第89話 領地強靭化③ 天使の蜜

 ロードベルク王国の国教であるミレオン聖教。その教えを守り、伝え広めることを使命とするミレオン聖教伝道会は、あまり世俗化されていない。


 完全に俗世と切り離されているわけではないものの、伝道会の政治的な影響力は非常に小さい。司教や司祭、修道女たちは、質素な生活を営みながら信仰を守り続けている。


 社会の中でこうした独特の立ち位置を築いてきた伝道会には、自給自足に近い修行生活を続けているからこその独自のノウハウや技術がある。それらは大々的に組織の外に出されることはないものの、一部の貴族はそこに目をつけ、寄付と引き換えに提供を受けていた。


 ノエインが目をつけたのは、そんな教会の知識だ。


「今日はお時間をいただき感謝します、ハセル司祭」


「アールクヴィスト閣下には日々格別のご厚意をいただいておりますからには、私どもも閣下のご来訪を心より歓迎する次第にございます」


 領都ノエイナの教会を訪れたノエインは、この地でミレオン聖教の教えを伝えているハセル司祭から恭しい歓迎を受けた。


 まだ20代前半と若いハセル司祭は、敬虔なミレオン聖教信者として自らに試練を課す意味も込めて妻や修道女とともにアールクヴィスト領に移住し、教会を運営している。


 教会やハセル司祭たちが暮らす家、修行生活のための敷地などは、領主であるノエインが全て無償で提供してくれた。司祭としては、そんなノエインの訪問を歓迎するのは当然のことだ。


「実は、司祭にご協力をお願いしたいことがありまして」


「それはそれは……私のような者にお力添えできることがございましたら、ぜひともお伺いしたく存じます」


「ありがとうございます。では……単刀直入に言うと、私はミレオン聖教伝道会が保有する『天使の蜜』を欲しています」


「天使の蜜」とは、伝道会が製造している薬だ。特殊な薬草を原料に作られており、その製法は伝道会内で秘匿され続けてきた。


 濃度によって効果が変わり、ごく薄いものは痛み止めとして、それより少しだけ濃くしたものは麻酔として、医院などに卸されている。伝道会の重要な収入源だ。


 そして、可愛らしい名前とは裏腹に、「天使の蜜」は原液のままだと効果が強すぎて凶悪な毒になるという一面もあった。


 この原液が血管に入ると、数時間ほど体に力が入らず、立つことすらままならなくなる。その作用が治まったあとも長年にわたって――下手をすれば一生涯、体の一部に麻痺が残るのだ。


 麻痺の程度は個人によっても差があるが、軽い場合でも手足のどれか一本が満足に動かなくなり、重い場合はベッドから起き上がることすら困難になるという。


「……なるほど、やはり閣下もご興味をお持ちになりますか」


「ええ、私も貴族ですので」


 ノエインの用件を予想していたのか、ハセル司祭は驚いた様子もなく、笑みを浮かべたままそう言う。ノエインもそれに応える。


 貴族が寄付と引き換えに、伝道会から『天使の蜜』を譲ってもらうのはよくあることだった。


 その用途はさまざま。死罪よりも一段軽い刑罰を罪人に課すための道具として使うこともあれば、使用を仄めかして尋問や脅しの道具として使うこともあれば、宮廷貴族が政争のために使うこともある。


「それで、どれほどの量をご所望でしょうか?」


「そうですね……ひとまず壺に一杯ほど」


「つ、壺に一杯!? でございますか……?」


 予想外の要求を聞いて、思わず声を上げるハセル司祭。


 普通は貴族が求める「天使の蜜」の原液は、せいぜい小瓶ひとつ程度だ。それが壺一杯も欲しいとは尋常ではない。


「難しいでしょうか?」


「そ、それは……どのような用途でお使いになられるかによるでしょう。他の教会にも助力を頼めば量を揃えることは十分に可能でございますが、何のためにそれほど原液を集めるのか私も説明しないわけにはいきませんので……」


 涼しい顔で尋ねるノエインに、ハセル司祭はやや狼狽えながら返した。


「仮に、神の教えに反する用途での使用をお考えの場合は、伝道会として閣下のご希望にお応えすることは難しくなりましょう。閣下に限ってそのようなことはないと私個人は理解しておりますが……」


 つまりハセル司祭は「他の教会への説明もあるから、ミレオン聖教の信念に反しない理由付けがないと原液は売れない」と言っているのだ。そう理解したノエインは、すぐに用途を明かす。


「もちろん、神の教えに反するような用途ではありません……ハセル司祭は、ロードベルク王国の情勢が不安定になっていることはご存じでしょうか?」


「はい、もちろんでございます。特に紛争の続く南西部の惨状は教会の情報網を通じて私も聞き及んでおりますので、神に仕える者として憂うばかりです」


 ミレオン聖教伝道会は王国全土に無数の拠点を構える組織だ。国内の情勢は、ハセル司祭の方がノエインより詳しい部分もあるだろう。


「私も王国貴族の一人として現状を憂いています。このままでは大きな戦争が起こり、それによって国内がさらに混乱するかもしれないと……最悪の場合は貴族同士の衝突や内乱も起こりかねないと考えています」


