旅立ちと縁

 卯の月も一週間もしないうちに終わりを告げ、間もなく花の月を迎えようとしていた頃。


 すっかりと気温も上がり、人々の明るい笑顔に満たされたクリシェの街は、少しずつではあるが発展を遂げていた。そんな田舎町の路傍を小さな花々が彩り始める季節を迎えたある日。


 窓から入り込んだ、春の香りを運ぶ風は、颯々と、窓際で佇むリタ・アステライトの銀髪を揺らしていた。リタは窓を閉めると、椅子に座り首に布を巻く。



「髪、伸びたわね」


 既に太ももにも届こうかという長髪を、愛し気に撫でながらリィナはその髪に鋏を入れていく。散髪されながら静かに座っているリタの瞳には、十数年を過ごした自室の風景が映っていた。


 寮で必要となる物は殆ど王都で買いそろえる予定だ。


 だが、持っていくものも勿論多い。少しだけがらんとしたその部屋に、何処か寂しさを覚えてしまうのは仕方が無いだろう。


 既に散髪を済ませ、すっかり小綺麗になったエリスも、机の書物を鞄に詰める合間に、自分の机を感慨深そうにその手で撫でる。


 彼女たちは帰りたいと思えば、すぐに帰ってこれる手段を持っている。

 それでも、親元を離れて暮らすということは、彼女たちにとって巣立ちであり、旅立ちであった。



 既に、これまである程度関係を持った人たちには挨拶を済ませた。とはいえ、永遠の別れでもあるまいし、長期休暇になれば勿論帰省する予定であったため、大げさなものでは無かった。人々は、姉妹の学院合格を心から祝福してくれた。

 そんな多くの人との関りを持つことが出来たのも、全てはノルエルタージュ・シルクヴァネアという名の少女との出会いがあったからだ。


 リタは改めて、交わした約束を、必ず守るという誓いをその胸に刻んでいた。



「終わったわよ、リタ」


 後ろから聞こえた優し気な声。リタを後ろから抱きしめるようにその首に回された母の両腕を、リタはしっかりと握った。


「ありがとう、母さん。――――私を、受け入れてくれて」


 リタは照れくさくて、振り返ることが出来なかった。

 ただ、変わらない母の温もりを、少しの間感じていた。


「……何言ってるのよ。さ、準備をするわよ」


 リィナもまた、その声に寂しさを滲ませながらも、それを吹っ切るように手をほどいた。




 その日の夜、旅立ちを明日に控えたアステライト邸の食卓には、姉妹の好物ばかりが並んでいた。早い時間から普段より少しだけ高価な酒を飲んでいるクロードは、完全に出来上がっている。


「リィナ……俺には辛すぎるんだが……泣いていいか?」


「もう泣いてるじゃない」


 リィナは呆れ顔だ。クロードはその顔をぐちゃぐちゃにして、号泣している。姉妹は顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。


「おい、エリス? 夏休みって明後日からだっけ?」


「そんな訳ないでしょ……」


 エリスもまた、呆れたような顔で返した。


「俺には無理だ……なぁ、リタ? ちゃんとエリスのこと、見とけよ? リタより弱い男が近づいてきたらちゃんと沈めるんだぞ……」


「うん、任せて!」


 そうして、賑やかに夜は更けていく。

 結局、クロードが酔いつぶれるまで、四人は食卓にいたのであった。




 ――――翌朝。


 リタとエリスは街の門の外にいた。

 見送りは両親だけのはずだったが、いつの間にか数十人の見送りの人たちが集まっている。


 慈善学級のヘレナに、ジャックを筆頭としたリタの下僕軍団。リタがこれまでに治療してきた老人たちに教会関係者が数人。他にも、エリスの元家庭教師の女性や、買い物でお世話になっていた商店の人たち。


 急に寂しさが沸き上がり、零れそうになる涙を堪えながら、リタは皆と少しの間話していた。エリスもまた、少しだけ感慨深そうな笑顔であった。


 そして最後に、両親の前に、改めて姉妹は立つ。

 クロードが、静かに口を開いた。


「お前たち、本当に大きくなったな……。前にも言ったが、お前たちはやりたいことをやっていい。領地のことも跡継ぎのことも心配するな。お前たちが、夢を叶える、それが俺たちの望みだ。お前たちにはこの領地も、王国も、狭すぎるだろうからな。でもな、たまには顔を見せに帰って来い。この街はずっと、お前たちの故郷で、帰る場所だ」


 領民の前だからか、必死に感情を押し殺したように話すクロードの気持ちは、十分に姉妹に届いていた。


「じゃ、行ってくるね」


 リタの頬を、一筋の涙が流れる。


「行ってきます」


 エリスもまた、潤んだ瞳でそう告げた。


「行ってらっしゃい、頑張るのよ」


 リィナは心からの笑顔でそう言う。



「行こう、エリス」


「うん」


 姉妹は、大きな籠に乗り込む。隣には立派な飛竜と御者の男が待っている。

 今回は、どうしても馬車を使いたくなかったリタのために、クロードが大枚をはたいて手配した飛竜で王都まで向かうことにしていた。


 既に荷物は運びこんでいる。御者にリタが頷くと、飛竜がゆっくりと羽ばたき始めた。


「リタ! エリス! 頑張れよ!」


 そんなクロードの声に押されるように、飛竜は離陸する。

 小さくなる人々の姿が見えなくなるまで、姉妹は大きく手を振っていた。




「で、お姉ちゃん? いつまで泣いてるの?」


「だってぇ~」


 流石に半日も泣き続けているとは思わなかった。飛行高度は高く、流石に冷える。防寒着を纏いながら、姉妹は寄り添う。いつしか王都で購入したタオルを濡らしながら、リタは顔を膝に埋めていた。

