閑話8・先の先まで
「……時間がいくらあっても足りないな」
アーシェンの実家であるビナー邸の執務室の机の上で指を組み、ユヒムは目の前に並ぶ変身の魔術具に視線を落とす。
魔術具の横には数々の報告書が山のように積まれているが、それらはすでに読み終え、今は静かに思考の海に身を沈めている。
アーシェンは同じ執務室にあるテーブルでお茶を飲みながら、届いたばかりの報告書に目を通していた。この部屋には音断の効果が掛けられ、いるのは二人だけだ。
「ちょっと露骨に動き過ぎじゃないかしら。商業ギルドに苦情が入ったらしいわよ。ケテルナ商会とビナーズ商会は学園の職人を根こそぎ持っていくつもりか、って」
「そんな戯れ言は放っておいていい。今はとにかく人手が欲しいんだ。オレには手を抜いている暇なんてない」
自分たちの交渉力の無さを自白するだけの意見など耳を貸すだけ時間の無駄だ。ユヒムは報告書の中から書類の束をいくつか取り出し、「足りないくらいだ」と呟く。
今はとにかく鍛冶と木工の職人が欲しい。
アーシェンに声を返しながらも、ユヒムは学園の生徒で雇い入れが決まった者たちのことを考えていた。
「姫様と縁のあった者は出来るだけ繋いでおきたいからな」
「衣部のシルトとマティーナはウチがもらって、すでに服を注文してるわよ」
「そうか、それは良かった。姫様の服に関してはフィゼーレがずっと気にしてたからな」
「私とフェルドラルさんもね」とアーシェンは相槌を打つ。
長い間、ルーリアが同じ服を着続けていることにはユヒムも気付いていた。だが、それが高品質でしかもエルシアの手製であったため、何かの思い入れがあって着ているものだと、ずっと思っていたのだ。
しかし、フィゼーレがそれとなく話を聞いてみたらなんてことはない。身体が成長するまでは、傷んでもいないのに変えることは出来ないとルーリアが思い込んでいただけだったのだ。
その後、フィゼーレはルーリアのためにすぐに着られる衣服の一式をそろえ、アーシェンは服飾職人を探すようになった。
「木工のラウディからも、つい先日、やっと良い返事をもらえたよ。ついでに腕が良さそうな職人にも声をかけてもらっている」
「鍛冶の方はどうなったの? 今年って確か、専属の娘さんが最優秀を取ったんでしょ? えっと、ドワーフのドルミナだっけ?」
ドルミナの実家──マリクヒスリクにある大きな鍛冶工房は、大勢の職人を抱えるケテルナ商会の専属だ。アーシェンは当然、親子そろってケテルナ商会の専属になるものだと思っている顔だが、ユヒムは苦笑いを向ける。
「……あぁー、彼女か。なぜか鍛冶じゃなくて調合の方に進んでいるらしくてさ、父親である工房長からも姉じゃなく弟の方に跡を継がせるかもって言われてるんだ」
「あら、そうなの?」
「まぁ、どっちに進んでも逃すつもりはないけどね。調合好きなら珍しい素材で釣れるだろう」
そう言ってユヒムはルーリアには決して見せない顔で目を細め、口の端をわずかに上げた。
ドルミナは度々ルーリアの料理に釣られていた、と報告書にはある。しかもユヒムが必要としている時の魔術具の研究をしているそうだから、親とは違う工房を持たせようと考えている。
「そういえば、シャルティエには出店を急がせてしまって悪かったな。シュークリームの店は卒園してからって考えてたみたいだったのに」
「あら、大丈夫よ。あの子、思ってたよりしっかりしてるもの。一番懸念していた職人の育成だって終わってたんだから」
ルーリアの友人であるシャルティエの店は出来る限り応援するつもりだ。
ただ、どうしてもこっちが出店するより早く、シュークリームの店として名前を売ってもらう必要があった。自分たちより後に開店するとなると、店舗数の圧倒的な差から姉妹店や支店と勘違いされやすくなる。
今後のルーリアのことを思えば、来年の春頃にはダイアラン以外の国でシュークリームの店を展開させていきたいと考えているから、シャルティエの計画を前倒ししてもらうしかなかった。こちらの都合を押しつけてしまい、申し訳ないと思う。
「レオリオの報告はどうなの? 勇者パーティを支援国から離す話は、おおむね上手くいってるって聞いてるけど」
レオリオはケテルの屋敷で執事を務めているルキニーの孫だ。レオンという偽名で学園の情報学科に通い、ルーリアを陰から見守りながら日々の細かい報告を上げている。
「その話は商業ギルドの方で、だいぶまとまってきているよ。どの国も今になって勇者に頼れなくなったら困ると顔色を変えているらしいけど、放っておけばいい」
ダイアランのように騎士団があり、大型の魔物がそこまで出ない国からの不満は少ない。
うるさいのはナーリアンやアクアベーテのような、自分たちは戦いに参加しないくせに偉そうに口だけ出そうとする権力者が上に立つ国だ。当然、そんな国に対するユヒムの関心は薄い。
「そんなことより、問題なのは姫様の今の序列の方だ。フェルドラルさんに放課後の対戦禁止を出したことで、姫様の頭からはすっかり忘れられてるみたいなんだけど、前に参加したシュトラ・ヴァシーリエの影響で今は54位にいるらしい」
