第91話 イメージ通りの彼氏

 金曜の4コマ目の授業が終わり、生協横に作られた臨時の教科書販売所に寄った時の事。少し遠くに志保を含む学科の友人らしき女の子たちと一緒にいる美園を見つけた。

 向こうも僕に気付いたので軽く手を挙げて挨拶をすると、美園は嬉しそうに顔を綻ばせた。その様子を見た友人の一人が美園の視線の先を探っていたが、プレハブの販売所付近には100に近い学生がいたので、その子の視線は僕には辿り着かなかったように見える。しかし――


「あ。マッキーさんだ」


 志保の声は聞こえなかったが、ばっちり合ってしまった目と口の動きからすれば、まず間違いなくそれに類する事を言ったはずだ。そしてその声に周囲の友人達も反応し、「誰?」というような声が上がっていると思われる。

 志保はあんな性格だがかなりの美人顔だし美園は言わずもがな。周囲の二人も結構可愛い子なので、そんな集団がきゃいきゃいはしゃいでいる姿は非常に目立つが、このまま見ていると巻き込まれる予感しかしないので、敢えて目を逸らして必要な教科書を選んでいく。途中スマホが震えたが無視。


「牧村先輩。どうして無視するんですか?」

「似てねえよ」


 合計数キログラムになる教科書の代金を払い、販売所を出たところで後ろから似ていない物真似を聞かされた。振り返るといたのは志保だけ、僕を呼びに来たという事だろうか。


「結構自信あったんですけどねえ」

「本物はもっと声に品があるし可愛い」


 口には出さないが、志保は合唱団にいるだけあってかよく通る綺麗な声をしているとは思う。比較の相手に対する判定者が悪いだけだ。


「むっ……まあいいですよ」


 僕の発言に一瞬言葉通りムッとした志保だったが、すぐにニヤケ面になったと思ったら、「だってさ」とプレハブの方へ顔を向けた。意図が分らず同じ方向を見ると、赤い顔で俯きがちの美園と、その彼女の背中を押すどこか気まずそうな二人の女の子が陰から出て来た。


「お前……ハメたな」

「勝手に自爆しただけじゃないですか」


 呆れ気味の志保は「ナチュラルに惚気ますからね」と苦笑した。


「美園、紹介してよ」

「そうそう」


 微妙な空気を払拭するかのように美園の後ろの二人が明るく声を出すと、美園は照れながら「うん」と頷いて僕の横まで歩いて来た。


「ええと。お付き合いしている牧村智貴さんです」

「理学部二年の牧村です。よろしく」


 恥ずかしそうに僕を紹介し、ちらりと上目遣いの視線を向けて来る彼女に頷いて簡単な自己紹介をすると、相手の二人も続けて返してくれた。やはり人文学部社会学科美園と同じ学科の一年生だった。歩きながらその二人を中心に会話をしていくが、美園の友人に恥ずかしいところは見せられないので僕としては頑張った。


「でも想像してたイメージとはちょっと違いますね」

「確かにね」

「因みにどんなイメージ?」

「寝てる彼女に指輪はめる人ってイメージでした」

「あー……え?」


 その言葉に一瞬納得こそしかけたものの、意味を理解して慌てて隣の美園を見ると、彼女は顔を赤くして「すみません」と小さく呟いた。


「美園、前から好きな人がいるってずっと言ってたんですけど、全然その話聞かせてくれなかったんですよ」

「なのに指輪の事聞いたら急にテンション上がって口を滑らせてくれましたよ」

「そう……」


 愉快そうに語る二人に、思わず額に手を当ててしまう。


「あの! そろそろ私、委員会室に行かないといけないから」

「残念だけど私もー」


 共通棟群の近くまで歩いて来た頃、話を遮るように美園が声を上げ、志保もニヤケ面でそれに同調した。美園も志保も今日のレジュメ発表の準備がある。


「今日は香が委員会室にいるから僕は後で合流するよ」

「はい」

「あと教科書貸して。部屋に置いとくから帰りに寄っていって」

「はい。ありがとうございます」


 理学部の僕の分程ではないが、ニコリと笑った美園から多少重い教科書の束の入った袋を受け取ると、友人達からは「優しいですねー」といった冷やかしが飛んだ。美園はそれを聞いて少しくすぐったそうではあるが何とも嬉しそうにしている。


