40.食べさせて(円)
翌日の撮影は順調すぎるほどに進んでいた。風はおさまっている。太陽も隠れていて、海も穏やかだった。
「じゃあ、キュー」
今日はノーNG。
それほどまでに天道さんは集中していた。表情が昨日よりも豊かに、鮮やかになっていくのが間近で見ていて分かる。
「手、繋いでも良い?」
町を歩いても誰一人いない。もうここには誰もいないのだと言うことに、気がつくシーン。
車通りのない歩道で、ふと彼女が口を開く。
「君と手を繋ぎたい」
「どうして」
「寂しいから」
顔をそむけながら「だめ?」と天道さんが言う。少しの間を持って口を開く。
「ごめん。俺にはできないよ。だって」
「知っているよ。知っていて言っているの」
俺の言葉を
「ここなら誰も見ていないから」
風が吹く。
ぱさりと彼女の髪がなびく。
「誰もいないんだから。私たち以外」
伸びてくる手をつかむ。彼女が表情を崩す。笑っているのか泣いているのか曖昧な表情。
瞳がゆらゆらと動いている。
「カット」
瑛子が声をあげる。
「うん。良いです」
ホッと肩の力が抜ける。
これで後はクライマックスのシーンを撮れば、俺の出番は終了。ニコたちの映画の方に集中できる。ちょっと名残惜しいけれど、俺が出るシーンの撮影は間もなく終わる。
「少し休憩にしましょうか」
天道さんは通りの方にポツンとある駄菓子屋を指差した。そこでアイスキャンディーを買って、木陰で涼みながら休憩することにした。
天道さんは俺の隣にちょこんと座った。
「暑いね」
「暑いですね」
「円くんは何味買ったの?」
「俺はバニラです」
「私はパイナップル」
「ちょっとちょっと」
瑛子の声に、黄色いアイスキャンディーを持った天道さんが振り向く。
「どうしたの?」
「いつまで手を繋いでいるんですか」
「ああ」
さっきの撮影から、手を繋ぎっぱなしだった。俺は手の力を緩めたけれど、天道さんは離そうとしなかった。
「無意識だったわ」
「安生もずっとつかんでるんじゃないよ」
「俺がつかんでたわけじゃないんだ」
「まったくもう」
3人で並んでアイスを食べた。火照った身体にアイスが冷たくて甘い。パイナップルのアイスを食べていた天道さんは、俺のことをのぞきこんできた。
「ねえ。バニラ味ってどんな味がするの」
「普通ですね。普通のバニラです」
「食べさせて」
「え?」
「ちょうだい。代わりに私のパイナップル分けてあげる」
「良いですけど」
やった、と笑った彼女は、
「じゃあ。あーん」
口を開けて、と言うことか。
いやいや。何だこの距離感。
「ちょっとちょっと」
ガタンと瑛子が立ち上がった。
「どうかした?」
「なんか様子がおかしいと言うか。熱中症ですか」
「そんなことないわ」
「でも。それって間接キ……」
瑛子は顔を真っ赤にしてしまった。
「おかしいです、やっぱり」
「大したことじゃないわよ。ペットボトルの回し飲みとかするじゃない」
「ペットボトルとアイスキャンディーじゃレベルが違います。なんか、こう、生々しいと言うか」
「そうかしら。ねぇ、バニラ味ちょうだい」
ぐいぐいと天道さんは俺の服を引っ張った。
「食べさせて」
あーん、と彼女は口を開けた。
とても生々しい。
固まっていると、瑛子は俺からバニラアイスを奪って、天道さんの口に突っ込んだ。
「もがもが」
「安生、ちょっとこっち」
キョトンとした顔で俺のバニラアイスを舐める天道さんを置いて、瑛子は俺を店の隅に連れていった。
「どういうこと?」
詰め寄ってきた彼女は、今度は真っ青な顔をしていた。
「普段の会長と様子が違う。昨日の夜、何かあったの」
「トランプしてただけ。俺にも分からない」
「分からないじゃあ困るの」
俺の服を引っ張って、彼女はぐわんぐわんと揺らした。クラクラしてくる。
「だってあれじゃあ」
アイスを舐める天道さんを見ながら、彼女は言った。
「映画のヒロインそのものじゃん。恋しちゃってるじゃん」
今日撮影しながら、ずっと気になっていたらしい。天道さんの演技が磨かれてくるにつれて、素の天道さんが変わってきている。
