第220話 影

 ベトゥミア共和国は、グランドール大陸の北部に位置する大国だ。人口は1200万を数え、この大陸はおろか、海を挟んだ北にあるアドレオン大陸の国々と比較しても桁違いの規模を誇る。


 グランドール大陸の覇権を握り、さらには海を越えてアドレオン大陸南部のロードベルク王国、パラス皇国と貿易を行うなど、その権勢は留まるところを知らない。


 そして国名からも分かるように、共和制をとっているのもベトゥミアの特徴である。


 300年以上も昔、当時圧政を強いていた特権階級を前に、ベトゥミアの国民は立ち上がった。一部の貴族さえ味方につけて革命を成し遂げ、民衆による、民衆のための政治体制を確立し、新たに共和国を成立させたのだ。


 ベトゥミアの政治は、国民から選ばれた300人の議員たちが、共和国議会で議論を交わすことで成されている。国民の代表者たちによるこの政治体制こそ、自由と平等を重んじるベトゥミア共和国の誇りとされていた。


 だが、その理念は形骸化して久しい。


 当初こそ国民の情熱を以て設立された共和国議会も、民衆の側につくことで財力を保ったまま生き延びた元貴族たちと、革命の混乱に乗じて巨万の富を得たごく一部の商人たちに結局は支配された。


 多くの国民は既得権益層の巧みな言葉に騙され、形だけの共和制の達成に満足し、上辺ばかりの自由と平等を享受して生きている。


 今の共和国議会を、すなわちベトゥミア共和国を牛耳っているのは、貴族や豪商の末裔である大商人たちと、その財力を後ろ盾に権勢を保つ政治家一族出身の議員たちだ。崇高な理念を持って生まれた共和国は、今や詐欺師のような政治屋と強欲な商人の国に成り果てた。


「――以上のことから、アドレオン大陸南部が大規模な凶作に見舞われ、間もなく飢饉に陥るのは確実です。我々と国交のあるロードベルク王国、パラス皇国も例外ではありません……これは、好機です。莫大な利益を得られる、またとない好機なのです」


 共和国歴338年の春。ベトゥミアの実質的な支配者層である300人の議員が集まる議会の場で、一人の議員がそう熱弁していた。名前はブランシュ・フィルドラック。「富国派」を称する派閥のトップに立つ老議員で、現在は共和国の首相を務めている。


 富国派は「共和国の富の最大化」を理念とし、議席の実に三分の二以上を占める最大勢力。その多くが大商人を後ろ盾に持つ。すなわち、既得権益層の金儲けのために動く議員たちだった。


「……それは、ロードベルク王国やパラス皇国に食糧を輸出し、救いの手を差し伸べることで貿易による利益を増やすということですかな?」


 そう尋ねたのは、「国民派」と呼ばれる一派の指導者で、50代前半と派閥党首にしてはまだ若いボラン・ウッドメル議員だ。


 国民派は今もなお共和国の理念を純粋に成そうとする派閥。富国派を嫌う一部の国民からの熱烈な支持を集めているが、その議席数は40に満たない。


「私が申し上げているのは、そのような生易しい話ではありません! 侵攻です! 弱ったアドレオン大陸南部に侵攻し、かの地にベトゥミア共和国の新たな領土を作るのです!」


 フィルドラック議員が高らかに言い、それに富国派の議員たちが大きな拍手を送る。


「馬鹿げている! 侵攻だと!? それではこれまで、何のためにロードベルク王国やパラス皇国と貿易を行い、国交を築いてきたのだ!」


「かの二国は未だに封建制を敷いているような野蛮な国家ですぞ? そんな国との貿易で得られる利益など、共和国全体から見ればたかが知れている。蛮族への施しのようなものです」


 ウッドメル議員の反論に対して、フィルドラック議員は鼻で笑う。


「あのような未発展の小国とちまちま貿易なぞするより、王族や貴族どもを排除し、我々で支配した方がよほど利益が上がります。それに、かの二国の民も、より発展したベトゥミア共和国の社会に組み込まれる方が幸せでしょう……そう、これもまた革命です。自由と平等を重んじる我々の理念を、海の向こうへと広める日が来たのです!」


 またもや大きな拍手に包まれるフィルドラック議員を前に、ウッドメル議員は苦虫を噛み潰したような表情になる。


「……本気でそんなことが我が国の理念を成すことに繋がると思っているのか、あなた方は! 他国を侵略することが自由と平等を重んじることになると! 侵略をすれば戦争になる! 我が国の兵士たちだって全員が無事とはいかない! 兵士たちもまた国民なのですぞ!」


「あなたの視野は狭すぎる! ウッドメル殿!」


 怒声を上げるウッドメル議員に、フィルドラック議員も怒鳴って答える。


「考えてもみなさい。338年前の建国時、ベトゥミア共和国の人口は300万人足らずでした。それが今では1200万人……現在の領土だけではいずれ全国民を養いきれなくなる。このまま何もしない方が犠牲が増えます。領土を広げるなら、海の向こうの蛮族の国でしょう。まさかあなたは、同じグランドール大陸の隣国を襲えと仰るのか!?」


「そんなことは言っていない! そもそも他国への侵攻が不要だと言っているのだ! 以前、人口3000万までは今の領土で養えると算出されていたはずだ。それなのに社会が行き詰まっているのは、富裕層が富を独占しているせいだ。私は長年訴えてきたではありませんか。あなた方の後ろ盾である大商人たちが既得権益を手放し、庶民たちに――」