「54位? それって、トーナメント戦の出場枠の範囲内よね?」
「ああ。参加者は60名だからね。今のままだとまずいかも」
たまたま倒した二人がそれなりの序列にいたから、ポイントもそれなりに入ってしまったらしい。
「そのことに姫様は気付いていないらしいけど、祭りまでにギリギリ枠から外れるかどうかってところかな」
「……ギリギリ、ね。それなら菓子学科のグレイスに話を通しておけば問題ないと思うわ」
グレイスはダイアグラムの豪商の娘で、アーシェンとは顔馴染みだ。交渉ごとには人一倍慣れているから、事前に話を通しておけば自分の受け持つ生徒くらい余裕で守るだろう。
「ちょっと心配なのは、軍部の教師主任があまり人の話を聞かないことで有名なことかしら」
軍部の教師主任は、ダジェットという名前の獣人だと聞いている。ダジェット……その名前にユヒムは聞き覚えがあった。
ガインの前任にあたる神殿の騎士団長の名前も確かダジェットだったはずだ。これはガインにも報告しておいた方がいいだろう。念のため、アーシェンにも伝えておいた。
「ダイアランの宮廷魔術士団から姫様を勧誘するように、リヴェリオ王子や近衛師団のところに話がちょくちょくきてるらしい」
「まぁ、ルーリアちゃんのことを何も知らなかったらそうなるでしょうね。ユヒムが先に動いたんでしょ?」
「ああ。そのためにわざわざ契約書を持たせたんだ。その意味も理解できない王族なら無能としか言えない」
「……相変わらず上に立つ人に厳しいわね」
あの契約書があるから、ルーリアが魔虫の蜂蜜屋であることを隠せて、近衛師団がすでに調べを済ませていると周知でき、『魔女なので勧誘不可』のひと言で片がつく。
ルーリアのためなら、ユヒムは自国の王族を手駒にすることすら
「恒例で神殿の騎士が軍部に出入りし始めたから、それとなく近衛師団に見張りを頼んでおいたんだけど、狙ったように姫様と接触したらしい」
「えっ! 大丈夫だったの!?」
「ガイン様からも話を聞いたけど、今は様子を見るしかない状態だ」
キースクリフについての自分なりの考えをまとめてアーシェンに話し、現状維持と結論付ける。危険なのは十分に承知しているが、呪いを解く手掛かりがはっきりしない以上、今は目を
「ネアリアの方は何か収穫は?」
「ルーリアちゃんから預かった野菜だけど、成分を調べさせたら、いくつか薬に使えそうな物があったそうよ」
「……薬か。それなら資金集めにも使えそうだな」
該当する報告書をアーシェンから受け取り、軽く流し読みしていく。代わりにアーシェンにはエルシアから届いた調合に必要な素材のリストを渡した。
「こっちは急ぎだ。発注済みだから届いたらエルシア様まで頼む」
「了解。サンキシュの方はどうかしら?」
「今はとにかく情報収集に徹してる。必要な物の洗い出しと各所の下準備に入ったくらいだ」
「……下準備? さすがに早すぎるわよ。ちゃんと寝てる?」
気遣わしげに顔を覗き込むアーシェンに、ユヒムは爽やかに笑って返す。その顔を見て、アーシェンは呆れたようにそっと息を吐いた。
「ユヒムの笑顔なんて、この世で一番信用できないものじゃない。蜂蜜じゃ睡眠不足は解消しないのよ?」
独り言のように呟き、アーシェンはユヒムに向かって手をかざす。『
「まだ話の途中だ。必要なことを全部伝えたら大人しく魔法を受けるから」
困った顔でそう告げるユヒムを、本当でしょうね? と、アーシェンはジロリと睨む。
ユヒムは真面目な顔で頷いて手を離した。
「魔鳥の巣に出入りしている商人から返事があった。上手くいけば情報を買えるかも知れない。けど、そこまで行くにはもう少し時間がかかりそうだ。まだ警戒されてて信用はされていない。アーシェンの方は?」
「こっちはやっと販路が確保できたところよ。同じく、落ち着くまでにはもう少し時間がかかりそう。でも、上手くいけば上物が手に入るかも知れないわ」
そう言ってアーシェンは執務机の上にある変身の魔術具に視線を向けた。
「助かるよ。それがあれば、また打てる手が増える」
「……ねぇ、ユヒムはレイドを……魔族を信用してる?」
真剣な目で探るように見てくるアーシェンにユヒムは肩を竦める。
「オレの信用は必要ない。オレは姫様の望みを叶えるだけだ」
「……ふぅん。今の段階で切り捨てていないということは、少しは勝算があるのね。分かったわ。じゃあ、おやすみなさい」
不意をつくようにアーシェンが睡眠の魔法を唱える。しかしその魔法は跳ね返され、驚きに目を見開いたまま、アーシェンの身体は大きく傾いた。
「!? な、ん……」
「魔法を受ける約束は守ったよ」
魔術具で跳ね返すとは言ってないけど、と心の中で呟く。眠りに落ちたアーシェンを抱き留め、長椅子に寝かせてビナー家の執事を呼んだ。
「少し無理してるみたいだから、ちゃんと寝室で寝かせるように。自然に目が覚めるまでは起こさなくていい」
「かしこまりました」
執事がメイドたちに指示を出すのを見届け、「おやすみ、アーシェン」と、ユヒムはアーシェンの紅い髪を撫でて屋敷を後にした。
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