからこそ、今では信仰も重要視しているのだと思います。全ては私たち家族や、臣下や、民のために」
クラーラの言葉を噛みしめるように聞いていたアンリエッタは――少し自嘲気味に笑った。
「アールクヴィスト卿は、とても強いお方なのですね。私とそれほどお年が離れているわけではないのに、これから一国の主となるにふさわしい偉大なお方です……私は、自分が不甲斐なく感じてしまいます」
その発言に、クラーラは少し驚いて彼女を見る。
「アールクヴィスト卿は強い信念と覚悟をお持ちだからこそ、一代でこの地に国を築く偉業を成し遂げられたのでしょう……それに比べて、私は血筋だけに価値のあるお飾りの女王です」
アンリエッタは暗い表情でぽつぽつと語り始める。
「私の治世は同胞同士で争う流血の歴史から始まってしまいました。その間も私は、臣下たちが行動を起こすのに名前を貸していただけです。大凶作による飢饉も、先のベトゥミア戦争も、粛清したかつての臣下たちの血に汚れた財産や土地に手をつけることで乗り越えました。今もまだ王国の基盤は不安定で……果たして、私のような女王が国を治めていけるのか」
「陛下」
後ろの侍女が無礼を承知で口を挟み、アンリエッタははっとした表情で口を押さえた。
女王が隣国の王妃と、これから隣国の公妃となる女性の前で、安易に弱音を吐くべきではない。それを分かっていながら無意識に吐露してしまうあたり、やはり彼女はまだ外交に慣れず、君主としても未熟なのだろう。
そして何より、似ている、とクラーラは思った。
アンリエッタはかつての自分に、ノエインのもとへ嫁ぐ前の自分に似ているのだと。
かつてはクラーラも、こうして暗い表情で生きていた。自分にはケーニッツ家の令嬢であるという血筋以外に価値はないと考えて生きていた。
アンリエッタが今どのように考え、悩んでいるかは、痛いほどよく分かる。
「……そうして悩まれるのは、アンリエッタ陛下が女王という立場とお役目に、真摯に向き合っておられるからでしょう。陛下はとても誠実なお方なのですね」
「私が……誠実ですか?」
小さく首をかしげるアンリエッタに、クラーラは優しい表情で頷く。
「ええ。きっと陛下には、ご自身の理想とする君主の姿があられるのだと思います。であるからこそ、ご自身がまだその理想に届かずにいると感じ、苦悩されているのでしょう。そのお悩みは、陛下がより良き君主であろうと、誠実な気持ちで日々努力されていなければ生まれないものです」
アンリエッタはしばし顔を伏せ、不安げな表情で、思わずといった様子でクラーラに問いかける。
「私は、どうすればいいのでしょうか」
「私も偉そうに助言できる立場ではありませんが、畏れながら申し上げられることがあるとすれば……周囲に頼るのを恐れないことが、何より肝要ではないかと存じます」
こうしてクラーラとアンリエッタが言葉を交わす横で、イングリットは年長者としてその場を見守るように、黙ってお茶に口をつけている。
「私の夫は聡明な人ですが、全能ではありません。本人も、自分で何でもできるとは考えていません。だからこそ専門知識や技術を持った者を重用し、その助けを受けてきました。そんな夫の姿を見て私は思いました。為政者は一人で社会を治めるのではなく、臣下や民と支え合って社会を守るものなのだと」
クラーラの話に、アンリエッタは静かに聞き入る。
「夫はこれからも臣下や民がそれぞれ持つ力を見出し、それに見合った立場を与え、その言葉を聞き、彼らと手を取り合ってこの地を発展させていくのだと思います。夫は常に臣下や民への愛を謳っています。愛とは即ち信頼です。臣下や民を信じることが、夫の強さなのでしょう」
「周囲に頼り、臣下や民を信じること、ですか」
「ええ。アンリエッタ陛下が慕われる女王でいらっしゃるのは、陛下のお傍に控えておられる方々を見ていても伝わってきます。陛下がご自身の意思で行動されるとき、周囲の方々は真摯にお支えしてくださるのではないでしょうか……私の夫は今までそうしてきました。私も、当主夫人として臣下や民に助けられてきました」
クラーラはノエインの庇護や、臣下と民の助けを受けて学校を作り上げた。歴史の研究に取り組み始めた。ノエインが不在の間は、臣下たちを頼りながら領主代行としての務めを果たしてきた。
