三つ目の贈り物

「おはようございます。智貴さん」

「おはよう、美園」


 同棲開始から7日目、一緒に迎える四回目――美園の一時帰宅があった為――の朝の6時、腕の中の彼女が穏やかな微笑みを向けてくれる。

 僕の起床時間は本来もう30分後だが、春休み中は美園に合わせている。「悪いですよ」と彼女は言うのだが、僕が本来の時間まで寝ていては腕の中にいる美園がベッドから起き上がれなくなる。

 美園を一晩抱きしめたまま朝を迎えて一緒の時間に起きるか、美園を抱きしめる事を諦めて睡眠時間を30分増やすかの選択肢は、実質一択と言わざるを得ない。


「温かいです」


 微笑みを湛えたままの美園は僕に抱きつきながら、ピタリと足を触れ合わせ、そっとすりすりと動かした。男女差なのだろう、僕より少し冷たい彼女の足が丁度良い気持ち良さを与えてくれる。


 最初の朝は僕から足を触れあわせた。「冷えちゃいますよ?」と言っていた美園だが、僕としては二人の熱量が混ざっていくようで、幸せで仕方なかった。

 それを伝えると、「またそういう事を言うんですから」と口を尖らせた美園だが、頬には僅かに朱が差していた事をしっかりと覚えている。そして次の日以降は、こうして美園の方から足をすりすりとしてくれているので、僕の幸せは更に増えた。


「温かくなったら出来なくなっちゃいますね」

「そうなったら美園が薄着になるから別の幸せが貰えるよ」

「もうっ」


 そのまま僕の胸に顔を埋めてしまった美園の髪をそっと撫でた。寝起きで少し乱れた彼女の綺麗な髪を手櫛で梳きながら、その流れで柔らかな頬に触れる。それが合図だ。


 ゆっくりと顔を持ち上げた美園が、僕の目を見てはにかみ、その大きな瞳にまぶたで蓋をし、僕の背にそのしなやかな指を這わせた。

 そして僕は、美園の柔らかな唇にそっと触れるだけの口付けを落とした。


「おはよう、美園」

「おはようございます。智貴さん」


 一緒に寝て、朝になったらおはようと笑い合い、キスをして、お互いに抱擁を交わす。美園のお願いの中で、朝食の前に二つ加わった形になる。

 どちらから言い出した事でもなく、たった数日の中で自然と生まれた不文の約束。お互いが同じ事を望んでいるという幸せの証だ。


「春休みが終わるの怖いなぁ」


 しみじみと呟いた僕の言葉に、美園は眉尻こそ少し下げていたが、なんとも嬉しそうにふふふと笑っていた。



 同棲七日目の今日は2月の真ん中、14日。美園は一緒に朝食を食べて少ししてから出かけている。キスをして送り出した彼女が向かったのは自分の部屋。夕食からは僕も招かれている為、こうして一週間ぶりの美園の家への道を歩いている。

 美園は何も言わなかったし、僕も敢えて聞きはしなかったが、チョコレートを作ってくれている事は明白だった。


 本当は夕食の買い物くらいは手伝いたかったんだけどなと内心思っているのだが、美園にやんわりと断られた。「今日は私がおもてなしする日です」だそうだ。

 同棲生活ではルールと大まかな役割を決めているため、美園としては僕の世話を焼く機会を常に窺っているらしい。

 だから今日は美園の言葉通り、彼女のしたいように僕をもてなしてもらうつもりで来ているし、当然非常に楽しみにしている。


 そんな期待が歩を進めたのか、美園の家に辿り着くまでにかかった時間はいつもよりも少なく感じた。オートロックの玄関を開けてもらい、204号室まで歩いて行くと部屋の少し前でドアがゆっくりと開いた。


「いらっしゃいませ。智貴さん」

「こんばんは、美園」


 ドアから顔を出した美園が顔を輝かせて迎えてくれる。少し不用心だなと思ったが、オートロックで、しかも僕が来ていたのでなければこんな事はしないだろうし、何より数時間ぶりの美園が可愛かったので口に出すのは止めた。



 おもてなしすると言ってくれた美園の料理は僕の期待を裏切らず、予想を裏切って美味しかった。

こういった特別な日には得意な洋食系の料理を出してくれるのだが、稀に行くレストランよりも正直美味い。もちろんそれは美園が僕の好みに合わせて作ってくれているからなのだが、感情論や補正抜きにして美味いものは美味いのだ。


「ごちそう様。凄く美味しかったよ、ありがとう」


 食事中から何度目になろうかという言葉を伝えると、優しく微笑んでいた美園がそこから少し顔を綻ばせた。


「お粗末様です。と言いたいところですけど、まだ早いですよ。今日のメインが残っていますから」


 そう言えばそうだったなと、すっかり満足していた自分に苦笑していると、「ご用意しますね」と席を立った美園が、皿を一枚、フォークとセットで僕の前に出してくれた。


「フォンダンショコラです。甘さは抑えめで作ってあります」

「おお」


 思わず感嘆の声を出してしまった僕を、隣に座った美園が口元を抑えながら見つめている。少し気恥ずかしい。


 白い皿の上には、少しだけ粉砂糖がまぶされたフォンダンショコラ。その周りにはチョコレートソースで花の模様があしらわれている。葉っぱの部分で控えめにハート型を表しているのも何だか嬉しくてくすぐったい。


「食べる前に写真撮るよ」


 正直食べ物の写真を撮る女性の気持ちは――美園がそれをしないので余計に――理解できなかったが、これは残しておきたいと思った。美園は少し恥ずかしそうに「また作りますよ?」と言ってくれたが、それとこれは別の話だと説得して写真に収めた。