やたらくっつこうとする。スキンシップを取ろうとする。例えるなら、画面の内と外の境目がなくなってしまったみたい、と瑛子は言った。
「自分の役に飲まれてるのかな。それとも単純にあんたのことが好きなのか」
タイプよ、と言った天道さんの言葉が浮かんでくる。
「知らん。でも様子はおかしい。うん」
「撮影終われば元に戻るのかな」
「多分」
これ以上はもう俺の心臓ももたない。
台本をパラパラとめくりながら、瑛子は俺に言った。
「次のシーンだけど。わかってるよね。例のキスシーン」
「わかってるよ。寸止めだろ。ギリギリのところで、足元にカットを切り替える。背伸びするシーンで暗転。エンディング」
「絶対だからね」
脚本を踏まえた上で、瑛子はそんな演出を考えた。本当にキスをするのは絶対なしだと彼女は
「万が一、天道会長がキスを迫ってきても避けてよ」
「がんばる」
本当に。
「頼むよ。いや別に普通の恋愛だったら、私がとやかく言うことでもないんだけどさ」
珍しくしおらしい様子で、瑛子は言った。
「役に飲まれてるんだとしたら、私にだって責任あるし」
「そうかな」
「監督だからね」
ほとほと困ったように瑛子は言った。
と言うわけで「寸止め」と頭の中でリピートしながら、次の撮影場所へと向かう。最初のシーンと同じ波打ち際でカメラを構えた。
ちゃぷんと波が寄せてくる。水音は昨日より静かで、相変わらず俺たち以外誰もいなかった。
「じゃあ始めましょうか」
ふうと大きく深呼吸をして、天道さんは俺の隣に立って手を握った。彼女の手は少し汗ばんで温かった。
「じゃあ。いきます」
三脚をセットした瑛子は変わらず不安そうな顔をしていた。
「3、2」
キューが出る。
無言で海を眺める。握った手がじんわりと温かくなっていく。
「あのさ」
天道さんが口を開く。
「私たち、これからどうなるのかな」
分からないと首を横に振る。彼女は手を握ったまま、俺のことを見た。
「2人でこれからずっと生きていく?」
「でも明日になれば何か変わるかもしれない」
「明日になったら全部元どおり?」
「うん。これは夢みたいなものかもしれない」
そしたら、と彼女は言った。
「明日が来なければ良いな」
手を握る力が強くなる。
「ずっと今日のままが良い」
天道さんの足元で小石がカラと音を立てる。
きた。
彼女はすぐ側に立っている。
潮風の音が耳に響く。ウィッグがぱたぱたとなびいて、彼女の表情を隠す。寸止め、と自分に言い聞かせる。
匂いがする。
天道さんの匂いだ。胸の奥に静かに広がっていく。だんだんと近づいてきている気がする。
彼女の唇がポワンと頭に浮かぶ。
まだか。
まだオッケーは出ないのか。
恐る恐る目をあけると、天道さんはその場で固まったままだった。
「天道さん?」
演技を忘れて思わず呼びかけてしまう。
天道さんの顔はフルフルとこわばっていた。
「だめ」
その頬はほんのり赤かった。
「恥ずかしくなってきた」
上ずった声で彼女は言った。
今まで見たことがないほど焦った様子の彼女は、その場にうずくまってしまった。
カメラを構えた瑛子が唖然とつぶやく。
「会長。あの」
「だめ。恥ずかしくてできない」
やー、と天道さんは顔を隠してしまった。
「ええと」
瑛子がカメラを下ろす。
「どうすれば」
俺に聞かれても分からない。がくがくと力が抜けていく。
残念なような、ホッとしたような。良く分からない。
うずくまったままの彼女を見下ろす。
天道さんが「恥ずかしい」なんて言うなんて思わなかった。それもあんな表情で。
あんな無防備な表情で。
結局、それでクライマックスの撮影は終了した。キスシーンの続きは撮られることはなく、暗転で終わらせることにした。
「これ以上できないわ」
ウィッグを前側にずらした天道さんは、髪で顔を隠してしまった。
帰り道もずっとそのままだった。
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