第311話 永久に
従士たちを下がらせ、室内でマチルダと二人きりになったノエインは、彼女の方を向いた。
「マチルダ、君にも大事な話がある」
「……はい、ノエイン様」
その言葉を受けて、マチルダは神妙な面持ちでノエインの前に立った。
「この話をするのは、僕が生家を追い出されたとき以来だね。僕の立場が大きく変わる今、もう一度だけ言わせてほしい……マチルダが望むなら、僕は君を奴隷身分から解放して、妻に迎えるつもりだ。どうしたいか、君の意思を聞かせてほしい」
一国の主になれば、ノエインは異国の貴族の評判を今までほど気にせずともよくなる。陰で悪く言われるのはどうしようもないが、面と向かってノエインを「元奴隷の獣人を妻に持つ変態だ」と罵って害するような貴族はいないだろう。
だからこそ、ノエインは今一度マチルダに問いかけた。
そしてマチルダは、目を閉じて、自身の気持ちを確かめるようにしばし考える様子を見せ――静かに目を開いてノエインを見つめ、口を開いた。
「私は……これからも、ノエイン様の奴隷としてお傍に控えさせていただきたいと思っています」
「……理由を聞いてもいいかな?」
優しく尋ねるノエインに、マチルダは頷く。
「ひとつは、クラーラ様との約束です。クラーラ様はノエイン様と共に並び立ってこの地を治める妻として、私はノエイン様のお傍に常に寄り添う従者として、それぞれの立場にいなければできないかたちであなた様をお支えすると誓い合いました」
クラーラは、妻としてノエインの隣に並ぶ。ノエインと同格の立場として政治や社交の場に立ち、ときにノエインの代わりに領主代行を務める。もしノエインが戦場で散るようなことがあれば、その遺志を継いでこの地を守る。
一方で、マチルダの立場はただノエインに尽くすだけのものだ。ノエインと並んで立つのではなく、ノエインの一部となって、ノエインが立つのを支える立場だ。ノエインの心労を軽くし、ノエインの身と心を癒し、ノエインと共に生き、ノエインと共に死ぬ。ただそれだけの、だからこそノエインに必要な立場だ。
クラーラの立場の半分をマチルダは奪うつもりがないし、自身の立場の半分をクラーラに譲り渡すつもりもない。だからこそ自分とクラーラは同志であり、家族であり、親友でもある。ノエインの愛を、それぞれ違うかたちで分け合っていられる。そんな考えをマチルダは語った。
「もうひとつは……やはり、私はノエイン様の奴隷でいることで安心したいのです」
マチルダの人生における幸福は、全てノエインの奴隷として、ノエインの傍にいる中で得たものだ。
奴隷という身分は、自身の全てを所有者に握られる。それは大多数の人間にとって望ましくない、避けたいことだが、マチルダにとっては違う。自身の身と心の全てをノエインに預け、「ノエインのもの」として絶対の庇護を得るのは、この上ない安らぎとなっている。
もしマチルダがノエインの妻になれば、今のままの関係ではいられない。一国の元首の妃に求められる役割は多い。常にノエインの傍に寄り添い、ノエインの全てを肯定し、ノエインの求めるままに身と心を捧げることは叶わない。マチルダはそんな日々を望まない。
「つまり、これは私の我が儘です。いついかなるときでもノエイン様に甘えていただける、唯一無二の立ち位置にあり続けたい……そんな我が儘を、貫きたいだけなのです」
そう言って、マチルダは微苦笑を浮かべた。
「私は今の自分の立ち位置を愛しく思っています。ただの単純な奴隷ではない、正式な妻でもない、正しく形容する言葉さえない私だけの立ち位置に、この上ない喜びを感じています。それを与えてくださるノエイン様を心からお慕いしています。なのでどうか、これからもあなた様のお傍に立たせてください」
「……分かった。この話はもうしない。君には身分や立場を自分で選ぶ自由がある。その自由を以て選んだのが、常に僕の半身として傍に控える立ち位置なら……僕はこれからもずっと君を傍に置く。マチルダは僕にとって唯一無二の存在だ。君の幸福はこれからも僕が守る」
ノエインはそんなマチルダに微笑みを返しながら答える。マチルダが何を幸福と感じるか。その心の内はマチルダだけのものだ。彼女が選んだ幸福を、ノエインは受け入れ、守るだけだ。
「……はい。ありがとうございます、ノエイン様」
瞳を潤ませるマチルダに頷き、ノエインはさらに続ける。
「その上で、僕からマチルダにひとつ、贈り物をさせてほしい……名誉士爵位を」
その言葉に、マチルダは息を呑んだ。
「……っ、それは……可能なのでしょうか? 奴隷が爵位を持つなど、制度上、矛盾してしまいませんか?」
「あははは、矛盾するだろうね。だけど僕は、これからずっと一緒にいるマチルダが絶対に周囲から軽んじられないような保障を作りたい。どこの国の誰の前でも、マチルダが粗雑に扱われない保障がね」
ノエインはマチルダの反応に微苦笑しながら答える。
「他国の元首や貴族が僕の所有物である奴隷を害したら、それは表向きは賠償問題にしかできない。だけど爵位を持つ者を傷つけたら、それは即座に外交問題になって、戦争に発展するかもしれない。そうなると分かっていて、迂闊にマチルダを傷つける者はいない」
言いながら、ノエインは椅子から立ち上がり、マチルダに歩み寄る。そして、彼女を見上げていたずらっぽい笑みを見せる。
「それに……僕も男として格好をつけたいからね。大切な女性には、特別な贈り物をあげたい。制度上の矛盾を強権で押し切るくらいマチルダを特別に思ってるんだって君に示したい。周りにも、マチルダが僕にとってそれほど特別なんだって見せつけたい。これは僕が僕の権限をもって押し通す我が儘だ。偉大で公平で優しい大公閣下の、たったひとつの酔狂な我が儘……今までの頑張りを考えれば、このくらいは許されるよね?」
マチルダは目を丸くして、涙を一筋流して、ノエインを見つめながら笑った。
そして片膝をつき、ノエインに首を垂れた。
「……ノエイン様。名誉士爵位の称号、謹んで受け取らせていただきます。賜る特別な栄誉にふさわしい従者でいられるよう全身全霊で努めます。これからも永久に、私の身と心の全てをあなた様に捧げます」
「ありがとう。君の全てを、僕の一部として守り抜くと誓うよ……マチルダ、顔を上げて」
ノエインに言われた通り、マチルダは顔を上げて主人の顔を見上げた。
「おいで、マチルダ」
その言葉でマチルダは立ち上がり、甘えるような表情でノエインに抱きついた。ノエインも彼女を抱き留めた。
そうしてしばらくの間、二人は愛する相手の温もりを感じる。
「……それじゃあ、建国に向けて頑張ろうか。僕たちの幸福な未来のために」
「はい、ノエイン様」
自身の執務席につくノエインに、マチルダも補佐官としての席につきながら答えた。
アールクヴィスト大公国としての独立に向けて、これからやるべき仕事は山積みだ。
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