楽しむために
往路は不慣れな美園がドライバーという事である程度時間に余裕を見ていたのだが、道程は想定よりもずっとスムーズで、時間的な余裕も少し出来た。そのため予定よりもゆったりと昼食をとり、少しドライブをしてから宿にチェックインを済ませた。
宿は両親の援助のおかげで学生の旅行にしては過ぎたところを選べている。
外観は老舗の歴史を感じさせる木造の佇まいではあったが、メンテナンスがいいのか綺麗に保たれていた。内装についても柱を見れば少し古い印象も受けたが、各所の清掃は行き届いており、落ち着きのある照明を反射する程の光沢を放つ廊下も、質の高い施設である事を証明している。
サービスについてもそうだ。フロントでの対応に加えて仲居さんが部屋まで荷物を運んでくれ、その上で食事や大浴場の利用などの説明もやはり丁寧に行ってくれた。
美園は慣れもあるのか仲居さんにいくつか質問をしており、既に打ち解けたような印象があった。インターンに出て自身のコミュニケーション能力により一層難を覚えた僕としては見習いたいものである。
「至れり尽くせりって感じだよね」
「ええ」
お茶まで用意してくれた仲居さんが部屋を辞した後、座布団に座りながら体を伸ばして笑うと、対面の美園がやわらかな笑みを浮かべる。
恐らく美園から先に口を付ける事は無いだろうとお茶を一口含むと、美園は綺麗に伸びた背筋と上品な所作で湯呑みを口元へと運ぶ。食事時以外で改まって緑茶を飲む機会があまりなかった事もあり、両手を使った丁寧な仕草が珍しく、そしてやはり美しく目を奪われる。
「改めてだけど、運転ありがとう。お疲れ様」
「ありがとうございます。何はともあれ、無事に着けて良かったです」
ふうと一息ついた美園がほんの少し眉尻を下げて笑う。
きっと表に出ていた以上に緊張をしていたのだろうなと分かる。それでも僕に往復を任せる事をよしとせずに慣れない運転を買って出てくれた訳で、そんな美園の気持ちが嬉しくて僅かに頬が弛む。
「上手な運転だったよ。疲れただろうし、少し休もうか」
「お気遣いありがとうございます。でも、後で温泉に入って疲れも取れますし」
僕の言葉に対し小さく首を振り、「それに」と美園がはにかみを見せた。少しだけ染められた頬と、卓の向かいから届けられる僅かな角度のついた視線が愛らしさを何倍にも引き上げている。
「夜は一緒に休む訳ですし、今は一緒の時間を楽しみたいです」
車に乗る前に美園に冗談めかした事を彼女から返され、自分で言った事ながら中々恥ずかしい。
美園は「了解」と返すだけで精一杯だった僕に対してふふっと笑って、窓の外に視線をやった。
「先程仲居さんがおっしゃっていましたけど、中庭も見どころの一つだそうですから、お散歩に行きませんか?」
「うん、いいね。温泉入る前に行っとこうか」
「はい」
そんなやり取りをしてから向かったのは旅館の母屋と浴場との間にある石畳の渡り廊下で、中庭にはそこから出られる。
池と植物で造られた水と緑の日本庭園には、傾斜を利用した小さな滝も存在しており、水の流れる音が心地良い。
平日である事に加えて僕たちのチェックインが早かっためもあってか先客はおらず、中庭の景色を二人占めだ。
「紅葉シーズンだとまた雰囲気違うんだろうね」
「ええ。四季折々の楽しみ方が出来ると思いますよ」
「そう言われると別のシーズンにも来たくなるな」
美園が言うには春の新芽、夏の力強い木々、秋の紅葉、冬の雪景色などが見どころらしく、目の前の景色でそれらを想像してみると、やはり彼女と一緒にそれを見たいと思えてしまう。
「ええ、そうですね」
とは言え今回と違い懐事情的にも学生の内ではそう何度も来られないだろうし、美園もそれが分かっているので僕に頷きつつもくすりと笑った。
そんな会話をしつつ渡り廊下から離れて灯篭の備え付けられた池まで歩くと、白と赤の鯉の集団が寄って来る。人に慣れていて餌を貰おうとしているのかもしれないが、生憎とこちらは何も持っていない。
「鯉も綺麗だし、苔とかも雰囲気あるね」
「ええ。本当に素敵なお宿で、お義父様とお義母様には感謝してもしきれませんね」
隣の美園が握った手にほんの少しだけ力を入れ、僕を見上げながら優しい視線を送ってくれている。
「ほんとにね。家に帰ったら改めで感謝の電話しないとな」
「私からも改めてお礼を言わせてくださいね」
「僕が言うより喜ぶと思うよ」
「そんな事はありませんよ」
冗談めかしつつも発言内容については本気だったのだが、優しい笑みを浮かべた顔を小さく横に振った美園の穏やかな声は、それを明確に否定した。
「お義父様もお義母様も、もちろん私のためもあったと思いますけど、一番は間違いなく智貴さんのためですよ」
鯉が作った波紋に視線を落とした美園の落ち着いた横顔は綺麗で、僕は何も言わずに次の言葉を待った。
「私を旅行に連れて行ってあげなさいと言ったのは多分、そう言えば智貴さんが断らないと思ったからですよ。お二人とも最初から智貴さんを労いたくて援助してくださったんだと思います」
「……そうかな」
美園が嘘を言うとは思わないのだが少し照れくさくてとぼけてみせると、彼女は「ええ」と優しい笑みを僕へと向ける。
「お義父様もお義母様も、智貴さんの事をとても気にかけていらっしゃいましたよ。無理をしていないか、生活費は足りているか。その他にも色々と」
「一応、成人してるんだけどな……」
金銭面ではまだ世話になっていても、それでもそんな心配をさせてしまう程だらしなくはないつもりなのだが。
少し気まずくて言葉を濁すと、美園はくすりと笑った。
「智貴さんは男の人なのでご両親も直接そういった事を尋ねなかったのかもしれませんけど、私の両親、特に父は電話をする事があれば過剰なくらいに心配していましたね。母も、『親にとったら子どもはいくつになっても子どもだから』と言っていましたし、そういうものなんじゃないでしょうか?」
「……そっか」
「ええ」
自分が気付けなかった両親の意図を美園がしっかりと理解してくれていた事が嬉しく、そして少し悔しい。
美園と付き合って、成人して、将来を見据えて。自分が前に進んでいると思っていたし、多分それは間違っていない。ただやはり、まだまだなのだ。
「たくさん楽しみましょうね。それが一番の恩返しですよ」
「うん、ありがとう」
感謝を告げた勢いそのままに美園の唇を奪うと、彼女は閉じる事を忘れた目を丸くし、頬を染めて辺りを見渡した。
「楽しむためには美園の協力が不可欠だから、まず一つありがとう」
「もうっ! そういう事じゃ……いえ、そういう事も大事ですけど……もうっ」
膨らませた頬から空気を抜き、「仕方ありませんね」と優しいため息をつき、美園はそっと踵をあげた。今度は目を閉じる事を忘れずに。
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