第96話 1ヶ月前の夜に

「緊張するー」

「うん。頑張ろうね」


 共通B棟4階、人文学部の大講堂を除けば学内最大の教室であるここで、もうすぐ文化祭の出展団体への説明会が始まる。このB棟は2本の階段に挟まれるように、ワンフロアぶち抜きの教室がある為に広さが確保できており、教室のドアは通常のように側面ではなく前後の階段に続くように存在している。

 そんな共通B棟の前側の階段で、後輩の二人は緊張の面持ちでこれからの段取りを確認しており、先輩である僕と香はその様子を見守っていた。


「準備良さそう?」

「はい」


 二人の確認が終わったタイミングで香が声をかけると、今日壇上に立つ予定の美園がやはりまだ固い顔で頷いた。


「大丈夫だって。事前の話し合いも上手くいってるし、今日の資料と段取りも問題無いよ」

「はい。ありがとうございます」


 安心させるように微笑んだ香に同じく笑顔で返す美園だが、僕から見ればまだ緊張が残っているのはわかる。

 とは言え緊張でガチガチという訳ではないし、程良い緊張感ではないかと思う。美園はこう見えて意外と強いので、難なくこなしてくれると信じている。僕がすべきなのはほんの少しの応援だけ。


「頑張って」

「はいっ」


 髪のセットが崩れないようそっと撫でると、美園は嬉しそうに応じてくれた。


「なんかもう逆に落ち着くっすね」

「最近それわかるわ」



「事前にお配りしている物と一部同じではありますが、開始前にお配りした資料がお手元に無い方はいらっしゃいますでしょうか?」


 開会の挨拶の後、参加における注意事項の読み合わせをするべく、美園が配布資料の最終確認を行った。綺麗な声が良く通る。男の多い参加者は彼女に見惚れているような者も見受けられる。距離が遠くて指輪も見えないだろうからある意味仕方の無い事だ。


「はい。では皆さんに資料が行き渡っているようですので、注意事項の説明から行わせて頂きます」


 そう言って全体を見渡し、一拍置いてから美園は説明を開始した。恐らくこれも練習をしたのだろう、一度もつっかえる事無くスラスラと、それでいながら時々間を取って上手に浸透させていく。去年僕が話した時よりも、しっかり聞いている参加者が目に見えて多い。


「それでは注意事項に関して何かご質問がある方はいらっしゃいますか?」


 穏やかな表情で教室を見渡す美園に、また何人か惚れていないだろうかと思ってしまう。

 手は挙がらない。それ程複雑な注意事項は書いていないし、本当に聞きたい事がある参加者は個別に聞いてくる。つまり興味が無いのだ。今日の参加者のほとんどが、これに参加しなければ当日の参加で不利になるから来ているだけで、むしろ今年は真面目に聞いた人が多い分だけ去年よりマシだとさえ思う。


「では無いようですので、次に移りたいと思います。文化祭当日のスケジュールにつきましてですが、お配りした資料の2枚目をご覧ください」



「あれ、美園ちゃんだ。いらっしゃい」

「萩尾さん。こんばんは」


 説明会の後に担当四人でやって来たのは大学近くのファミレス。

 僕のバイト先なのだが今や美園の方が歓迎されている。因みに萩尾さんはリーダーで、特に美園の事を気に入っている。


「マッキーさんのバイト先すよね?」

「ああ」

「何で美園の方が仲良さそうにしてるんすか?」

「付き合い始めてからちょくちょく来てるから。で、気に入られたらしい」

「あー」


 席に案内されている途中に雄一の質問に答えたが、曖昧な笑いを浮かべている。別にリーダーも本気で僕を無視して美園を可愛がっている訳ではなく、ある種の冗談だ。ですよね?