「それじゃ……そう言えば美園の分は?」

「私は味見もしましたし……これ以外にも。なのでこれ以上は太っちゃいます」

「いやー」

「普段一緒にいるのがしーちゃんですから。私より身長が10センチ近く高いのに、体重はあんまり変わらないんですよ。不公平ですよね」


 それは胸の分ではないだろうか、と一瞬思いはしたが流石にそこまでの差は出ないはずだ。だとしても志保が細すぎるだけで、美園だって相当細い。

 とは言え美園も体型の維持には心を砕いている――風呂上りに変な体操をしているのを知っている――ようだが、特にダイエットをしようという訳では無さそうなので、この話にこれ以上突っ込むことは止めておく。


「それじゃ、いただきます」

「はい。召し上がってください」


 ニコリと笑う美園に頷いてフォークを入れると、中からチョコレートがトロリと溶け出してくる。

 まずは一口、外側の部分だけを味合わせてもらうが、温かい。言われた通り甘さが控えめで美味い。


 次に溶けたチョコレートを付けて食べたのだが、流石にそちらは甘かった。だと言うのに、一口目より美味い。甘くはあるのだが、まるでしつこくなく、むしろ何故かしっくりくる。

 甘さ控えめが好きな僕ではあるが、別に甘い物は嫌いではないし、甘過ぎなければ美味しくいただけるのだが、それにしてもこれは別格だ。もう一口食べてもやはり美味い。


「凄いな……」

「リサーチの甲斐がありました」


 隣の美園が少し自慢げに笑っているのを見て、なるほどと思う。普通の料理と同じで、完全に舌の好みを把握されている。僕自身でさえ無自覚な部分だと言うのに、本当に凄い。


「本当に美味しいよ」

「ありがとうございます」

「はい。美園も」


 微笑む美園に一口分を差し出したが、何故か彼女は少し困った様子を見せ、フォークの先のフォンダンショコラと僕の顔を交互に見つめた。


「一口くらいならいいんじゃない?」

「えっと……」


 体型の事かと思ったがどうも違うらしい。何度もしている「はいあーん」が今更恥ずかしい訳でもないだろうし、何が美園を迷わせているのだろう。


「凄く嬉しいんですけど、フォンダンショコラもケーキですから」

「うん?」

「食べさせてもらうのは、少し先に取っておきたいんです」

「どういう事?」


 恥ずかしそうに頬を朱に染める美園は、そんな僕の疑問にくすりと笑った。


「その時わかってくれればいいんです。楽しみにしていますから」



「これも、良ければ明日のお勉強の合間にでも食べてください」


 そう言って渡されたのは綺麗にラッピングされた薄いピンク色の箱。中身は当然チョコレートだろう。


「ありがとう。フォンダンショコラだけじゃなくて、もう一つあるなんて思ってなかったよ」


 お返しのし甲斐があるなと思っていると、美園が「実は」と切り出した。


「もう一つじゃないんです」

「ん?」


 視線を貰った箱から美園へと移すと、彼女が持っていたのは握りこぶしより二回り程小さな平たいチョコレート。ハートの形をしている。

 くれるのかと思っていると、美園は「真ん中で割らないでくださいね」と恥ずかしそうに笑い、それをおもむろに口にくわえた。

 そして目を瞑り、僕の方へと赤く染まった顔を向けた。


 その意図はわかる。

 キスをした回数だって百ではきかない。千にだって届くのではないかと思う。

 それでも、あまりの意外さで反応が出来ない。


「ほへひゃいまふ」


 ぱちりと開かれた目は潤んでいて、朱に染まった頬との相性が抜群の破壊力を生み出している。


「ええと。いただきます?」


 肩に手を置くと、美園は再びその大きな目を閉じ、少しだけ顔を上向かせて僕を待ってくれる。

 そっと顔を寄せ、感じるのは僅かなチョコレートの香りと、それ以上に甘い美園の香り。


 触れたチョコレートの端を口に含み、真ん中で割らないでという美園の要望通り、そのまま中央を超えていく。距離が縮まって来るのがわかるのか、彼女の唇にほんの少し力が入ったのが伝わり、愛おしい。

 あと少しで美園の唇に届く所で動きを止め、彼女の髪に触れながら再始動。髪を撫でると、今度は僅かに唇の力が弱まり、隙間から「んっ」と吐息が漏れた。

 そしてそのまま唇を重ねたところで、チョコレートに歯を立てて唇を離した。


「ごちそう様?」

「……お粗末様でした」


 照れ隠しで疑問形にした僕に、ゆっくりとまぶたを開けた美園が、熱を帯びた顔のままに応じてくれた。


「美味しかったよ」

「もうっ」


 素直な感想を伝えると、美園からはぺちんと軽く叩かれてしまった。自分からした事なのになあと苦笑しそうになるのを抑えるが、そんな様子も可愛くて仕方がない。

 そんな可愛い美園を見ていると、気付いた事があり、そしていたずら心が首をもたげる。


「美園。唇にちょっと残ってる」

「え!? やっぱりちょっと溶けちゃいましたね」


 そう言ってテーブルの上のティッシュに手を伸ばした美園の手を、僕が掴んだ。


「えっと……?」

「何するかわかるだろ?」

「……はい。お手柔らかに、お願いしますね」

「保証出来かねる」


 笑いながらそう言うと、「優しくしてくれるのは分かっていますから」と穏やかに微笑み、美園はまたも瞳を閉じた。

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