第177話 戦闘準備
ジェレミーとの出会いから二日後。アールクヴィスト領ではランセル王国軍を奇襲するための準備が進められていた。
敵の侵攻部隊を監視しているラドレーたちの報告では、侵攻部隊の偵察はやはり野営地と侵攻路の周辺を見回る程度で、アールクヴィスト領の人里にまで接近してくる気配はないという。これも敵がこちらを完全に舐めている証左か。
監視班によると、侵攻部隊が進軍を開始するのはおそらく今から二日後。まだ時間は残されているが、侵攻に備えて万全の用意を整えるためには決して余裕があるとはいえない。
いざというときの防衛準備や避難準備で領都全体が忙しく動く中でも、最も慌ただしいのは領軍詰所だ。その訓練場では、各部隊の戦闘準備が行われていた。
家と家族を守るために戦うことを選んだ領民の男たちが、ペンスの指導のもとでクロスボウの扱いや隊列の組み方を学ぶ。
一方で、近接戦に備える領軍兵士たちをダントがまとめ、あらためて陣形訓練を施す。
リック主導で合計12台ものバリスタの動作確認が行われ、爆炎矢の用意がなされる。射撃の腕を見込まれた一部の選抜兵が、新兵器である狙撃用クロスボウの確認を行う。
グスタフたちクレイモアが、隊列を組んで破城盾で突撃する訓練を行う。
領軍詰所以外でも、鍛冶職人ダミアンが避難準備と並行して装備の増産をしたり、魔道具職人ダフネがノエインの要請を受けてあるものを作ったりと、それぞれが戦いへの備えを行っていた。
ノエインも時間が許す限り領軍詰所に赴き、各部隊の準備を視察し、できるだけ多くの者に言葉をかける。領主自らが兵士たちと時間を共にすることで、士気向上を図っていた。
と、そんなノエインのもとへ、予想外の声がかかる。
「ノエイン様っ……あなたっ」
今ここでは聞くはずのない声にノエインは振り返り、驚愕の表情を浮かべた。
「く、クラーラ!?」
社交で領外に出ていて、そのまま避難しているはずだったクラーラがそこにいた。土埃が舞う領軍詰所で服が汚れることも厭わず、ノエインのもとへ駆け寄ってくる。
「どうしてここに? こっちの状況は連絡があったはずだけど……」
「はい、レトヴィクでバートさんから詳細を伺いました。お父様からもこのままレトヴィクに留まっていた方がいいと言われました」
「それじゃあ何で……下手したら領都ノエイナが戦場になるかもしれないんだ。ここが危険だって分かってたでしょ?」
ランセル王国軍は侵略戦争を仕掛けに来ているのだ。アールクヴィスト領を容赦なく蹂躙するつもりでいるのだ。もしノエインの立てた策が上手くいかずに敗北し、領都ノエイナの避難行動が失敗すれば、敵に捕らえられた領主の妻がどれほど悲惨な目に遭うかは想像に難くない。
「はい、分かった上で戻って参りました……私はあなたの妻です。アールクヴィスト領の領主夫人です。夫と領民を置いて私だけが安全な場所に逃げたままでいることなど、あっていいはずがありません」
クラーラはノエインを真っすぐ見据えた上でそう語る。
「私にもここでできることはあります。あなた方が戦っている間、領主夫人が逃げずにいることで女性や子どもの支えになれます。いざ避難するとなれば、私も共に行動するということが多少なりとも領民たちを勇気づけられます」
そこまで言って、クラーラは微笑む。
「……それに、領都を死守するにせよ、一度捨てて避難するにせよ、私がここにいればお父様がアールクヴィスト領を切り捨てづらくなります。無論お父様も領主貴族ですので私情で動くには限界もあるでしょうが……できる限り自分の娘のいる領を助けようとされるはずです」
堂々と言ってのけたクラーラに、ノエインは少し目を見開く。
つまり、彼女は父アルノルド・ケーニッツ子爵に対して、自らを人質としてしまったのだ。アルノルドがアールクヴィスト領を切り捨てれば、それはそのままクラーラを見捨てることになる。アルノルドが実の娘を助けるためには、アールクヴィスト領そのものに助力せざるを得なくなる。
身の危険も省みずにこれほど大胆な選択を実行するクラーラの度胸に、ノエインは思わず吹き出した。
「ぷははっ、そっかそっか。いい手だね。それでこそ僕の妻だよ」
「お褒めに与り光栄です。あなたのお役に立てて嬉しいですわ」
一見おしとやかなだけの淑女に見えて、すっかりアールクヴィスト家の気風に染まったクラーラをノエインは愛しく思った。
・・・・・
「陛下、侵攻部隊の全兵力の集結が完了いたしました。最終的な兵数はおよそ3000名。翌日中に進軍準備を済ませ、翌々日にはロードベルク王国北西部への侵攻を開始できます」
「そうか、ご苦労……概ね予定通りといったところか、エヴァルド?」
今回の親征において実質的な指揮官を務めるランセル王国軍の将軍エヴァルド・ロットフェルト伯爵に向けて、ランセル王国第3代国王のカドネ・ランセル1世は問いかけた。
「はっ。ここまでの所要時間も部隊の規模も予定に違わず、兵士たちの士気も高く保たれております。目立つ問題も起こっておりません。陛下の親征をアルバランの神々が祝福しておられる証左といえるでしょう」
今回揃えた3000強の軍勢は、カドネへの忠誠が厚い親衛隊をはじめとした国軍、王宮魔導士、そしてカドネの即位に伴う政治的な混乱の際に、反カドネ派の国内貴族の鎮圧に貢献した傭兵で構成されている。
精鋭の大部隊による奇襲で勝ちが約束されたも同然の戦。占領した敵国の貴族領では略奪も殺しも強姦も思いのままに楽しんでいいというカドネからの確約。兵士たちの戦意はこれ以上ないほどに上がっている。
