第232話 襲来②

 マクシミリアンの突然の行動に全員が驚き、場が静まる。


「……お前とお前、私も領主自らすぐに戦場に立つと兵士たちに伝え広めろ。ロッテンマイエル、私の鎧と剣を用意させろ! 馬もだ!」


 マクシミリアンから指示を与えられると、伝令の兵士たちとメイド長はこの部屋の嫌な空気の中にいたくなかったのか、これ幸いとばかりに退室していった。


「……ジュリアン!」


「はいぃっ!?」


 次にマクシミリアンは、出来の悪い息子の肩を掴む。ジュリアンが情けない声で答える。


「私の執務室にある『聖母降臨』の絵画は分かるな? 金の額縁に入った大きな絵画だ。その裏に隠し金庫がある。鍵は魔道具だ。私の血族なら指先を切って鍵口に血を少し塗れば開く。中に2000万レブロ入っている……お前はそれを持って、嫁と息子を連れて逃げろ!」


「そ、そんな、僕たちだけではどうすればいいか……父上と母上も一緒に逃げましょう!」


「っ! ……駄目だ!」


 ジュリアンの「一緒に逃げましょう」という言葉に一瞬惹かれつつも、マクシミリアンはエルンストをちらりと横目で見て、彼に睨まれて、答えた。


「お前たちだけで逃げるのだ! さあ、早く隠し金庫から金をとってこい!」


 反論を許さずジュリアンを居間へと送り出す。夫から離れるのが不安なのか、嫁の方も赤ん坊を抱えながらジュリアンについていった。


「……エルンスト」


「はっ」


 次にマクシミリアンは、エルンスト・アレッサンドリ士爵の方を向いた。


「息子たちを護衛してくれ。領外へ……いや、それではまだ危険だな。王都まで逃がせ。手練れの武人であり、貴族の身分を持つお前にならば安心して息子夫婦と孫の命を預けられる」


「……しかし、私もキヴィレフト伯爵家に仕える軍人で、今は領軍副隊長です。私にはこの地を守るために戦う責務が」


「頼む。他の者を呼んでいては間に合わん。今この場にはもう、お前しか頼れる者がいないのだ。お前が息子たちを守ると誓ってくれるのなら……お前の言う通り、私は領都ラーデンに留まろう」


「……御意。我が命に代えても、ご子息とその奥方、お孫様をお守りします」


「馬も馬車も何でも好きに使え。なんとしても息子たちを……行け」


 エルンストを退室させ、彼が遠ざかっていったのを確認して、マクシミリアンは最後に妻の方を向く。


「ディートリンデ……なあ、エルンストにはああ言ったが、やはり私たちも逃げ――」


「駄目よ!」


 夫の情けない言葉を遮ってディートリンデは怒鳴った。


「いいですか! ジュリアンたちは荷馬車にでも隠せばこっそり逃がすことができるでしょう! でもあなたが逃げるのは駄目よ! こんなときに領主が消えたら絶対に領軍兵士たちに気づかれます! 領主が早々に領地を捨てたと知ったら、ただでさえ士気の低いキヴィレフト領軍はすぐに瓦解するわ!」


 言いながら、ディートリンデはマクシミリアンに詰め寄る。


「そうしたらベトゥミアの軍勢は、今日明日にもキヴィレフト伯爵領全体を蹂躙するでしょう。あなたが逃げたせいで敵の侵攻が早まって、ジュリアンたちが逃げ遅れて途中で捕まったらどうするのですか! 息子と孫を死なせたくないでしょう! ならばここで一時間でも、一分でも長く時間を稼ぐのよ!」


 ディートリンデに言われ、マクシミリアンは考える。


 マクシミリアンとて我が子は可愛い。いくら出来が悪くとも、ジュリアンはたった一人の大事な嫡子だ。おまけに今は孫もいる。孫は正直言って、息子以上に可愛い。息子夫婦と孫だけは、死なせるわけにはいかない。


「それに、あなたは常日頃から貴族社会で馬鹿にされることを異常に嫌っているでしょう。傍から見ていて呆れるほどにね……そんなあなたが命欲しさに領地を見捨てて早々に逃げて、それで生き残って、その先どうするつもりですか! 腰抜けとして罵られながら惨めに生きるか、最後まで見栄を張って立派な貴族として名を残すか、どちらを望むの!?」


「……私は、……うぅ、私は」


 問われたマクシミリアンはブルブルと震えながら悩む。


 息子と孫への愛情。貴族としての見栄。そして死への恐怖。さまざまな感情が頭の中で渦を巻く。


「ここで逃げたら、あの憎たらしい庶子にもこれ以上ないほど馬鹿にされるでしょう。一生涯、そんな日々が続くでしょう。そんな余生を送って死んでいきたいのですか!? そんな人生にしがみつきたいの!?」


