第82話 これから共に①

 ノエインとクラーラの婚約者としての交流は、一歩進んだ段階に入ろうとしていた。


「……来たね。出迎えの準備を」


「ああ、分かった」


 ノエインの屋敷へと真っすぐに続く、領都ノエイナの中でも特に大きな通り。そこを護衛の騎士たちに先導されて進んでくる馬車を見据えてノエインが言うと、従士長ユーリが応えた。


 向かってくる白い馬車は貴人を乗せるためのもので、所有はケーニッツ子爵家。その中にはクラーラが乗っているはずだ。今日は彼女がアールクヴィスト領を訪問する日だった。


 ゆっくりと馬車が向かってくる間に、ユーリが他の従士や屋敷の使用人たちに声をかけて整列させる。


 これから迎えるのは未来のアールクヴィスト士爵夫人、つまりこの領の立場上のナンバー2になる女性だ。ユーリたちとしても、できるかぎり誠意の見える出迎えをしなければならない。


 ほどなくして馬車は屋敷の敷地内に入り、ケーニッツ子爵領軍の騎士たちが横に退いて馬車だけが近づいてきて、屋敷の前に横向きで停まる。


 馬車の扉が開き、クラーラが子爵家の使用人を伴って降りてきた。それを見てノエインが前に進み出る一方で、ユーリたちは礼をする。


「クラーラ様、ようこそアールクヴィスト領へお越しくださいました。私の領地にあなたをお招きできたことを嬉しく思います」


「せ、盛大なご歓迎ありがとうございます……ノエイン様」


 できるだけ安心感を与えるように微笑みかけるノエイン。それに対してクラーラは――見ていて可哀想になるほど不安げな表情だった。


 箱入り娘として育った彼女が、知らない土地でいきなり知らない人々に囲まれているので気持ちは分からなくもないが、果たしてこの訪問を楽しめるのか心配せざるを得ない。


 内心でため息をつきつつも、ノエインはそれをおくびにも出さずにクラーラを屋敷の中に迎え入れる。


 まずは、馬車に長時間揺られてきた彼女の休憩がてら、一緒に昼食をとることになる。メニューは料理上手のロゼッタが手がけるジャガイモ料理だ。


 美味しいものを食べて、少しはリラックスしてもらえればいいのだが。そう考えながら、ノエインはクラーラを連れて屋敷に入った。


・・・・・


 昼食を無難に終えて(ジャガイモ料理はクラーラからも好評だった)、その後ノエインはクラーラに領都ノエイナの中を案内する。


 住宅や商会の建物が並ぶ市街地。広い農地。これから建設や開墾が進められるであろう手つかずの平地。


 南西の川沿いに建つ鍛冶工房や、浴場などの公共施設。さらには屋敷内の実験畑などの設備まで。


 田舎領なので目に見えて珍しいものはないはずだが、それでもクラーラは興味深そうにノエインの説明を聞き、自分がいずれ暮らすことになるアールクヴィスト領の各所を見ていた。


「クラーラ様、色々と見て回ってお疲れになったでしょう。そろそろ屋敷に戻りましょうか」


「はい……とても楽しかったです。これほど活気のある領地をたった2年半ほどで作り上げてしまうなんて、やっぱりノエイン様は才能あふれる素晴らしい方なんですね」


 そう感想を語るクラーラは最初ほどの緊張はなくなったようだが、ノエインを褒める言葉の裏にはやはりいつものように、自分への自信のなさが見える。


「この領の発展は領民たちの力があってこそですよ。私だけではとても……私はまだまだ未熟です。だからこそ、クラーラ様のような聡明な女性が妻として私のもとに来てくださるのはとても心強いです」


「そんな、私なんて……」


 クラーラは自虐的な表情で言うが、これまで彼女はノエインと学問について、特に歴史について話すときにはそれなりに積極的に言葉を交わしてくれたのだ。


 そのときの様子から、クラーラは学問への造詣が深い、賢い女性だとノエインは考えていた。自分に自信さえ持ってくれれば、ただ「領主の妻」という立場に収まるだけでなく自分で何かを成せる女性だと。


