第281話 大きな代償

 時節は三月中旬。場所はキヴィレフト伯爵領ラーデンの旧領主家屋敷。


 今はベトゥミア共和国軍の司令部となっているこの豪奢な建物の中、総司令官執務室にいたチャールズ・ハミルトン将軍は、政治参与のディケンズ議員の来訪を受けていた。


「ハミルトン将軍! 前回に引き続きこの報告書はどういうことですか!? こんな、こんな……何たる有り様だ!」


 ディケンズ議員がチャールズの目の前に叩きつけたのは、本国に送るための戦況や損害の報告書だ。


「まだロードベルク王国の半分も支配できていないのに、これまでの死者が八千人を超えてしまったじゃないですか! さらに負傷者は五万人以上……それも、そのうち九割以上が例の毒による損害だなんて!」


 わざわざ丁寧に説明してくれるディケンズ議員を、チャールズは無言で見返す。報告書を記したのはチャールズ自身なので、彼に言われなくても死傷者数はよく知っている。


「毒で麻痺した者は、その後も十年単位で麻痺が残ったままになるというじゃないですか! 後遺症持ちをベトゥミアの社会にこんなに大勢抱えて……なんで敵はそんな毒を使っているんですか!」


「……それは敵に聞いていただかなければ」


「くっ!」


 当たり前のことを返されたディケンズ議員は言葉を詰まらせ、苦々しい表情でチャールズを睨みつける。


 こうなるのも当然だ、とチャールズは内心で思う。


 無茶な侵攻計画の実行を命じられた結果、二正面作戦どころかロードベルク王国中央、東部、西部を同時に侵攻するという三正面の戦いを強いられた。


 その結果、戦力は分散され、冬明けまでに王都リヒトハーゲンも、南東部のビッテンフェルト侯爵領の領都も落とせなかった。南西部のガルドウィン侯爵領を落とせたのも、前線指揮官のフォスター大軍団長が才覚を発揮しつつ幸運に恵まれたからに過ぎない。


 冬明けからはさらに悲惨だ。フォスター大軍団長も敵の激しい抵抗に阻まれてついに進撃が止まり、中央部の王都包囲部隊は敵の大部隊と接敵し、南東部に至ってはついにビッテンフェルト侯爵領の領都を陥落させられないまま、侵攻計画の帳尻合わせのためにさらに北部へ進んでやはり停滞。戦果は挙がらず、死傷者だけが増えていく。


 ただ一点、敵が用いる毒についてはチャールズも完全に予想外だった。体が麻痺した負傷者の世話や移送でこちらの手間を増やし、補給計画をも麻痺させる。おそらくはベトゥミアの社会に大量の後遺症持ちを抱えさせることで国力を低下させ、さらに国民の士気を下げることも狙っているのだろう。


 ロードベルク王国にこれほど狡猾な手を考えられる者がいたとは驚きだ。


「もう何度もこんな凶報ばかり報告して、私がフィルドラック首相からどれほど叱られているか、どれほど辛いか、あなたに分かりますか!? 本国はこの戦争の損害に見合う利益を得られるのか、強く疑問視しています! 送還された負傷兵たちが好き勝手に戦争を悪く言うせいで、国民には早くも厭戦の空気が広まり始めています! これも全て――」


「緊急報告です!」


「私が喋っているのに邪魔をするなあ!」


 そこへ伝令の兵士が飛び込んできて、ディケンズ議員が怒鳴り声を上げる。


「いや、いい。報告しろ」


 思わぬかたちで怒鳴られて固まる伝令兵に、チャールズはディケンズ議員を無視して命令した。


「……では報告いたします。西部侵略軍の本部より、先ほど連絡が届きました。それによると、ランセル王国が大軍を率いて国境封鎖部隊を壊滅させ、南西部のベトゥミア共和国軍支配域へと侵攻を開始したそうです」


「んあああああっ! なんっでこんなときにそんな報せを持ってくるのだあああっ!」


 滅茶苦茶な理由で叱責を受けて、伝令兵が戸惑ったようにディケンズ議員とチャールズの間で視線を迷わせる。チャールズは議員の癇癪にかき消される程度の小さなため息を吐き、言った。


