幸せとは

「中々イケる口だね」


 背の低いグラスに少量注がれた琥珀色の液体を半分ほど飲み下し、「美味しいです」と口にすると向かいのソファーに座ったお父さんは嬉しそうに笑い、自分のグラスを傾けた。

 去年通してもらった応接とはまた別の部屋。客人と酒を嗜む用途に使うらしく、棚には様々なグラスや酒類が収納されている。


「友人に鍛えられまして」


 ウイスキーを飲ませてくれたのは香だ。飲まされたと言った方が正しいかもしれないが、「ウイスキーはストレートが基本」と通ぶっていた彼女のおかげで今こうやって度数の高さにも負けずに飲めている。

 まあ、最初は口の中が灼けるかと思ったものだし、お父さんが用意してくれたようなチェイサーを香は教えてくれなかったのだが。


「今の大学生はウイスキーをよく飲むのかな?」

「缶売りのハイボールの類はともかく、飲み会に瓶で持って来るのは僕の周りではそいつ一人だけでした」

「まあ流石にそうだろうな」


 苦笑するお父さんにそれが女子大生だと教えたらどんな顔をするだろうか。しかも美園も慕っている相手だ。流石に言わないが。


「正直なところを言えば、その友人に飲ませてもらってはいましたが、自分で買って飲もうとは思っていませんでした。でも今日ごちそうになって、いつか自分でもと思ってしまいますね」

「そう思ってくれたなら嬉しい事だ」


 笑うお父さんの前でもう一口、少しとろみのある酒を口に含んで舌の上で少し転がして鼻に香りを通す。教えてもらった時は気取った飲み方だと思ったが、恐らく高級であろうウイスキーを味覚と嗅覚で存分に楽しめるのだと認識する。

 僕は元々、酒は場の雰囲気の方を楽しむタイプだったが、味の方にも目覚めそうである。美園と一緒に楽しめないのが残念だが、いつか父さんに贈ったら喜ぶだろうか。


「友人に飲ませてもらった物とは違いますね。慣れてない僕でもとても美味しい事がわかります」

「そうか」


 口内の感覚を保つためにチェイサーまでを飲み、素直な感想を伝えるとお父さんは嬉しそうに笑った。


「贅沢を教えてしまったかな?」

「そうかもしれません」


 苦笑に苦笑で応じると、お父さんは立ち上がり棚から別のグラスを取り出した。


「次はストレート以外の飲み方でどうかな? トゥワイスアップも中々だぞ」

「是非お願いします」



「本当に、いいウイスキーは全然違うんですね」


 香に飲ませてもらった物も美味いとは思ったが、やはり違う。水割り、ロックと試させてもらい明確にそれがわかる。


「そうだな。原材料の質なども違うだろうし、何より熟成年数が変わってくる」


 今はロックを飲んでいるお父さんがグラスを傾け、氷がカランと音を立てた。


「とは言ってもな、値の張る物が必ず美味い訳ではないぞ?」

「そうなんですか?」

「もちろん美味い傾向にある事は否定しないが、合う合わないがあるからな。それにウイスキーの価格には希少価値に影響される面も大きい。熟成期間の長い物は場所やアルコールの揮発のせいで必然数も減るからな。ヴィンテージに近いものがある」


 なるほど。そう言われると納得する。


「十倍の価格が十倍の幸せを与えてくれる訳ではないという事だ。もちろん反対に二十倍の幸せを得らえるケースもあるのだろうがね」

「勉強になります」


 お父さんは「そう畏まらなくてもいい」と言って笑い、ロックグラスを口へと運んだ。


「特に君たちくらいの年齢ならば、十倍の価格の酒を一本買うよりは通常の物を十本買う方が楽しめるのではないかな?」

「それは、確かにそうですね」


 金を貯めるか出し合うかして高級ウイスキーを買ったとして、学生の身分では多分一度きりだろう。美味かったなと、そんな事を言って次からは普段買っているような物を買うと思う。


「だがね、一度くらいは良い物を知っておく……いかんな。歳をとるとどうしても話が回りくどくなる」

「……どういう事でしょうか?」


 話を切ったお父さんが自嘲気味に笑い、またもグラスと氷で音を鳴らした。


「最初に謝っておくが少し下世話で、説教じみた話になる。済まないね」

「いえ、僕は気にしませんが……」

「ありがとう。まあ簡単に言ってしまえば金の話だ。基本的に良い物というのは世間で価値を認められる事が多く、価格も高い」

「はい」

「金で幸せは買えるかというのはよく聞く話題だが、買える幸せもあるというのが私の考えだ。美味い酒、美味い料理、たとえばだがね」

「おっしゃる通りだと思います」

「逆を言えば不幸や苦労などもある程度は防ぐ事ができる」


 何となく、お父さんの言いたい事が見えてきた気がする。


「娘には、娘たちには幸せになってほしいと思っている。金銭で得られるものもそうでないものも、多くの幸せを得てほしい。私だけでなくもちろん妻も同じ思いだ。要らぬ苦労もしてほしくない」

「はい」

「これは親としてのエゴだと思ってくれていい。私の考えるあの子の幸せと、美園の考える美園自身の幸せは当然違うだろう。それでもだ」

「わかります。僕が言うのもおこがましい話ですが」

「いや、ありがとう。具体的な事を言わずにわかってくれて助かるよ」


 お父さんはそう言ってウイスキーを呷る。僕も同じように一口、冷たい琥珀色の液体を飲み下した。


「僕はまだ学生です。就職活動すら本格的には始まっていません」

「ああ、済まない――」

「いえ。ありがとうございます。まだまだ一人前にはほど遠いですが、大人として扱っていただいたものと思っています」


 僕と美園が学生の内に終わるような関係だと考えているのならば、こんな話を聞かせる必要が無い。

 少なくとも僕が思っていた以上に認められていた。誇らしく、嬉しい。


「先の事ですし、僕一人で決められる事ではありません。ですが、来年まず一つ必ず結果を出します」

「ああ、楽しみにしている」

「ありがとうございます」


 ふっと笑んだお父さんに僕は頭を下げる。


「つきましてはその折には、恐縮ですが、美園さんとの将来についてお話する権利をください」


 正面から視線を逸らさず、アルコールで少し赤らんだ精悍な顔を見つめた。僅かに面食らったように目を丸くしたお父さんは、グラスに残っていたウイスキーを全て飲み干した。


「……覚悟はしておこう」


 上質なウイスキーを飲んだとは思えないほどに顔をしかめ、そう言って僕から視線を逸らした。


「ありがとうございます」


 もう一度頭を下げ、僕もグラスの中身を空にした。非常に美味で、多分僕はそれを示す顔をしていただろう。

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