 ディートリンデの言葉に、マクシミリアンはハッと顔を上げた。


 あのノエインに極限まで馬鹿にされながら生を終える。それは駄目だ。そんな人生はとてもじゃないが受け入れられない。


「……私はあなたの妻です。キヴィレフト伯爵夫人です。あなたが息子と孫の命、そして自分の誇りのためにここで散るのなら、私も当然お供します」


 マクシミリアンに詰め寄っていたディートリンデは、そこで初めて優しく微笑んだ。


「……分かった。私は逃げない。逃げずに戦う。戦って、息子と孫の命を救う……そして、後世に渡って誰にも馬鹿にされない、貴族らしい散り様を刻む!」


「よくぞ言いました! それでこそ私の夫よ!」


 マクシミリアンが覚悟を語ったちょうどその時、彼の武具が部屋に運ばれてきた。


・・・・・


「ち、父上ぇ……母上ぇ……」


「いい加減メソメソ泣くのを止めんか。私とディートリンデ亡き後は、お前がキヴィレフト家の当主となるのだぞ」


「あなたは素直ないい子よ、ジュリアン。だけどこれからは同時に、強くなければ駄目よ。その純粋さと強さで、貴方の家族を、キヴィレフト家の血筋を守りなさい」


 今生の別れの場で未だ泣きべそをかきつづけるジュリアンに、マクシミリアンとディートリンデは言葉をかける。


 ジュリアンは大貴族家の人間とは分からないよう、仕立てはいいが地味な服装をしている。その隣に立つ嫁も同じくだ。


「ブリジット、息子はこの通り情けない馬鹿だが、どうか一緒にいてやってくれ」


「二人で支え合って生きていくのよ」


「お義父様、お義母様……わ、分かりましたぁ」


 二人から声をかけられた嫁――ブリジット・キヴィレフトも、ジュリアンに負けず劣らずの泣きっぷりだ。顔立ちは美人な方だが、それも涙と鼻水まみれでは台無しである。


「……エルンスト。あとは任せたぞ。出るときは屋敷の裏手、直接ラーデンの外に出られる隠し門を使え。領都内の門は逃げる民で混んでいるだろうからな」


「はっ」


 マクシミリアンが問いかけると、質はいいが見た目はボロボロの装備に身を包んだエルンスト・アレッサンドリ士爵が頷く。その後ろでは一般平民に扮したまだ若い領軍兵士が二人、二頭立ての大型荷馬車を準備していた。


 次にマクシミリアンは、長年キヴィレフト伯爵家に仕えてきたメイド長を振り返る。彼女もまた、ジュリアンとエルンストとともに逃げることになる。


「……ロッテンマイエル。今までよく仕えてくれた。今後は息子たちを助けてやってくれ」


「あなたにはまた苦労をかけますが、ジュリアンを頼むわね」


「旦那様、奥様……かしこまりました。誠心誠意、ジュリアン様にお仕えさせていただきます。これまで長らくお世話になりました」


 メイド長はいつもの如く、表情をあまり変えずに頭を下げた。


 平民風の格好をした兵士二人とメイド長。そしてわざとみすぼらしい装備を身につけたエルンスト。この顔ぶれならば、荷物を持ってラーデンから逃げ出す商人一家と、その護衛に雇われた傭兵にでも見えるだろう。ジュリアンたちは馬車の荷台に隠してしまえば、領主の嫡男夫婦と嫡孫が逃げているとは誰も思うまい。


「さあ、もう行け……生きるのだぞ、ジュリアン」


「あなたを永遠に愛してるわ、ジュリアン」


 最後に息子を抱き締め、孫の額にキスをして、マクシミリアンとディートリンデはジュリアンたちを送り出した。


 ジュリアンたちを乗せた馬車が屋敷の裏に消えていくのを見届け、振り返る。


「……今朝起きたときには、今日が人生最後の日とは思ってもみなかったな」


 ぼやくマクシミリアンは、既に鎧を身につけている。これ一着で小さな館を買えるほど高価な白銀の鎧も、着用者がもう何年も戦闘訓練すらしていないマクシミリアンでは鎧に着られている感は否めない。


 両国の貿易は航海術や造船技術の関係でベトゥミア側が一方的に来訪するかたちをとっており、ロードベルク王国はたまにベトゥミアの船に同乗させてもらって使者を送る程度。今年も夏に入ってから王家が食糧輸出への感謝を伝える大使を送ったが、ベトゥミア首都までの距離の関係もあってまだ帰ってきてはいない。この状況では生きているかも怪しい。


 ベトゥミアとは今まで100年以上にわたって何の対立もなく、最後にあちらの本土の情報を使者が持ち帰ったのは昨年の晩秋のことだ。それからわずか一年足らずでベトゥミアが準備を整えて奇襲してくるなど、王家でさえも予想していなかっただろう。


「そうね。でも『まだ死にたくない』と喚きながら流行り病でくたばったあのクソ妾と比べたら、百倍はマシな死に方よ」


 そう答えるディートリンデも、シャツの上から白銀の胸当てを身につけ、肩には防刃仕様のマントを羽織り、兜まで被っている。彼女がいつの間に自分用の鎧や兜を作っていたのか、マクシミリアンは知らなかった。


 胸当ても兜も無駄に精緻な装飾が施されていて、とても実用的な品には見えない。成金趣味が全開だ。が、夫よりよほど堂々としているディートリンデがそれらを身につけた様は、派手で頼もしい存在感があった。


「……行くか」


「ええ。行きましょう」


 領軍兵士によって、二頭の軍馬が馬具を装着されて連れてこられる。マクシミリアンとディートリンデはその軍馬にそれぞれ乗った。

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