「ほら志保もついでに。帰りに少し待たせるけど、ずっと持ったままよりマシだろ?」

「え。いいんですか? じゃあ航くん部屋にいると思うんで渡しといてください」

「了解」


 志保は「ありがとうございます」と軽く会釈をし、友人達に別れの挨拶をして共通G棟へと歩き出した。美園は同じ事をより丁寧に行い、「それではまた後で」と僕に告げて歩いて行った。


「優しいんですね。志保の分までとか」

「志保の彼氏さんとアパート一緒なんでしたっけ?」

「うん。アパート一緒だし、まあ美園の友達って事を抜きにしても僕も世話になったから」


 不本意ではあるが志保がいなければ今も美園と付き合えていなかったと思う。彼女たちは「その辺の事聞かせてください」と言うが、「美園が言わない事は僕からも言えない」と断った。


「じゃあじゃあ。美園のどこが好きなんですか?」

「これは本人からは聞けませんよね?」

「冗談抜きで割と全部」


 新しい美園が見えればそこも好きになる。今語ろうと思えば10分では足りないだろう。


「ああ……はい」

「なんかやっぱりイメージ通りだったね」

「ね?」


 ウキウキだった彼女達は半笑いになっていた。



 志保の言う通り成さんは在宅だったので教科書を渡すと、礼とともに「今日は志保ここに泊まるからな」という要らない情報をくれた。

 自分と美園の教科書をデスクに置いて、そのまま椅子に腰かける。高校までと比べて専門性が増し、需要も少ない事から大学の教科書は高い。頻繁に法令が変わるので新しい教科書が欲しい法学科――サネから聞いた――以外では、先輩から譲ってもらうというのは中々に合理的な事だと思う。


「4万か」


 かかった教科書代を呟く。僕は自分の教科書をずっと手元に置いておきたかったので、先輩から譲ってもらう事はしなかったし、譲るつもりもなかった。正直な話それが正しいのかわからない。


 53万5800円。今スマホで調べた、文科省による国立大学の年間授業料の標準だそうだ。大学や学部ごとに多少異なるらしいが、手元に資料は無い。入学前に届いた案内に記載はあったと思うが、気にも留めなかった。同じく入学金は28万2000円、こちらも正直記憶になかった。

 学費は4年で242万5200円。4万5000円の家賃×48ヶ月は216万円。先程の教科書代を始めとしたその他諸々の費用も含んだ仕送りを貰っているので、大学4年間の僕にかかる金は600万を超える。


 最近になってようやく進路を考え始めた僕に、その600万という金額の大きさは改めて突き刺さった。

 医学部は別としても、私立理系に行っていれば授業料は倍近い。文系だって私立の場合はもう少し高いらしい。

 だから国立への進学が決まった時、親戚からは「親孝行だな」と言われた。その時は特に何とも思わなかったが、果たしてそうだろうか。親に600万もの金を出させる事を、さも当然のように思って今日まで無自覚にいた僕が、そうなのだろうか。


 50歳、父さんと同じ年のサラリーマンの平均年収は600万に届かないらしい。父さんの実際の年収は知らないが、手取りで600万を上回る事はないだろう。共働きでパートに出ている母さんも合わせて、僕が4年大学に通うには二人で1年以上タダ働きをする事になる。もちろん貯蓄があるのでそう単純な話ではないが。


「凄い事だよな」


 20歳ハタチを迎え、自分は少し大人になったと思った。実際に机上の話とはいえ、こういう事を考えるようになっただけマシかもしれないが、それでもまだまだ大人には程遠いのだと思い知る。


「もう出るか」


 ここで悩んでいても進路の事などすぐに答えなど出るはずもないし、焦って決められるような事でもないと思う。

 そして何より、今すぐ美園に会いたかった。

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