「フォスター大軍団長率いる西部侵攻部隊を退却させ、アハッツ伯爵領の守りを固めるよう伝えろ。港の維持が最優先だとな。行ってよし」


 伝令兵を下がらせたチャールズにディケンズ議員は目を剥く。


「ハミルトン将軍っ! それは西部の侵攻を止めるということか!? 西部の戦場はとりわけ被害が大きいのに! これまでの損害を無駄にするというのか!?」


「ランセル王国軍にアハッツ伯爵領の港を落とされれば、西部侵略軍の全員が退路を断たれます。そうなれば被害はさらに甚大になる。今よりもっと大きな凶報を本国に届けたいですか?」


「~~~!」


 もはや言葉ではなく動物のような奇声を上げ、その後も十秒ほど叫びながら頭を抱えていたディケンズ議員は、気が済んだのか肩で息をしながらチャールズに向き直る。


「……将軍、政府の高速船の用意を今すぐにしていただきたい」


 高速船とは、速度を出すことを重視して設計され、さらに追い風を生む大型の魔道具まで搭載したベトゥミア政府の専用船だ。これがあれば、通常は片道二週間ほどかかるロードベルク王国とベトゥミア共和国の行き来を、天候にもよるが往復十日まで縮められる。


「しかし、予定では高速船の出港は二日後のはずです。急に予定していない出港を挟めば輸送計画が大きく混乱します。今は輸送船の出港を優先し、一人でも多くの負傷者を本国に送るべきでは?」


 ディケンズ議員の要求に反応したのはチャールズではなく、傍らに立つ副官だった。


「たかが一士官が政治参与の私に口答えするとは何事だ! 私が本国に口添えすれば、お前の家族を投獄することもできるのだぞ!?」


「っ!」


 露骨な脅しに副官が息を飲む。チャールズは目を細めてディケンズ議員を睨むが、頭に血が上った彼は気づかない。


「今は一刻も早く政府に状況を知らせるのが先だろうが! 負傷者などそこらに転がしておけばいいのだ! いっそのこと、私の仕事の邪魔になる無能な兵士など殺してしまえば――」


「分かりました。高速船の出港準備を最優先で行いましょう。午後には完了させますので、それまでしばしお待ちを」


 怒鳴り散らす勢いをチャールズの言葉で削がれ、ディケンズ議員は数秒固まる。チャールズと目が合うと、その気迫に怯んで視線を泳がせた。


「……いいでしょう。くれぐれも急いでください」


 それだけ答えて退室していくディケンズ議員。その足音が遠ざかってから、副官が口を開いた。


「よろしいのですか? 輸送を含めて軍事面の決定権を持つのはハミルトン閣下です。あのような自分勝手な振る舞いを聞いてやる必要は……」


「いい。確かに負傷兵の本国送還は遅れるが……結果的にこの方が、より多くの兵を救えるだろう」


 チャールズの言葉の意味を捉えかねて副官が怪訝な表情を見せる。


「私の予想では、この戦争は間もなく終わる――我が国の敗北でな」


 チャールズは富国派の議員たちとの、特に現首相であるフィルドラック議員との付き合いが長い。遺憾ながら、彼とその側近たちの価値観や性格はよく知っている。あの連中ならそろそろ損切りを決めるだろうとチャールズは見ている。


 おそらく自分は、本国に帰って敗戦の責任を全て背負わされることになる。そして、この地位にいながら我が身可愛さに富国派の暴走を見逃してきたツケを払わされる。


 ろくな運命が待っていないことを予想しながら、しかしチャールズは小さく笑った。


・・・・・


 キヴィレフト伯爵領ラーデンの港には、かつてこのラーデンを拠点とする大商会が保有していた巨大な倉庫がいくつも立ち並んでいる。


 ベトゥミア共和国軍に接収されているこれらの倉庫は、今は本国への送還を待つ負傷者たちの待機所と化していた。


 しかし、その中の状況は悲惨だ。負傷者のほとんどは敵が『天使の蜜』と呼ぶ毒を食らって体に後遺症を抱えており、自分では食事はおろか用を足すことも苦労する者ばかりだった。