 屋敷に戻り、クラーラがレトヴィクへと帰る時間になるまで庭先でお茶を飲む。


 しかし、ノエインとクラーラがお茶のカップを手にして間もなく、その場にペンスがやって来た。


「ノエイン様、お客様の前で失礼します。急ぎご確認をいただきたい事項がございまして、少しお時間を頂戴することは叶いますでしょうか」


「そっか……分かった。少しなら」


 客人の手前、いつもより丁寧な言葉遣いを意識して声をかけてくるペンスに、ノエインはそう返す。


「クラーラ様、申し訳ありませんが少し席を外します。なるべく早く戻ってまいりますので、何かありましたらこのマチルダにお申し付けください」


「は、はい。私のことはどうかお気になさらずに……領主様ともなれば、きっとお忙しいと思いますので」


 そう言いながらも、この地で唯一見知った相手であるノエインが離れることで、クラーラはまた不安そうな顔をする。


 あらためて謝罪を重ねながらその場を離れたノエインは、ペンスと共に歩き……クラーラから見えないところまで来ると、息をついた。


「ふう……」


「ノエイン様、これでよかったんですかね?」


「うん、わざわざありがとうね。慣れない言葉遣いまでさせて」


 笑いながらノエインが言うと、ペンスも微苦笑を返す。


「俺は別に構わないでさあ。にしても、マチルダをクラーラ様と残していって本当にいいんですか?」


「僕がいくら慰めの言葉をかけてもクラーラはかえって落ち込んじゃうだろうからね。それよりも、マチルダと女性同士で言葉を交わした方が変化が見えるかもしれない」


 クラーラはノエインの後ろに控えるマチルダを明らかに意識しているが、あくまで従者の立場である彼女と直接言葉を交わすことは今までなかった。


 なのでこうして、用事もないのにペンスに自分を呼び出させて席を外すことで、ノエインはクラーラとマチルダが話せる場を作ったのだ。現状を変化させるためには、今までと違うことをするのがいい……かもしれない、と考えてのことだった。


「マチルダはこのことは知ってるんで?」


「いや、マチルダは人との会話が得意な方じゃないし、僕が何か言うとかえって緊張でぎこちなくなりそうだから。特に何も伝えてないよ」


「……そりゃあマチルダも大変だ。なかなか容赦ないことしますね」


「あはは、別にそんな大げさな話じゃないよ……ただ、ちょっとした変化のきっかけでも生まれればいいなと思っただけさ」


・・・・・


 ノエインが席を外したことで、屋敷の庭先にはゲストであるクラーラと彼女に付き添う子爵家の使用人、そしてクラーラへの対応を任されたマチルダだけが残った。


 クラーラはとても心細そうな顔をしているが、マチルダができるのはその場に佇むことだけ。奴隷であるマチルダの方から貴族の令嬢であるクラーラに声をかけるのは、無礼だと思われるかもしれないからだ。


 少しの時間が流れ――クラーラはすうっと息を吸うと、表情を引き締めた。まるで何かを決意したかのように。


「ねえ、少し肌寒いの。馬車から上着を取って来てもらえない?」


 クラーラがそう声をかけたのは、自身に付き添っていた子爵家の使用人だ。


「ですがお嬢様、そうなるとお一人に……」


「大丈夫よ、ここは私の婚約者であるノエイン様のご領地なんだから。それにあちらの獣人の彼女はノエイン様の護衛も務められている人よ。彼女が付いていてくれるから、万が一にも危険はないわ」