無力な少女だったクラーラは、周囲の助けを受けて自身の居場所を作り、自身の存在意義を持ち、今ここにいる。クラーラが語る助言は、自身が見てきたノエインの姿だけでなく、自身の実体験にも基づくものだ。
「私がお話しできることはこれくらいですが、いかがでしょうか。僅かでも陛下のお役に立つことがありましたら幸いですわ」
「……ありがとうございます。何かが、掴めた気がいたします」
幸いにもアンリエッタはクラーラの助言に意義を見出したようで、先ほどまでと比べると晴れやかな表情を見せる。
「私は今まで、とにかく臣下や民の望む言動をとり続けなければと、そんなことばかり考えていました。弱音を吐いてはいけないと、でなければ見捨てられてしまうと、そんなことばかり。女王の私がこんなに頑なでは、周囲の者も接し辛かったことでしょう……今一度、自分の理想とする君主になるための、道の歩み方を考えてみます」
そう言って笑うアンリエッタに微笑みを返しながら、クラーラは二つの安堵を抱えていた。
ひとつは、アンリエッタの力になれて良かったという純粋な善意。もうひとつは、彼女がこのままお飾りの女王になっていくのを防げそうだという、政治的な安堵だ。
今のランセル王国は、側近たちがアンリエッタの血統による権威を借りながら実務を回して成り立っているのだろうと容易に想像できる。
その果てに行き着くのは、傀儡の王家と権力の肥大した大貴族から成る政治体制だ。側近たちが真面目な当代は良くても、代を重ねれば必ず腐りゆく体制だ。
隣国がそんな不健全で不安定な状況に陥らないためにも、アンリエッタには周囲を頼りながら成長してもらわなければならない。正しく臣下に支えられ、己の意思で国を治めてもらわなければならない。
悲しいかな、公妃となるクラーラの言動にはこうした政治的意図が絡む。
「……へくしゅんっ」
と、不意にアンリエッタがくしゃみをした。その可愛らしい仕草と、顔を赤らめて「し、失礼しました」と照れる姿に、クラーラもイングリットも思わず笑う。
「夜風で少し冷えてしまったみたいですね。夏とはいえ、このあたりは夜は涼しいですから」
「長旅でお疲れでしょうし、式典に備えて早めに休まれた方がいいかもしれません」
「ええ、申し訳ございません……それでは、私はお先に休ませていただくことにします」
アンリエッタは侍女に寄り添われて客室に戻っていき、後にはクラーラとイングリットが残る。
「アールクヴィスト夫人。あなたは随分と強くなられましたね」
そして、イングリットが口を開いた。少々意外な言葉に、クラーラはきょとんした表情になる。
「あなたと初めて話したときのことは覚えています。南西部大戦の勝利を祝う晩餐会の場でしたね。あのときはまだ立場に慣れていない様子でしたが……先ほどの話しぶりを聞いて、あなたがいかに強くなったかが分かりました。ただ強くなっただけではなく、今のあなたには誇りがあると。そう感じましたよ」
普段はどちらかというと厳しい印象を感じさせるイングリットだが、今はその表情は柔らかい。
そしてクラーラは、自信に満ちた顔で彼女の言葉に頷いた。
「ありがとうございます。確かに今は、私はアールクヴィスト家に、そして自分自身にも、誇りを持つことができていると思います」
自分はアールクヴィスト夫人だ。ノエインの妻だ。夫と共に我が子を、この地を導く母だ。マチルダと共にノエインを愛し支える一人の女だ。そして、教育と学問に取り組む一人の人間だ。
それがクラーラ・アールクヴィストだ。今の自分にはその誇りがある。
「ふふふ、それでこそ一国の妃にふさわしい佇まいですね……その調子で、これから私と仲良くしてくださいな。この年で、このような立場にいると、新しく友人を作るのも一苦労なのよ」
そう語るイングリットのくだけた言葉遣いが、今までの彼女の印象とは大きく違っていて、クラーラは目を丸くした。そして、微笑を浮かべて頷く。
「ええ、私でよろしければ、どうか殿下のご友人の列に加えていただきたく存じます」
「あらよかった、嬉しいわ。面倒な政治の駆け引きは夫たちに任せて、私たちは楽しく友好を育んでいきましょうね」
冗談めかした口調でニヤリと笑ったイングリットと、クラーラはそれから少し距離の縮まった談笑を楽しむ。
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