第243話 悪魔の発想
「ひとつだけ、案がございます。その前にまず確認させていただきたいことがあるのですが……ここに、セネヴォア伯爵領の関係者はいらっしゃいますか?」
北東部に領地を持つセネヴォア伯爵は、ミレオン聖教伝道会の総主教が代々受け継ぐという、王国でも数少ない世襲ではない爵位だ。
セネヴォア伯爵領の人口は4000人ほどで、その全てがミレオン聖教の関係者及びその家族。出入りできるのも基本的には領内外の聖教関係者に限られており、実質的にミレオン聖教伝道会の総本山かつ自治領となっている。どちらかというと、伝道会の総主教の地位に、セネヴォア伯爵位が王国の儀礼的に付随していると言った方がいい。
そしてこの領は、濃度次第で猛毒にも麻酔薬にもなる秘伝の魔法薬『天使の蜜』の生産が唯一行われている場所でもある。
「……ここに。ミネリエン男爵です。ミレオン聖教伝道会の代表として参っております」
ノエインの問いかけに応えたのは、伝道会が唯一有する軍事力である、総勢300人ほどの聖教騎士団の団長、ミネリエン男爵だった。彼の爵位も、代々の聖教騎士団長に受け継がれる特例的なものだ。
そしてこのミネリエン男爵は、現在のロードベルク王国でも片手で数えるほどしかいない獣人の貴族である。種族は虎人で、頭の上にはその象徴である耳が立っている。
「ミネリエン卿、お尋ねします。『天使の蜜』の原液をできる限り多く揃えようとしたら、冬明けまでにどの程度の量を用意できますか?」
「……一〇リットルの壺で、六〇〇壺といったところでしょうか。ただしこれは原料となる魔法薬草のうち、種を絶やさないために最低限必要な量を除く全てを薬品化した場合の生産量です。一度これだけの原液を生産したら、当分は『天使の蜜』の生産は叶わなくなると思っていただきたい」
少し考えるそぶりを見せた後、ミネリエン男爵は言った。それに対してノエインも、少し芝居がかった仕草をしながら答える。
「なるほど……ということは、上手く使えば一壺あたり数百人を麻痺させることができるでしょうね。六〇〇壺なら、計算上はベトゥミアの侵攻軍の全員に原液を食らわせることもできる」
ノエインの言葉を聞いて、貴族たちが近くの者とぼそぼそ話し始め、室内が少し騒がしくなる。平然としているのはベヒトルスハイム侯爵やアルノルドなど、既にノエインの案を聞いているごく一部の者だけだ。
「アールクヴィスト卿、どういうことですか? 『天使の蜜』で敵を痺れさせた上で討つということですか?」
「それなら最初から敵を殺せばいいだろう。なぜわざわざ『天使の蜜』を用いるのだ?」
何人かの貴族たちが直接ノエインに疑問を投げかける。
「順を追って説明させていただきます。どうかお聞きください」
「アールクヴィスト卿がこう言っているのだ。皆、聞いてやろうではないか」
ノエインに続けてブルクハルト伯爵が言ったことで、貴族たちのざわめきも収まる。
「……では、私の愚考いたしました案をご説明します。細かな部隊運用については後ほど考えるとして、私の提案する大きな方針はひとつ。『天使の蜜』の原液を塗った武器で敵を傷つけ、原液の効果で麻痺させ……そのまま敵を生かしておく、というものです」
ノエインが言うと、ざわめきこそ起きないものの、貴族たちは一様に怪訝な表情になった。
「主に弓やクロスボウを使い、矢の先に『天使の蜜』の原液を塗って攻撃し、しかし敵をなるべく殺さずに傷を負わせるにとどまる。これが基本戦術です。こうすると、敵には最初の痺れが解けた後も、体に後遺症の麻痺が残ります。そんな負傷者を数多く抱えたら、ベトゥミア軍がどうなるかご想像は容易かと思います」
