おまけ
疲れ果てた彼氏に添い寝する彼女のお話
一瞬、恐らくまた一瞬意識が飛んだ。
11月21日午前5時。美園は恋人である智貴の家でシャワーを浴びていた。
色々な事があった文化祭、思い出すだけで今でも表情筋がだらしなく弛緩する。そんな文化祭も10時間程前にはフィナーレを迎え、つい30分程前に片付けまでが終わった。
ただし、ステージのバラシが残っている男子チームは、美園が帰る頃もまだ作業中だった。先輩から聞いた話では少し作業に遅れが出ていたらしい。
『僕の方はまだかかるので先に帰って休んでいて。僕の分の食事を作ろうなんて考えない事。とにかく休むように。くれぐれも休むように』
作業の邪魔になる――智貴にとっては邪魔になどなるはずは無いが――ので話しかけにも行けなかった美園に、智貴からのメッセージが届いた。
あまりの念の押しように、美園は苦笑するとともに、自分を完全に理解してくれている恋人への想いで、こんな小さな事にすら何とも言えない幸せを感じた。
そしてその智貴の言葉に従い、美園は休息をとる前にシャワーを浴びていた訳だが、その最中にこうやって何度も意識が飛んでいた。
「さっきまでは大丈夫だったのに……」
美園本人は無自覚だが、志保と一緒にアパートに着いた時までは、高揚感と達成感が疲労を上回っていた。嬉しい事と楽しい事が大きすぎて誤魔化せてはいたが、美園はすでに24時間以上連続で起きていて、その内15時間以上実行委員の仕事をしていたのだ。徹夜すら初めての彼女は、恋人の部屋に着いた事で自身を支えてくれていた糸が切れた状態になっていた。
そんな状態を押してなんとかシャワーを浴び終え、髪を乾かして最低限のスキンケアを済ませると、もうどうしようもなく限界で、ギリギリ辿り着いたベッドで美園の意識は途絶えた。
◇
美園は自身の髪に触れる優しい手で目を覚ました。最初は何て幸せな夢だろうと思った。
そして夢ではないと気付いた時、それが誰の手か、鈍った意識でもすぐに分かり、あの時の屋上での続き、また二人の幸せな時間がやって来たと、そう思った。
「ともたかさん……」
目も開かないままに呟いた言葉で、しかしその優しい手がスッと離れた。
「ぃゃ」
触れられていた部分が途端に寒くなる。
手を離さないでほしい。もっと触れてほしい。
「ごめん」
遠くで囁くように発された大好きな恋人の声に、今度こそ美園はしっかりと目を開いた。謝ってもらうような事は何一つ無い。それどころか――
「起こしてご――」
「もっと、してください」
目を開けた先にいた智貴は、申し訳なさそうな顔をして笑った。その彼の謝罪を、美園はこれ以上聞きたくなかった。
「ああ」
最初目を見開いた智貴だったが、優しく笑って頷くと、それ以上に優しい手つきで美園の髪に触れ、そっと撫でた。
「しあわせ」
ベッドの横に座りながら髪を撫でてくれる智貴を見つめていると、ふとそんな言葉が口をついた。それを聞いた智貴はふっと笑うと、ベッドに手をついて美園の頬に口付けをした。
嬉しく幸せではあったが、唇にしてほしかった。そんな自分の思考に気付いたところで、美園はようやく智貴が自分以上に疲れているであろう事に思い至った。
「ごめんなさい。お疲れですよね。ベッドに入ってください」
慌てて起き上がると、智貴は何故か曖昧な表情を浮かべている。何故だろうと、彼の視線の先にいる自分を確認して、美園は顔を赤くした。
「ごめんなさい……」
ベッドのど真ん中にいた自分の体を壁側にずらし、美園は消え入りそうな調子で頭を下げた。
◇
「
先程まで美園が独占していた布団に潜り、智貴の発した第一声がそれだった。
カーテンの外はもう完全に明るく、時間を確認すると現在時刻はもうすでに1コマに向かう学生達が登校している頃で、シャワーを浴びる時間があったとは言え、智貴達の作業が大きく長引いた事を示していた。
「お疲れ様でした。智貴さん」
「うん。ありがとう」
片手の指を絡めたまま向かい合って寝そべり、智貴から美園へ、美園から智貴へ、まずは2回、口付けを交わした。
体と精神の疲労を、恋人から与えられる高揚が上書きしていく。そんな感覚を美園は確かに覚えた。
「美園。可愛い。綺麗だ。好きだ。愛してる」
「智貴さん。好きで――ん」
真剣な顔をした智貴が、絡めた指を離して美園を抱きしめ、愛を囁き返すのを待たずに、少し長い3回目。
「もう。私にも言わせてください」
「うん。聞かせて」
智貴が美園を抱きしめる腕は緩まず、二人の距離は唇以外ゼロ。優しく微笑む最愛の恋人に「好きです。愛しています」と伝え、美園から4回目。智貴に抱きしめられたままの美園が、唇は離さず彼の頬に手を添えると、指先に感じるのは僅かにザラリとした感触。
「あ。ごめん」
触れられた智貴も当然分かったのだろう、彼が顔を離して4回目はそこで終了。
美園は顔には出さなかったつもりだが、内心とても驚いていた。彼女の恋人である牧村智貴は、だらしないという言葉から縁遠い人間である。家事を溜める事は無く、家の中は常に整理され、身形も必ず清潔に保つ。髭の伸びた彼――それでも薄い方である――を見る事が出来るのは一緒に寝た次の朝だけ。
その智貴に、美園が知る限り一度も無かった髭の剃り残しがあった。それはつまり、彼の疲労が尋常でない事の証明だった。
「剃って来る」
「待ってください」
美園の背中から腕を離し、起き上がろうとした智貴の頭に手で触れ、美園は彼を胸元に少し強引に抱き寄せた。
「ゆっくり休んでください」
腕の力を少し抜き、胸元でそっと抱いた愛しい人の髪を梳くと、先程してもらった時とはまた違う幸福感が美園の胸を満たす。
唇を触れあわせた時に感じる物とも違う。母性が少しある事も否定できないのだろうが、大好きな恋人が自分にその身を委ねてくれた、その感覚は言葉では上手く表せなかった。
「う、ん……。あり、が……」
自分の胸の中で静かに眠りに落ちた恋人の髪を、起こさないように優しく撫でると、眠っている智貴の頬が少し緩んだような気がした。
「みその……」
何度も何度も寝言で呼んでくれる智貴に、その都度「はい」とほんの小さな声で応じ、髪と背中を優しく優しく撫で続けた。
「おやすみなさい。智貴さん」
そして何度かの繰り返しの後、そう呼びかけたところで、美園の意識も眠りに落ちて行った。きっと幸せな夢を見るだろう、眠りに就く前に思ったのはそんな事だった。
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