「じゃあとりあえず飲み物用意したら乾杯といこうか」


 席に着いて注文を済ませた僕達は、香のその言葉で思い思いのドリンクを手にして再び席に着いた。席順は香と美園が隣、香の向かいに僕でその横に雄一。二人は僕と美園を隣や向かいにしようと気を遣ってくれたが、この場はセオリー通りでお願いした。


「それじゃ来週もあるにはあるけど、ひとまずは説明会お疲れ様でした」

「お疲れ様」「お疲れ様でした」「お疲れっす」

「文化祭まで後1ヶ月切ったけど、体調に注意して頑張ろう」


 乾杯の代わりに「お疲れ様」でグラスを合わせ、食事が来るまでは雑談タイムだ。繁忙時は過ぎているので、それほど待つ事もないと思う。


「そう言えば何で今日なんすか? 来週も説明会あるっすよね?」

「実際今日を乗り切れば来週はほぼ最終確認だけだからね」

「ああ、確かに今日までは大変っしたね……」

「そうですね」


 げんなりとした雄一を見て、美園も僅かに眉尻を下げてくすりと笑った。

 大枠で作っておいたステージのスケジュールを、日曜の申し込み締め切り後からブラッシュアップしていった訳だが、ほとんどの参加団体が第一希望通りではないし、第三希望までも叶えてあげられない団体も出てくる。そこで個別に連絡を取って調整をかけていったのだが、水曜の今日まで時間が無かった事もあって中々苦労した。

 特に雄一は自分の担当団体と上手く連絡が付かず、文化サークル棟まで何往復かするハメになっていたが、その甲斐あって今日の第1回説明会で参加団体には納得してもらい、スケジュールはほぼ決定した。あとは明日のサークル活動日に、今日の代表者たちが持って帰った案を、サークル内で認めてもらえれば済む。


「今回初参加なのは非公認サークルと個人だけだから、そこがやっぱりナシでって言って来る事はまずないと思う。そういうところは少人数だから今日の代表の意見が通るんじゃないかな」

「そうだね。それからもう一つ」


 僕の意見に頷いた香が立てた人差し指に、美園と雄一の視線が集まる。


「来週の説明会の後は広報との打ち合わせで忙しいから」

「広報の方に決まったスケジュールを渡すだけじゃないんですか?」


 可愛く首を傾げる美園に頷く雄一を見て、僕と香は顔を見合わせて苦笑する。


「それが違わないんだけど違うんだよねえ」

「うん。広報は次の日すぐにパンフレットの原稿作りたいから割と急いでるんだよ。11月の頭くらいには色んなとこにパンフレット配りたいからさ」

「だから説明会が終わったらすぐに正式なスケジュールを渡してあげないといけないんだけど、向こうもやる事多いからね。委員会室のパソコンで専用のフォーマットで作ってから渡すんだけど、それの順番待ちもあるし、万が一にもミスしないように何重にも確認しないとだから」


 去年は結構面倒だった。特にバンドなどは名前にこだわりがあるので表記も慎重に確認しなければならないし、そもそもタイピングが面倒だった。


「そう言う事だから、まあ簡単な打ち上げは今日やっちゃおうって事」

「なるほど。わかったっす」


 香が説明を終えたタイミングで丁度料理が運ばれて来た。

 伝票は何の確認も無く僕の前に置かれた。



「気を遣ってもらっちゃいましたね」

「うん。でもまあ順当に行ってもこうだったよ」


 香は近くのバス停から駅に向かうと言って、雄一はその彼女を送って行くと言っていた。僕達を二人にする意図もあったのだろうが、二人の帰りの方向からすればごく普通の選択とも言えた。


「そうですね。でも、今に限らずですから」

「そうだな」


 そう言って優しく微笑む美園の髪を撫でると、くすぐったそうに笑った彼女が口を尖らせた。


「智貴さんが香さん達の前でもそういう事をするからですよ?」

「ごめん、つい可愛くて」

「もうっ。そういう言葉もです」


 はははと乾いた笑いで誤魔化す事しか出来ない。サネやドクの前でもそうだが、香の前でも付き合いが長いせいなのか、ついつい惚気が出てしまう気がする。


「嫌だったらやめるよ」


 そう言って頭から手をどけると、尖らせた口はそのままに、美園の視線が少し険しくなった。


「わかっていて言っていますよね?」

「うん」

「もうっ。もう!」


 ぺちぺちと叩かれる左腕が心地良い。そして美園は叩いた部分を律儀に擦り、そのまま僕の左腕に抱きついた。


「あと1ヶ月なんですね」

「ああ」


 その声には期待だけではない、僅かに寂しさが混じっている。


「1ヶ月経っても終わりじゃないよ。僕と美園はもちろん、美園と香や他の先輩も」

「はい。ありがとうございます。素敵な文化祭にしましょうね」


 笑いながらこくりと頷いて見せると、満足げに笑った美園は、僕の腕に頭を預けた。

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