記念日

「はぐれてしまっても困るので、手を繋いで歩きましょう」


 バスを降りて駅前の混雑を見た美園が、僅かに首を傾けながら少しいたずらっぽく微笑んだ。


「ああ」

「本当は去年もこうしたかったんですよ?」


 僕が差し出したを取った美園が、拗ねたような顔を作ってみせる。


「そうは言っても、あの頃は付き合ってなかったし。僕が付き合ってない子と手を繋げるような奴じゃないのは美園が一番知ってるだろ?」

「お付き合いをする前にも手を繋いでもらった記憶がありますけど?」

「確かに……よくそんな事できたよな、僕のくせに」


 変われば変わるものだと思う。異性と手を繋ぐ事など考えられなかった自分が、大勢の人で溢れる連休中の駅前で、この場の誰よりも視線を集める恋人と手を繋いで歩いている。


「智貴さん」

「うん」


 感慨にふけっていると、嬉しそうに僕の名前を呼んだ美園が、繋いだ手の指を少し動かした。それを合図に互いに少しだけ手も位置をずらし、指を絡める。


「行こうか」

「はい」


 去年緊張しながら歩いた道を、今年は幸せの中で歩く。


「気が早いですけど、来年も一緒に来たいです」

「うん。その先も、ずっと同じ店に来るのは無理かもしれないけど。初デート記念日って事で、美園とこうやって過ごしたいと思うよ」

「初デート記念日。いいですね」


 隣を歩く美園がやわらかく笑いながら僕を見上げる。


「全部を祝える訳じゃないけど、記念日とか思い出とか、増やしていこう」

「365日、全部が記念日になっちゃいますよ?」

「それも悪くないかな。毎日が美園が可愛い記念日という事で」

「もうっ」


 頬を染めながらも口を尖らせた美園が、繋いだ手を軽くつねり、そして少し自慢げに微笑んだ。


「でも、私の中ではもう色んな記念日がありますよ?」

「たとえば? 聞いてもいい?」

「はい。たとえば、智貴さんが初めて私を可愛いと言ってくれた記念日。いつだかわかりますか?」


 上目遣いで少しはにかみながら尋ねられるが、これは難問だと思う。美園の事はずっと可愛いと思っていた。外見だけならそれこそ一目見た時から。内面に関しても初めて話した新歓の日から、ずっとだ。


「正解は5月5日です」

「今日じゃないか」

「はいっ」


 ふふっと笑って正解を発表してくれた美園が、「覚えていなかったんですね」とわざと頬を膨らませた。


「美園がいつでも可愛いから悪いんだよ」

「ありがとうございます。それじゃあ問題を変えて別の記念日を――」

「あ、目的地に着いたよ」

「誤魔化しましたね」


 小悪魔の笑みを浮かべて美園の問いを遮ると、彼女はむーっと不満げな表情を浮かべた。

 しかし実際にレストランのあるホテルに着いたのは事実なのだから仕方ない。エントランスを通り、美園の手を引いてエレベーターを目指す。


「でも女の子ってやっぱり記念日とか好きなんだね」


 初デート記念日と言い出したのはこちらだが、まさか初めて可愛いと言った日を美園が覚えてくれているとは思いもしなかった。

 自分や彼女持ちの友人を思い出してみても、せいぜい誕生日やクリスマスなどのイベント事に加え、付き合った日を起点にした記念日を意識するくらいだったと思う。


「そうですね。お友達と話していても、記念日を大切にする子が多いみたいです」

「志保なんかも?」

「しーちゃんが怒るので内緒です」


 一人が思い浮かんだので尋ねてみると、美園は僕の反応を予想していたかのようにくすりと笑い、唇の前で人差し指を立てた。

 答えを言ったようなものだが、対外的には聞かなかった事にしておこうと思う。


「大切な人が言ってくれた、大切で特別な言葉ですから。だからきっと、その日まるごとが大切で幸せな日になるんだと思います」


 僕が押したエレベーターのボタンを見ながら、美園が優しい笑みを浮かべた。


「だから、私の記念日を智貴さんがわからないのは当たり前なんです。でも、今日が私にとって、とっても大切な日だって事、伝えておきたかったんです」

「ありがとう、美園」


 僅かに頬に朱の差した美園が、僕を見上げて照れたように微笑む。

 きっと全く同じ感覚を持つ事はできないと思う。それでも――


「美園にとって大切な日なら、僕にとってもそうなるよ。だから、色んな記念日を教えてほしい」

「はいっ。ありがとうございます。たくさんありますから、覚悟しておいてくださいね」

「ああ」

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