「そんな詭弁を聞きたいのではない!」


 フィルドラック議員が逆上するように声を張って机に拳を叩きつけ、ウッドメル議員の発言を遮る。


「もうよい! こんな茶番はたくさんだ! ウッドメル議員、あなたはベトゥミア共和国民の幸福よりも、海の向こうの蛮族どもの幸福が大切だと言うのですな!? あなたは共和国議会に席を持つにふさわしくない! あなたは非国民だ! 貴方の率いる国民派も、全員非国民だあぁ!!」


 傍から見れば正気を疑うような表情でフィルドラック議員が絶叫する。それに200人以上の富国派議員が追従し、汚い野次を口々に飛ばし、議場が異様な熱を帯びる。もはや国民派が反論する余地などない。


 馬鹿らしい。


 この光景を見ながら、ベトゥミア共和国軍の最高指揮官であるチャールズ・ハミルトン将軍は内心で悪態をついた。できることなら床に唾を吐き捨てたいくらいだ。


 チャールズは議員ではない。そもそも共和国軍は議会と、議会から選出される首相の――つまり今はフィルドラック議員の指揮下にあり、軍人は政治には口を挟めない。


 チャールズは今日の議題、すなわち「アドレオン大陸南部への侵攻」に関する富国派側の意見参考人として議場に召喚されているだけだ。


「ハミルトン将軍! 軍の最高指揮官として、あなたのご意見を伺いたい!」


「……はっ」


 意見を問われたら答えるのが、この場でのハミルトンの職務だ。フィルドラック議員に呼びかけられ、チャールズは立ち上がって一歩前へ進み出る。


「アドレオン大陸南部への侵攻について、どう思われますかな? 成功の見込みは?」


「……現在のベトゥミア共和国海軍の輸送力を鑑みますと、第一陣としてまず八万。第二陣と第三陣も合わせると、正規兵と志願兵で計二十万の軍勢を送り込めるでしょう。補給を考えると、これが送り込める最大兵力です。しかし、これだけの兵力があれば、我が国の勝利は揺るぎません」


 チャールズは事前にフィルドラック議員と打ち合わせした通りの答えを、彼が望む答えを返した。


 チャールズは強欲極まりない富国派を軽蔑している。10代の頃は国民派議員の主催する討論会に足を運び、打倒富国派に燃えたこともある。


 しかし、20代に入る頃にはその理想の火は消えた。この国の既得権益層の打倒などできないと、共和国は既に腐りきっていると諦めた。


 やがて軍に入り、自分と家族の利益だけを考えて生き、軍内でそれなりに出世をしてからはフィルドラック議員に目をつけられ、彼の飼い犬になった。富国派の後押しを受けて将軍にまで登り詰め、今に至る。


 チャールズは自分が軽蔑する者たちに仕え、尽くし、彼らと共に人生を歩んできた。チャールズのせいで、共和国軍は今や富国派の私兵も同然だ。


「勝利は揺るがない! なんと頼もしい言葉でしょう! さすがは共和国の守護者たる軍の最高指揮官です! では議員の皆さん、決を採りましょう! 侵攻によって新たな一歩を踏み出すか、このまま停滞を続け、いずれ行き詰まって衰退するかを選びましょう!」


 フィルドラック議員が言い、アドレオン大陸南部への侵攻の是非について多数決がとられる。


 その結果――賛成232、反対37、棄権31で侵攻が決定した。


「皆さん、今日はなんと素晴らしい日でしょうか! 我々が自由と平等を胸に、新たな未来へと歩みを進めることを決めた記念すべき日です!」


 フィルドラック議員が煽り、富国派の議員たちが熱狂する。国民派の議員たちはせめてもの抗議として開票後に退席し、すでに議場にはいない。


「細かい侵攻計画については今後軍部と話し合うことになりますが……まずは現段階での参考意見をお聞かせ願いたい。ハミルトン将軍、侵攻はいつ、どこから始めるのがいいとお考えになりますか?」


「……共和国軍が十分な準備を終え、アドレオン大陸南部に飢饉の影響が十分に広まった九月後半から十月が丁度よい時期でしょう。最初の侵攻地点は……ロードベルク王国。かの国で最大の港町であるキヴィレフト伯爵領の領都ラーデンが最適と考えます」


 嬉々として訪ねてくるフィルドラック議員に嫌悪感を覚えながらも、チャールズは淡々と答える。


「あの都市の港であれば、大軍を上陸させることができましょう。おまけにキヴィレフト伯爵領の社会には、ベトゥミアの商会が深く入り込んでいます。それらの商会から支援を受ければ、より迅速に侵攻を成せるでしょう。そこを橋頭保にまずはロードベルク王国全土を占領し、その後にパラス皇国や、西のランセル王国に攻め込むのが上策かと」


 この会話も、あらかじめ打ち合わせてあったものだ。ロードベルク王国を第一目標とする侵攻計画は、今日の議会が開かれる前から決まっていた。


「素晴らしい! ベトゥミア共和国軍の活躍を、議会も政府も全面的に支えさせていただきますぞ! 共和国全体で一丸となって、自由と平等を守るために戦いましょう!」


 こうして、ベトゥミア共和国はロードベルク王国への侵攻を決定した。




 遠く海の向こうから侵略者の影が迫り始めたことを、ロードベルク王国の人間はまだ誰も知らない。

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