 悲しげな顔を作ってそう語るノエイン。


「もしそうなった場合、同じ国の人間同士で争いが起こるかもしれない。そんな事態に巻き込まれたときに、私はできる限り同胞を殺めたくないと思ったのです。『天使の蜜』があれば、命を奪わずに相手を無力化し、そうした動乱を乗り越えられるのではないかと考えました。だからこそ、ある程度まとまった量を欲しているのです」


「……なるほど」


 どう返事をするべきか迷い、ひとまずそれだけ呟くハセル司祭。ノエインの語る理由は、確かに人道的なものに聞こえる。


「天使の蜜」は武器として使われたことがないわけではない。しかし伝道会から原液を買うためには多額の寄付が必要であること、敵を麻痺させても命までは奪えないことから、一般的な用法とは言い難かった。


 しかし、ノエインは「天使の蜜」が非致死性であるからこそ、ある場面では有用だと判断したのだ。


「私は私の民を守り、またできることなら、不幸にも剣を交えることになった同胞をも守りたい……こうした理由からでも、伝道会関係者へのご説明は難しいでしょうか?」


「それは……それなら、説明は可能でしょう。戦いで命を奪わないために『天使の蜜』を使うというのは、大変新しく面白いご発想だと感じました。急ぎ他の教会にも連絡し、ご要望の量を集めさせていただきます」


「よかった、感謝します。司祭のご厚意にお応えするためにも、心ばかりの寄付をお約束します」


 教会関係者もこの世で生きているからには、金は必要不可欠だ。


「天使の蜜」の原液を壺一杯欲しいという願いは異例のことだが、神の教えに反しない理由の説明がなされていて、さらに多額の寄付を受けられる以上、ハセル司祭もノエインの頼みを引き受けることにしたのだった。


・・・・・


 ノエインからアールクヴィスト領軍の備品に「天使の蜜」の原液を加えると言われ、ユーリは不思議そうな顔をした。


「『天使の蜜』の原液って言えば、普通は刑罰や脅しなんかに使うものだろう。ノエイン様が領主として持つなら分かるが、なんで領軍の備品にするんだ。それもこんなに大量に」


 領軍詰所の倉庫で壺を前にして、ユーリはそう尋ねる。


「まあ、普通はそう思うよね……だけど僕は、これがいざというときの最終兵器になると考えてるよ」


 ノエインはそう言いながら――久しく見せていなかった邪悪な笑顔を作った。


「ランセル王国との間に起こる戦争か、国内の混乱か、はたまたもっと先の別の戦乱か……とにかく何かのきっかけでこの領地や、派閥や、国が追い詰められたとき、これが禁じ手なみの強力な武器になる」


「そこまで言うのなら根拠があるんだろうが、一体何を考えてる?」


 訝しげに聞くユーリに、ノエインは逆に問いかけた。


「例えばさ、矢にこの原液を塗って、クロスボウで敵を撃ちまくる。原液付きの矢が大量に降り注いで敵に刺さる。するとどうなる?」


「そりゃあ、当たり所が悪かった敵は死ぬし、怪我で済んだ敵も麻痺で動けなくなるだろう」


「そうだね。敵は自力で動くこともままならない重傷者を大量に抱えることになるね」


「……なるほど、そう言うことか」


 ユーリにもノエインの狙いが分かった。


 負傷者は軍にとって大きな負担になるが、士気を考えると簡単に見捨てるわけにもいかない。「天使の蜜」のせいで立ち上がることもできなくなった大量の負傷者を救助して後方に送ることは、敵軍にとって凄まじい負担になるだろう。


「それだけじゃない。この原液の麻痺は年単位で残るんだ。体に麻痺を抱えた男たちがたくさん帰還してきたら、その社会はどうなるかな?」


 そこまでノエインが言うと、ユーリは絶句した。


 戦争で労働力を失うどころか、後遺症のある人間を大勢抱えることになったら。その国は、領地は、社会をまともに維持することすら難しくなるだろう。


 ノエインは「天使の蜜」の原液を、敵対する勢力の社会さえ蝕む毒として使うつもりなのだ。


 これなら、敵兵を一思いに殺してやったほうがよほど慈悲深いだろう。


 ユーリの脳裏には、働き手が足りずに荒れ果てた街の、体の不自由な傷痍軍人で溢れかえる路上の光景が思い浮かんだ。


「……それは、さすがに、いくらなんでも」


「非人道的、だよね? だからこれは最終兵器なんだ。こんな武器を考えなしに使いまくったら、相手から恨まれること間違いなしだからね。相手の社会を徹底的に破壊してでもこっちが生き残る! ってくらいなりふり構ってられないときにしか使えないよ。一生使わずに終わればそれが一番いいんだけどね」


 歴戦の戦士であるユーリさえ言葉を失うようなことを、ノエインは平気な顔で語る。


「……だが、伝道会はなんで『天使の蜜』を譲ってくれたんだ? 連中は神の教えにうるさい。そんな恐ろしい理由で使われるのに喜んで渡すわけがないだろう」


「ハセル司祭には『混乱が起きたときに人を殺めずに済ませられる手段が欲しい』って説明したよ。そしたら快く譲ってくれた。すごく人道的な理由でしょ?」


 そう言ってにっこりと笑うノエイン。話しているのがこんな物騒な内容でなければ、無邪気とさえ言える表情だ。


 自領を守るためなら手段を選ばず、他者に容赦しないノエインの残酷な慈悲深さを、ユーリは久しぶりに目の当たりにするのだった。

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