 エリスは、そんな姉をそっと抱き締める。エリスは、いつしかリタの嗚咽が寝息に変わるまで、そうしていた。


 飛竜は夜も休まずに飛行を続けている。

 周囲に明かりは一つも無い。

 まさに満点の星空を独り占めしているような、そんな気分でエリスは周囲を眺める。

 リタが起きていれば、星間飛行とでも例えたかもしれない。


 頭上には、立派な体躯の飛竜が繋がれている。その力強い羽ばたきを見ているうちに、いつの間にかエリスも眠りに落ちていった。




 ――翌朝。天候にも風向きにも恵まれ、まだ午前中と呼べる時間に到着できたことは幸運だっただろう。

 大荷物を持って、学院に到着した姉妹であったが、女子寮の前に張り出されていた、新入生の部屋割りを見て驚愕の表情を浮かべていた。


「ねぇ、嘘だと言ってよエリス……」


「嘘……でしょ……」


「エリスと、違う部屋とか……まじ無理……誰が毎朝私を起こすの? 誰が毎日私の服とか必要なものを準備するの?」


 リタはエリスに助けを求めるような視線を向けていた。


「お姉ちゃんが絶対ルームメイトに迷惑を掛ける……」


 通常、学院の女子寮は二人部屋となっている。

 だが、今年の新入生の女学生のうち、大貴族などを除いた入寮者は奇数。

 そして、首席合格のエリスだけに、一人部屋が割り振られていたのだ。


「と、とりあえず、手続きしよっか?」


 エリスは動揺を隠しながら、姉の手を引いて領の敷地をまたいだ。


 学院の女子寮は、敷地の端の方にある。周囲からの視線を隠すように植えられた高い生垣に囲まれる大きな建物だ。三階建てで、食堂や売店も併設されていると聞いている。流石に数百人が生活する寮となれば規模もそれなりだ。


 赤いレンガ造りの瀟洒な建物には、曲線を描く屋根と、円形を基調としたモチーフが飾られ非常に雰囲気がいい。もしかしたら、貴族のお嬢様が多いことも関係しているのかもしれない。どうしても、王国の教育形態では富裕層と貧困層で、その格差が大きくなるからだ。実際に、学院の学費はかなり高額だと聞いている。

 おかげで、リィナは二人の学費免除には満面の笑みであったし、学生とは思えないほどほどのお小遣いをもらっている。しかし、これには貴族令嬢としての振る舞いを求められる場面も多くなるだろうから、その必要経費も含まれるとのことだ。


 大きな木製の扉は開け放たれていた。建物に入って目に飛び込んできたのは、大きなシャンデリアの飾られた吹き抜けのロビーである。いくつか並んだ机と椅子には上級生らしき生徒たちの姿も見える。少しだけ、姉妹の容姿に嫉妬の視線を感じたのはご愛嬌だろう。


 赤いカーペットの感触を確かめながらリタは歩く。建物中を瑞々しく甘い香りが満たしているようにリタは感じた。


(すっごく、すっごく、女の子の匂いがします……!)


 エリスは目を輝かせながら鼻を鳴らしている姉に苦笑いを隠せない。


 ロビーの張り紙の誘導に従い、姉妹は入寮手続きをすべく、寮母の部屋へと向かった。

 そこで告げられた、無慈悲な部屋の変更不可という台詞に項垂れながら、手続きを済ませそれぞれの部屋に荷物を運びこむ二人。


 早速だが、寮生活に必要なものを買い出しに行かねばならない。

 リタのルームメイトは、入学式までまだ日にちがあるからか、今日はまだ居ないようだった。


 姉妹は、エリスの広々とした部屋のベッドに腰掛け、少し休憩している。


「とりあえず、キリカでも呼ぼうかな?」


 リタの頭のアホ毛が立ち上がるのが見える。


「ねえ、お姉ちゃん? 公爵令嬢をそんな簡単に呼びつけるのはお姉ちゃんくらいだよ? 大体キリカちゃんだって忙し――――」


「あ、もしもしキリカ? 今暇? うん、そう。寮に着いたんだ。――うん、買い物行くから、付き合ってよ。――えっと、とりあえず、学院の前まで迎え来てくれる? うん、ごめんね? はーい」


 エリスは人の話を聞かない姉と、フットワークの軽すぎる公爵令嬢に、深く溜息をついた。


「キリカ、今から学院の門の前に来てくれるって!」


「はいはい、もういいです。分かりました……」


 リタは、窓の外に広がる広大な敷地に目を向ける。


 今日もまた、騒がしくて楽しい一日になるだろう。

 そしてこれからは、そんな毎日が続くのだ。


 どんな因果か、女の子になってしまったが、前世で出来なかったことも可能な範囲で楽しみたい。

 勿論、ノルエルタージュのことが一番大事だけれど。



 私が女の子になったって知ったら驚くかな?

 君はでも、きっと女の子。そんな気がする。

 どんな困難も、理不尽も、すべて私が打ち砕いてみせるから。

 願わくば、一緒の時間を、望んでくれますように。



 きっと彼女はもう、すぐそこに、居る――――。

 リタは、そっとその胸に手を当てて、彼女がくれた鼓動を感じていた。

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