「……負傷者を続出させ、その救助や手当て、後方への移送、本国への送還などで敵に負担を強いる、ということか。なるほど」
呟きながら、シュタウフェンベルク侯爵が感心したように頷いた。
「まさしくシュタウフェンベルク閣下の仰る通りです。体に麻痺を抱えた、自力で身の回りの世話もできない負傷者たち。これをただ移送するだけでも敵軍は相当な負担を強いられ、動きが鈍るでしょう……ですが、それは第一の狙いに過ぎません。本当の狙いはその先、後遺症を抱えた負傷兵がベトゥミア本国に帰った後にあります」
穏やかに微笑みながら、ノエインは続ける。
「『天使の蜜』の原液による麻痺は十年単位で体に残ります。麻痺の部位や程度は個人差がありますが、人によっては一生涯、重い麻痺が残ることになります。そんな後遺症を抱えた者が、海の向こうの戦地から大勢帰ってきたら……ベトゥミアで彼らの帰りを待っている家族や友人はどう思い、ベトゥミアの社会はどうなるでしょうか」
それを聞いた瞬間、貴族たちがゾッとしたような表情を浮かべる。寒気を感じたのか、身を震わせる者もいた。
「ベトゥミア兵の家族の気持ちを想像してみてください。もう自分の足で地を踏んで歩けなくなった父を見る子どもの気持ちを。腕に麻痺を負って、もう自分を抱き締められなくなった夫を見る妻の気持ちを。顔にまで麻痺が残って、半開きの口から涎を垂れ流し続ける息子を見る親の気持ちを。彼らには悲しみと、後遺症を抱えた家族を介護しながら暮らす人生が待っています」
穏やかな声で話し続けるノエインに、化け物でも見るかのような視線を向ける者もいる。
「そんな後遺症を抱えた者が何千人も、いえ何万人も帰ってくるのです。彼らの家族は愛する者の変わり果てた姿を見てひどく悲しむでしょう。未だ戦地から帰らない家族を待つ人々も、次は自分の家族がこうなって帰ってくるかもしれないと不安に思うでしょう。また、国民の感情面だけでなく、ベトゥミアの社会にも甚大な被害が及びます」
ノエインの言葉を聞きながら、誰もがベトゥミアの社会を襲う悲劇を想像する。
「ベトゥミア共和国の人口は確か、一二〇〇万人ほどでしたね。そのうち老人と子ども、女性を除いた労働の主力となる男は、せいぜい三分の一の四〇〇万人といったところでしょう。仮に四万人を麻痺させれば、あちらは主な労働力の一〇〇人に一人を失います。八万人なら五〇人に一人。一〇万人なら四〇人に一人。それと同時に、同数の介護すべき後遺症持ちを抱えることになります。ベトゥミアの社会は重い負担を強いられるでしょう」
広間はしんと静まり返り、ノエインの声だけが響く。
「ベトゥミア共和国では、国民から投票で選ばれた議員たちが国の指導者となっていると聞きます。私が今言ったような状況で無理に戦争を続けようとすれば、ベトゥミアの指導者層は国民からの支持を失い、傷痍軍人の扱いに困り果てる。それを恐れて彼らは兵をロードベルク王国から引き上げるでしょう。ベトゥミアは商人の国と聞きます。指導者たちも早く損切りをするべきだときっと気づいてくれます」
ノエインが子どもの頃に生家で読んだ書物の中に、同じような手法で強大な敵国を撃退した小国の逸話が書かれていた。その国は敵国の兵士の腕または足を一本切り落として敵のもとに返し、敵の国内に厭戦ムードを広めさせ、撤退させたのだ。
「ただ、これだと下手をすればベトゥミア国民の恨みがロードベルク王国に向いてしまいますので、もうひとつ工夫を加えます。敵の一般兵士は麻痺させますが、士官や将官にはできる限り何もせず、健康体のまま生還させるのです。それと併せてある噂を流します」
そう言ったノエインへの反応は様々だ。首をかしげる者もいれば、意図に気づいてハッと目を見開く者もいる。
