第114話 試合に負けて勝負に勝つ
「それじゃあ、行ってくるよ。ありがとう」
「お気遣いありがとうございます。行ってきますね」
二人のスタジャンを預け、軽く手を挙げた僕の横で、美園がきっちりと綺麗なお辞儀をした。
2ステのテントを任せる事になる香は「楽しんできてねー」とひらひらと手を振って送り出してくれた。
僕も美園も一度ずつ案内所に配置される時間があったが、それ以外は昼過ぎの現在までずっと2ステのテントに詰めていた。夕方前には戻るが、これからしばらくは二人の時間としてもらっている。
「どこから回ろうか。昨日と一昨日はどの辺りを見に行った?」
「ほとんどが第1ステージでした。あとはお昼に模擬店を少し回ったくらいでしょうか」
「じゃあ、まずは近場の棟内からぶらつこうか」
2ステが設置されている広場から出た辺りで、そう提案して美園の手を取ると、「はいっ」と嬉しそうに頷いた彼女と、そのまま指を絡めた。
「と言ったのはいいんだけど、他のとこでどんな事やってるのかあんまり把握してないんだよね。パンフレットは目を通したんだけど、恥ずかしい話、全然頭に入って来なかった」
「お疲れですから、仕方ありませんよ」
白地に黒い筆字のロゴが印刷された表紙の、A4サイズ50ページのパンフレットを振って見せると、美園はふふっと笑った。作業の時はまとめていた髪を今は下ろしている為、少しだけ毛先が揺れた。
「棟内はそれ程広くありませんから、教室内を覗きながら歩きませんか?」
「うん、そうしようか」
ありがたい提案に頷いて見せて共通A棟に入ると、失念していたが入ってすぐのロビーには、棟内イベント担当の机がある。現在2年生と1年生が一人ずつ、計二人の女子がこちらを見てニヤニヤとしている。知り合いが恋人繋ぎで目の前に現れたらそんな表情にもなるだろう。
しかし美園は特に気にした様子も無いし、ここで慌てて手を離したら、彼女達の存在を忘れていたと言っているに等しい。そして何より僕自身が手を離したくなかった。
「お疲れ様。ちょっと棟内見せてもらうから」
「お疲れ様です」
今回は手を繋いだままなので、美園も会釈のみにとどめたが、その会釈もまた綺麗で何度でも惚れ直せる。
「はいはーい。楽しんでってね」
愉快そうに笑う二人に後ろ手で手を振り、僕と美園は共通A棟の1階を歩いて行く。
廊下の片側の教室は美術部、写真部、書道部、映画研究会。
「映画か」
「上映時間が合わないですね。残念です」
教室の入り口に貼られた上映時間表では、今の上映が始まって10分程度で、次の始まりは30分以上先だ。美園が言葉通り少し残念そうに笑うが、僕は興味こそあったものの多分寝てしまう。暗幕の張られた教室の扉を見て、流石にそれは失礼だよなと、時間が合わなかった事に感謝した。
「書道体験できるらしいけど、美園どう?」
映研の隣の教室を指差して、美園の字が見たいなという気持ちを全面に押し出してみると、彼女ははにかみながら「一緒にやりませんか?」と可愛らしく首を傾けた。答えはもちろん「うん」だ。
「ようこそ書道部へ」
教室内に入ると、落ち着いた雰囲気の書道部員が出迎えてくれた。いきなり字を書かせてくれと言うのも気が引けたので、室内の展示を見せてもらう事にしたが、壁に貼られている楷書体の字はわかるものの、天井から吊るされている草書体はほとんど読めなかった。
「美園、これ読める?」
「どれですか?」
全部と言いたかったが、とりあえず近場のいくつかを尋ねてみると、美園はその全ての読みを教えてくれた。
「彼女さん、書道の経験があるんですか?」
「中学まで教室に通っていました」
少し驚いたような書道部員さんは、「それじゃあ書いていきますか?」と渡りに舟の質問をしてくれた。
「是非」と答えて案内されたスペースには畳――実行委員の貸し出し物品――が2枚用意されていて、別の書道部員が筆と墨、それから半紙の用意をしているところだった。
「字はお好きな物をどうぞ。彼氏さんの方はお薦めの字のリストから選びますか?」
「ええと、ちょっと考えます」
経験者という事で何の心配もされていない美園に視線をやれば、ニコリと笑いながらも、「私は大好きな字を書きます」とだけしか言ってくれなかった。