 クラーラを一人置いて離れることに使用人が難色を示すも、彼女はそう言い切る。その結果、使用人は渋々だがその場を離れた。


 これで、場に残ったのはクラーラとマチルダの2人だけだ。


「……マチルダさん。少しお話をさせてくださらない? どうかお隣に座って?」


「私のような卑賎の身でよろしければ、お相手させていただきます」


 意を決したように言ったクラーラに、マチルダはそう応える。クラーラが使用人を馬車に向かわせたのは、どうやらマチルダと2人きりになるためだったらしい。


「ありがとう……こうしてあなたと直接言葉を交わすのは初めてですね。実は前からお話ししてみたかったんです」


 マチルダの了承を聞いてほっとした表情を浮かべ、話し始めるクラーラ。


「……あなたにとって、そしてノエイン様にとっても、私は邪魔な存在なのでしょうね」


「そんな……そのようなことがあるはずもございません。ノエイン様はクラーラ様とのご婚約を喜んでおられますし、私も従者として喜ばしいことと思っております」


 クラーラからいきなりネガティブな言葉が飛び出し、マチルダは無表情を保ちながらも少し焦って否定する。


「優しい言葉をありがとう。でも無理をなさらないでいいんですよ? 私の目からノエイン様の立ち振る舞いを見ているだけでも、あの方があなたに絶対の信頼を置いているのは伝わってきます。あなた方は本当に信じ合って……愛し合っているんだと分かります」


 そう話すクラーラの表情は、とても寂しげだった。


「ノエイン様はとても素敵な男性です。父が決めた結婚相手ではありますが、私自身も心からそう思います……ですが、どうか安心してくださいマチルダさん。私はノエイン様と結婚しても、貴族の妻としての役割を果たすだけに留まります。決してあなた方の邪魔はしません」


 それはマチルダから見ても、あまりにも悲愴な決意の言葉だった。クラーラの語る生き方は、ただ「妻」という置き物としてそこにいるだけのあまりにも虚しいものだ。


「畏れながらクラーラ様、そのように仰られる必要などございません。あなた様はアールクヴィスト士爵家夫人となられる方なのですから」


「でも……あなたとノエイン様を見ていたら、私なんかがとてもその間に割り込めるとは思えません。割り込もうとも思いません。私ができるのは、お邪魔にならないよう隅で大人しくしていることだけですから」


 自虐的な発言が多いクラーラだが、その物言いはこれまでの中でも一際痛々しいものだった。聞いているマチルダも思わず表情を少し動かしてしまう。


「後ろ向きな言動ばかりで不愉快ですよね。ごめんなさい……私はケーニッツ子爵家の娘ですが、ただそれだけです。この年まで家でおとなしく過ごしてきただけの、家柄だけが取り柄の地味な娘です。そう思うと、どうしてもこんな言葉ばかり出てしまうんです」


 悲痛な面持ちで言うクラーラを見て、マチルダは彼女の抱える諦念の理由を知った。


 クラーラは「ケーニッツ子爵家令嬢」という自分の立場にしか価値がないと、自分自身には価値などないと思っているのだ。


 ケーニッツ子爵は娘の幸せも考えてノエインをクラーラの結婚相手に選んだのだろうが、これが政略結婚の意味を持つことに変わりはない。家柄と自身の価値にギャップを感じているクラーラが、この結婚の話を聞いてよりコンプレックスをこじらせたことは想像に難くない。


 それに、クラーラも貴族令嬢にふさわしい教養と知性を持った女性ではあるが、彼女と比較してもノエインの才覚は圧倒的だ。それを目の当たりにして、ノエインを自分と比べて、クラーラはより後ろ向きになってしまったのだ。


 おまけにノエインには、既にマチルダという恋人がいる。そのことも余計にクラーラの劣等感を刺激するのだろう。


 自分に価値がないと、居場所がないと感じることがどれほど辛いか。それはかつてキヴィレフト伯爵家で奴隷として虐待され、心を死なせたマチルダにも理解できる。


 マチルダはその辛さを乗り越えられた。ノエインに心を掬い上げてもらった。


 クラーラはこれからそれを乗り越えなければならない。では、彼女のために自分には何ができるか。ノエインが彼女を掬い上げるために自分には何ができるか。


「……クラーラ様。私の立場でこのようなことを申し上げるのは恐縮ではありますが、私からひとつ、クラーラ様にお願いをさせていただいてもよろしいでしょうか」


 考えた末に、マチルダは言った。

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