「わざと敵兵士に伝わるように『今後の関係を考えて、ベトゥミア議員や大商人と繋がりのある奴らは後遺症を負わせず無事に帰してやろう』という類の話をするのです。なぜ自分たちは後遺症を抱えるのに、指導者層の身内は元気に帰れるのだと兵士たちは恨むでしょう。彼らが本国に帰って家族に話せば、あちらの国民にもその話が広まるでしょう」
ここまで言われると全員がノエインの意図に気づいて、ますます表情に恐れを滲ませる。
「敵の士官将官にそういう人間が多いのかは知りませんし、実際にベトゥミアの指導者層の身内が無事に帰るかは重要ではありません。自分たちだけが損をさせられたとベトゥミアの国民に思わせ、あちらの指導者層と庶民層を分断できればそれで目的は達成されます」
異様な空気に包まれる室内で、ノエインの声だけがまるで世間話でもしているかのように穏やかだ。
「こうすればベトゥミアで、最悪の場合は政変や内乱が起こります。少なくとも国民は指導者層に疑念を抱き、社会では厭戦の気運が高まり、再侵略を試みることは難しくなるでしょう。一年や二年では収まらないはずです。その間に、私たちは王国を再建し、海辺の防備を固めることができます」
そこまで言って、ノエインは広間全体を見回した。
「簡潔にまとめますと、あえて死者ではなく後遺症を抱える負傷者を増やすことでベトゥミアの軍や社会に負担を与え、国民にも精神的な負担を与え、かの国の内部を毒すことで戦争そのものを忌避させる。もはや侵略を続けても損をするばかりだと敵に思わせて撤退を決断させる……というのが私の考えた案です。いかがでしょうか?」
ノエインの問いかけに、しかし誰も応えない。貴族たちは恐れと怒りの表情をノエインに向けるか、難しい顔で考え込むか、どちらにせよ黙り込む。事前に聞いていたベヒトルスハイム侯爵たちはすました顔をしている。
オスカーとブルクハルト伯爵は思案するのではなく、むしろ貴族たちの反応を観察するように黙って室内を見回している。
そんな沈黙がしばらく続いた後、一人の貴族が口を開いた。最初に勇ましい提案をしたノルトリンゲン伯爵だ。
「……なんと、」
伯爵の顔は真っ赤に染まり、怒りの表情を浮かべている。
「なんとおぞましい考えか! 陰湿だ! 卑怯だ! 女々しい! 腐っている! そんなものは戦いではない! 誇り高き王国貴族の戦いではない!!」
それがきっかけとなり、一部の貴族たちが次々に怒りの声を発する。
「黙って聞いていれば! そんな汚い策が断じて受け入れられるか!」
「英雄だ何だと言われても、所詮は成り上がり者だな! 戦の矜持もクソもあったものではないわ!」
「まったくだ! 聞けばこやつは獣人奴隷を愛でる変態というではないか! そんな奴だからこのような身の毛もよだつ考え方ができるのだ!」
「悪魔の発想だ! こいつは人間ではない! 同じ軍議の場に立っているだけで吐き気がする!」
「こんな男を今まで同じ派閥の同志だと思っていたと考えるだけでぞっとするわ!」
「このような下衆は王国貴族の、ましてや上級貴族の列に並ぶべきではない! 貴様には王国貴族としての誇りも責任感もないのか!」
北東部閥だけでなく、北西部閥の貴族からも怒声が、いや罵声が飛ぶ。この場に集った50人を超える貴族のうち、半数近くがノエインを罵っている。その他の者も、多くは嫌悪や恐れのこもった目でノエインを見ている。
それらをしばらく黙って聞いていたノエインは、
「――ふざけるな!!」
会議机に拳を叩き落としてそう叫んだ。
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