第173話 緊急事態

「それではノエイン様、この祝い状は明日までに作成をお願いしますね」


「はーい……はあ、こういう仕事が一番苦手だよ」


 開拓記念祭も終わり、領内が日常に戻った三月中旬。すでに第一子の出産を終えて職務に復帰しているアンナから仕事を頼まれて、ノエインはため息をついた。


 その仕事とは、同じ北西部閥の貴族の子息が結婚したことへの、祝い状の執筆である。


「仕方ありませんよ。クラーラ様がご不在なんですから」


「まあ、そうなんだけどさー」


 貴族同士の付き合いは大事なので、繋がりのある貴族の子どもが結婚するとなれば、それが祝い状と祝い品くらいは贈らなければならない。ただ、祝い状の執筆というのは色々と細かいルールに則って書かなければならないので、かなり面倒くさい。


 相手との繋がりの深さや爵位、立場の差によってどのような文章と贈り物にすべきかは変わり、そうした貴族社会の礼儀については貴族としての専門教育を受けてきたクラーラの方が詳しいので、普段ノエインは彼女にそうした仕事を任せていた。


 しかし今は、そのクラーラが領を空けている。北西部閥の別の貴族当主が結婚式を挙げるので、ノエインの名代として参列しに行っているのだ。次男以下の子女ならともかく、ある程度繋がりのある上級貴族家の当主や嫡男が結婚するのなら直接祝いに行かなければならない。


「……前にクラーラが書いた祝い状から丸ごと文章を写しちゃだめだよね?」


「駄目です。万が一そんなことをしたのが知られたらアールクヴィスト家の評判が落ちます……というか、ノエイン様だって別に祝い状を書けないわけじゃないんでしょう? おさぼりは許しませんよ」


「はあーい」


 観念してノエインは執筆に取り組むことにする。主がおとなしく仕事に取りかかったのを見届けてからアンナは退室していった。一児の母になってから、彼女はますます強くなった気がするとノエインは思う。


 クラーラの帰宅予定は早くても二日後で、ノエインが書いているこの祝い状はただでさえ出すのが少し遅れ気味だった。クラーラほどではないとはいえノエインも一応は貴族らしい文章を書けるのだから、苦手だ面倒だという理由で投げるわけにはいかない。


「あー、この苦手な仕事を頑張るから、大好きなマチルダの淹れてくれたお茶が飲みたいなー」


「もちろんです。すぐに用意しましょう」


 ノエインが分かりやすいおねだりをすると、主人に甘いマチルダは即座に微笑んで席を立つ。


 彼女がお茶を淹れるために退室しようと扉に向かおうとして――慌ただしく廊下を駆けてくる音と、その直後に領主執務室の扉を激しく叩く音が響いた。


「ノエイン様! 緊急事態です!」


 従士副長ペンスの緊迫した声を聞いて、ノエインもマチルダも表情を硬くした。


・・・・・


 アールクヴィスト領の治安を守る上で、従士ラドレーは特に重要な役割を果たしている一人だ。


 ラドレーの主な仕事は、領都や鉱山村キルデ、開拓村、それらを繋ぐ林道の周辺警備の指揮だ。都市部や村落、その周辺の農地以外は深い森が広がるアールクヴィスト領において、森の中を定期的に見回り、魔物が人里に近づいていたら狩るのは必須の仕事だった。


 重要だが危険を伴うこの仕事の責任者を任されているのも、ラドレーが従士長ユーリと並ぶほどに戦闘慣れしており、また最古参の従士としてノエインから信頼されているからこそだ。


 過去にはオークが二度も人里に現れたことから、今ではラドレーたちの見回り範囲は相当に広くなっている。ときにはベゼル大森林のかなり奥深く、オークの生息域すれすれまで見回ることもあるからと、ラドレーは領軍で唯一『天使の蜜』の原液を日常的に装備することを領主ノエインから許されていた。


「……っ!」


 この日も領軍兵士の班を引き連れて森の中を見回っていたラドレーは、いつもと違う気配を察知して姿勢を低くした。


 彼の行動を見た時点で、ラドレーに付き従っていた班の班長が何かあったのだと察し、無言で部下にしゃがむよう合図する。そして自身もしゃがむ。


「……ラドレー様」


「……何か来る」


 姿勢を低くしたままラドレーに近づいた班長が、声量を極力抑えた無声音で指示を乞う。するとラドレーは同じく無声音でひと言だけ答え、彼らから見て1時の方向を警戒するよう手で示した。


 それを受けて、班長を含む5人の兵士たちは音を立てずにクロスボウを構え、左右に広がって木や茂みの陰に身を隠し、ラドレーの指し示した方を注視する。


 間もなく、ガサガサと茂みを越える音や、枝葉を踏む音が聞こえてきた。


 音はしだいに近くなり、見通しの悪い森の中で、やがて茂みを抜けて音の主が姿を見せる。


「……あぁ?」


「……はあ?」


 音の主の姿を見たラドレーは思わず声を上げた。相手側も間の抜けた声で返してくる。


 茂みを抜けて現れたのは――どこからどう見ても人間の兵士だった。人数は3人。今しがた間抜けな声を上げた、多少質のいい鎧と兜を身に付けた一人が指揮官か。


 相手の指揮官以外の兵士も、またラドレーの部下たちもぽかんとした表情を浮かべ、森の中に一瞬だけ何とも言えない空気が流れる。そして次の瞬間、


「ちっ!」


「な、何で――」


 ベゼル大森林のど真ん中でのあり得ない遭遇に相手の指揮官はまだ混乱しているようだったが、ラドレーは頭より先に体を動かした。考えるのは後にしてまずは目の前の事態に対処する、という戦慣れしているからこその判断だ。


 ラドレーは相手の指揮官に一気に肉薄し、槍の石突でその頭を殴りつける。脳を揺さぶられた相手は意識を奪われて倒れ伏した。その光景を見て、残る2人の兵士が剣を抜く。


「ラドレー様!」


「逃がすな! 仕留めろ!」


 事態の急変に敵味方が浮き足立つ中で、ラドレーは班長に指示を飛ばす。それを聞いた班長以下5人は敵兵士を狙ってクロスボウを放ち、


「ぐっ!」


「ぎゃあっ!」


 胸に矢を受けた2人の兵士は短い悲鳴を上げて倒れた。


「……とりあえず、どうすっかな」


 殴り倒した指揮官の気絶と、矢を受けた2人の兵士の死亡を確認して、ラドレーはようやくこの事態を頭で考えることにする。


「……おい、お前とお前。今すぐに領都ノエイナに戻ってこのことを従士長に報告しろ。森の中で所属不明の兵士と遭遇して一人を拘束……おそらくランセル王国軍の兵だと言え」


 ラドレーは班長と一人の兵士を指してそう命じる。その言葉を聞いた領軍兵士たちは驚愕の表情を浮かべた。


「ら、ランセル王国って……まさかそんな」


「お前はそのことは考えなくていい。一秒でも早く戻ってこの事実を伝えることだけ考えろ。行け」


「りょ、了解!」


 おそらくこの場の兵士全員が思っていたことを口にした班長は、ラドレーに睨まれるとそう応え、もう一人の兵士と一緒に領都の方へと走っていった。


「……ったく。こういうことだったのかよ」


 班長たちが伝令に向かったのを見届けると、ラドレーは空を仰いで他の兵士たちには聞こえない小さな声で独り言ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る