 予想以上に負傷者が多いため全員がすし詰め状態で倉庫内に寝かされており、世話係の兵士も十分とは言えない。ほとんどの者が何日も水浴びはおろか体を拭くことさえできておらず、何時間も放置されてその場で尿や便を垂れ流している者までいる。


 息が詰まるような臭気と、陰鬱とした空気が漂う倉庫の中で、負傷者たちが交わす言葉もまた暗い。


「……なあ、聞いたかよ。敵は一般兵士ばっかり狙ってて、士官や将官は皆無傷で帰国できるって話」


「当然聞いてるさ。色んな奴がその話をしてたよ。何でも士官や将官はベトゥミアの政治家の知り合いが多いから、敵に見逃されてるって話だ」


「周りを見てみろよ。負傷者は一般兵ばかりで、お偉いさんなんて一人もいねえ。その話も本当だろうよ」


 実際は士官や将官の負傷者もそれなりにおり、一般兵士とは別の場所で寝かされているが、軍事に疎い志願兵たちはそのことを知らない。


「くそ……なんで俺たちはこんな目に遭って、あいつらだけ元気な体で……政治家の身内以外はどうでもいいっていうのかよ」


「敵が弱くて楽勝だなんて話も大嘘だった。政治家どもは俺たち国民に嘘ばっかり吹き込みやがったんだ」


「こんな……こんな体になっちまって……国に帰ってもどうやって嫁やガキを食わせてやればいいんだ……」


「俺は従軍の褒賞で土地をもらって、国に帰ったら婚約者と結婚するはずだったのに……きっとフラれちまう」


「おあえらはまだましらよ、おれらんて、ひゃえるころもれきない……うう、ううう~」


 何人かが泣き言を漏らし、顔が麻痺してしまった者が本格的に泣き出してしまう。それに釣られて周辺にいた者たちも涙をこぼし、空気が一層重くなる。


「……俺はもっと酷い話を聞いた。お偉いさんたちが俺たちみたいな後遺症持ちを邪魔に思って、本国に送還せずに殺してるって噂だ」


「なんだって!?」


「おいおい、嘘だろ……」


 衝撃的な話が飛び出したことで負傷者たちが驚愕する。


「本当だ。移送中の少数の負傷者を殺して森に捨ててるのを見たって噂を聞いた。俺たちが殺されずに済むのは、他の兵士の目もたくさんあるからだと。もしここにたどり着く前に殺し屋部隊と出会ってたら……俺たちもきっと死んでたぞ」


「おい、その噂は俺も聞いたぞ!」


 やや離れたところに寝かされていた男が会話に加わる。距離があるため声も少し大きくなり、そのせいでさらに多くの負傷者が会話を聞くことになる。


「なんでも将軍の直轄部隊が、負傷者を減らして輸送を楽にするために殺して回ってるって話だ」


「おい、将軍直轄って……」


「あの部隊は、政治家の親戚や子弟がコネで多く配属されてるらしいじゃねえか」


「くそ! ここでも政治家の身内かよ!」


「しかもその部隊、笑いながら負傷者をいたぶって殺してるって話だ。生きたまま手足を切り落としたとか、動けないほど痛めつけて放置して、魔物に食わせてるとか……」


 ここまで何人もの語り手を経由したために巨大な尾ひれがついた噂話は、負傷者たちを恐怖と憎悪で包んだ。


「……政治家め。何が国のためだよ。何が俺たちの豊かさのためだよ!」


「きれいごとを語って、俺たちを利用しただけじゃないか!」


「あいつらは嘘ばかりだ。俺たちがこうなったのも全部あいつらのせいだ!」


 この待機所で。そして移送中の馬車や船の中で。他にすることもない負傷者たちは、恨むべき敵を探して想像を膨らませながら語り合う。

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