一応リストを見ながら考えていると、「それでは靴を脱いでこちらへどうぞ」と畳の上へと招かれた。一緒に畳へと上がった美園をちらりと窺うと、正座の姿勢が惚れ惚れする程凛として美しく、絵になる。
何の字を書くのだろうと、美園の手元を見ていると、彼女の手が力強く、それでいて柔らかに動いていく。そして上半分が分った時、顔の熱くなった僕が書くべき文字も決まった。
◇
「やっぱり書道部から見ても美園の字は上手いんだな」
「私なんてまだまだですよ。書道部の方達の方がずっとお上手ですよ」
字を書き終えた美園が1年生だとわかると、「今からでも是非」と入部を勧められた。その場で丁寧に断った美園だったが、「気が変わったら来てね」と言われてまんざらでもなさそうにしていた。
「僕は美園の字の方が好きだけどな」
読みやすくて綺麗な字。写真に残した毛筆は、美園の手から生み出された物に相応しい、品のある整った字だ。
「ありがとうございます。智貴さんにそう言ってもらえるだけで十分です」
美園は穏やかに微笑みながら僕のスマホに視線を落とす。そこには書道部員に撮影してもらった二人の、各々が自分の書いた字を持って並んだ写真が収められている。
美園が持つのは「智」の字、僕が持っているのは「美」、僕達の名前が知られていないから出来た事だが、美園も中々大胆な字を選んだと思う。しかも「大好きな字」と言い切って書いたのだから。
「美園の字を持って帰りたかったな」
僕の書いた「美」の文字は写真撮影の後で、
「実家から書道セットを送ってもらおうかと思っていますので、リクエストにお応えしますよ?」
「勧誘された時も思ったけど、書道部入るの?」
「いえ。ただ少し書きたくなっただけです」
「褒められて嬉しそうだったから、もしかしたらって思ったんだけど」
「智貴さんが褒めてくれたからですよ」
「うん?」
一瞬恥ずかしそうに俯いた美園は、顔を上げて穏やかに微笑む。
「智貴さんが好きだと言ってくれた私の字が、誰かに褒められる事が嬉しいんです」
「そっか。じゃあせっかくだから、今度何かリクエストさせてもらおうかな」
「はいっ。お待ちしていますね」
満面の笑みとともに、繋いだ手にきゅっと力が込められた。
◇
「3階は研究発表が多いですね」
地学研究会、国際文化研究会、ボランティアサークル、そして隅の教室に昆虫研究会。
「虫見に行く?」
「智貴さんが見たいのなら……」
奥の教室を指差すと、僅かに声を震わせ、歩幅が極端に狭くなった美園が、握った手にこれでもかと力を入れてくる。本人は無意識だろうが、こんな反応も可愛くてもっと意地悪をしたくなるが、流石にすぐにネタバラシをした。
「ごめん。冗談だよ」
ホッとしたように息を吐いた後、美園は潤んだ目で僕を見上げながら「もうっ」と頬を膨らませて見せた。なのでその頬に軽く口付けた。
「廊下には誰もいないよ」
赤い顔で首を振って周囲を見回す美園にそう伝えると、「うぅー」と恨めし気な視線を向けて来る彼女が、ぷいっとそっぽを向いてそのまま階段へと歩いて行ってしまった。
「ごめんごめん。待ってよ美園」
後ろから声をかけると、4階への階段を一段上った所で、美園はぴたりと立ち止まってくれた。後姿でもわかるが、美園は別に怒っていない。あるのは驚きと恥ずかしさだと思う。
「捕まえ――」
その細い肩に手をかけようとした瞬間、振り返った美園にそのまま唇を奪われた。
「お返しです」
いたずらっぽく笑う美園を前にし、今度は僕が周囲をキョロキョロと見回す番だった。
「次はどこに行きましょうか?」
少し赤い顔で勝ち誇ったように笑う美園は、首を僅かに傾けて僕にそう問う。
美園の恥ずかしがる顔が見たくて仕掛けた小さないたずらだったが、彼女からの「お返し」で僕の負けが決まった。
しかしよくよく考えてみると、キスをしてもらった僕の勝ちではないだろうか。そんなバカな事を考え終え、僕はようやく美園からの質問に頭を回し始めた。
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