「はははは、お前は軍の指揮だけでなく世辞も上手いなあ、エヴァルド……ところで、目立つ問題がないということは、微細な問題は起こっているということか?」
表情や声は堂々と保ちながらも、目にわずかな不安を滲ませてカドネが尋ねる。
「偵察隊をこれまでに2班、失っております。そのうち片方は野営地から少々離れた森で、魔物に食い殺されているのが発見されました。おそらくオークかホフゴブリンあたりかと。もう1班は死体も発見されていませんが、似たような目に遭ったのでしょう」
「そうか、このあたりにもまだそこそこ強力な魔物が出るのだな……」
「一応はここもまだベゼル大森林の奥地ですので。しかし、この野営地の守りは万全でございます。特に閣下の天幕は、常に親衛隊と複数人の魔導士によって守られておりますので。万にひとつも危険はありません。偵察兵の戦死は侵攻路を作る過程でも度々あったことです。閣下のお耳に入れるまでもないかと判断いたしました」
カドネはこうして多少神経質なところがあるが、言い換えれば用心深いということだ。為政者として考えると別に悪いことではない、とエヴァルドは思う。
「お前がそう言うのならばよい。だが、明後日の侵攻は万全の状態で臨みたいからな。その前に野営地が魔物の襲撃を受けて兵が消耗することなどあっては困る。頼むぞ?」
「はっ。そのようなことがないよう、野営地周辺の見回りを徹底させましょう」
エヴァルドがそう答えて恭しく頭を下げると、カドネは満足げに頷いた。
「……」
王の天幕を出たエヴァルドは、侵攻に向けた準備が進む野営地を見渡す。
自分は幸運な時代に生まれたものだ、とエヴァルドは考える。
ランセル王国の軍閥貴族にとって、これまでの六十余年は我慢の時代だった。武勇を示す機会をほとんど与えられなかったのだから。
かつていくつもの部族が乱立し、周辺地域からは蛮族の住まう地と笑われたこの地に、初代国王陛下はついに統一国家を建設した。ランセル王家に仕えることを決めた諸侯は歓喜した。さらに勢力を広げる機会が、より大きな武功を挙げる機会がこれから訪れるかもしれないと期待した。
しかし、初代陛下は内政に専念する道を選ばれた。生まれたばかりの国を安定させる道を選ばれた。エヴァルドの祖父の世代は内心では不満を抱えつつも、これに従った。自分たちの戦う時代は王国統一とともに終わったのだと。次は子の世代に戦いの時代が待っているだろうと期待した。
期待はまたもや裏切られた。先代国王もまた穏健派となり、軍閥貴族の間では悪名高い存在となった。エヴァルドの父の世代は、せいぜい国内の紛争や周辺の小国との小競り合いをする程度で年を重ね、ついに大きな戦に恵まれることなく一線を退いた。軍閥貴族の不満は限界まで膨らんだ。
そして次の世代。またもや穏健派の第一王子が王位を継ごうとしたところで、カドネ陛下がその第一王子と同じく穏健派の第二王子を謀殺し、流れが変わった。穏健路線を覆し、隣国へ勢力を広げる時代が、戦争の時代が来たのだ。
軍閥貴族たちは歓喜した。エヴァルドも涙を流さんばかりに喜んだ。ついに自分たちの維持してきた武力が活かされるのだと思った。
カドネ陛下はまだ若い王で、民や一部の文官からは暴君だと酷評されているという。しかし、エヴァルドたち軍閥貴族からすれば理想的な君主だ。
そもそも初代と先代が民を甘やかしすぎたのだ。民からできる限り税を絞って軍備を拡大し、国家として勢力を広げることこそが王と貴族の務め。その務めを正しく果たそうとするカドネ陛下が暴君と呼ばれるなど間違っている。
カドネ陛下は第三王子として地方の紛争鎮圧などで経験を積まれていた頃から、自ら戦場に立って兵を鼓舞し、士気を高める度胸を持ち合わせておられた。さすがに最前線で敵と剣を交えるほど果敢ではなかったが、あの臆病な先代国王の子と考えればこれでも上出来すぎるほどだ。
そして、王位を得てからの決断と行動力もなかなかのものだった。
ロードベルク王国と国境を接する南東部での紛争を、その後の大戦争すらを陽動としつつ、ベゼル大森林の中に侵攻路を切り開くという大胆すぎる戦略。博打とも言える手だが、国を挙げてこれほどの大作戦が実行されることに軍閥貴族は歓喜した。この作戦が成功した暁にはどれほどの武功を挙げられるだろうかと興奮した。
惜しむらくは一昨年の大戦争とこの親征の両方で勝利を得られれば言うことなしだったが、贅沢は言うまい。最も重要なこの親征を成功させればそれですべて報われるのだ。
侵攻の第一陣を自ら率いつつ、実際の用兵は将軍であるエヴァルドに一任する決断力もまた良し。戦場では自身が御輿としてどう担がれるべきかをちゃんとわきまえているところもカドネ陛下の賢明さと言えよう。
国を挙げて戦争に臨み、王の立場だからこそできる戦略を実行し、戦術面では下手に出しゃばらず将に任せる。平和に染まったランセル王家から生まれた王としてはこれ以上を望むべくもない逸材がカドネ陛下だ。若さ故の経験不足は、エヴァルドたち将に補われながらこれから成長してもらえばいい。
カドネ陛下を王に戴いたことで、自分たちの人生は変わった。明後日にはまた一段階大きく変わる。
これからの戦いを想像して顔がニヤつきそうになるのをこらえながら、エヴァルドは隊の指揮に戻った。
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