第90話 彼女にとっての一番

「緊張してきました」

「大丈夫だよ」


 火曜の今日はお互い4コマで授業が終わる為、図書館前で待ち合わせて委員会室のある共通G棟に向かっている。もちろん手を繋いで。


「出展希望の部門を聞いて、対応する申込用紙と注意事項を渡す。ここまでは全部門で共通ですよね?」

「うん、合ってるよ」


 少し不安そうに僕を見上げる美園に、優しく微笑む。大学内でなければ頭も撫でたい。

 今日は美園が出展希望受付の対応に初めて入る日、以前から約束していた通り僕も付き添う為に同行している。


「申込用紙は、それぞれの部門毎に記載する必要事項が少し違うので、その説明をする」

「うん」


 出展団体名と代表者氏名と連絡先はどの部門でも必須。その他はたとえば各ステージへの参加希望であれば、何日の何時から何時の間に参加したい、といった情報が欲しい。


「ええと。あとは、部門によっては備品の貸し出しについて、で良かったでしょうか?」

「うん完璧」


 上目遣いでおずおずと尋ねた美園が、「やった」と小さくガッツポーズを取ったので、先程我慢したのに思わず頭を撫でてしまった。

 それを自覚してなお、彼女の髪の触り心地が良くてなかなか手をどけられずにいると、顔を赤くした美園が恨めし気な視線を向けてきた。


「智貴さん。流石にここでは……嬉しいですけど」

「ごめん。つい……」


 4コマ目終了時、恐らく帰宅の学生が一番多い時間帯だと思う。図書館から共通棟群に向かうルートは、正門を通って帰る教育・人文学部生の通り道。二人して顔を俯かせながら、足早にその場を離れざるを得なかった。



「貸してもらえるのってどんなのがあるの?」

「模擬店の場合はこちらの用紙に記載されている物です」


 委員会室に着いた美園は、中にいた委員長のジンやその他の委員に挨拶を済ませると、各種必要書類の収納場所を確認しながら何やらメモを取っていた。一通りの確認が終わった彼女が席に着き、入り口を見ながらそわそわしているのを、僕は微笑ましい気持ちで眺めていた。

 それから5分程経った頃、模擬店への出店希望者が訪ねて来たので美園に対応を任せているが、緊張していた割にその対応には文句の付け所が無い。自分でしっかりと噛み砕いているのだろう、説明は分かりやすいし相手の反応を見ながら間を置いたりもしている上、笑顔も欠かさない。惚れられるのではないかと心配になる。


「次はいついるの?」

「私ですか? ちょうど来週ですね」

「じゃあその時に出しに来るから」

「期限まででしたらいつでも大丈夫ですよ?」


 案の定かよと呆れ半分で見ていると、ポンと肩を叩かれたので振り返ると、ジンが苦笑していた。


「あれは惚れたな」

「だよなあ」

「苦労するな」

「そうでもないよ」


 肩を竦めて見せると「そうか」と半笑いのジンは自分の書類仕事に戻っていった。美園の方も丁度対応が終わったらしく、だらしない顔で手を振りながら出ていく男――指輪に気付けとは思うが、書類に目を通しながらでは中々難しいのかもしれない――に軽く会釈をしていた。


「お疲れ様」

「はい。どうでしたか? 牧村先輩」

「うん。完璧だったよ」


 知り合いの前ではまだ「牧村先輩」で通すつもりらしい美園は、僕が褒めると満面の笑みで応えてくれた。彼女の目が「褒めてください」と言っているので頭を撫でたいが、流石に先程と同じ轍は踏まない。


「帰りにな」

「楽しみにしていますね」


 お互いに小声で会話を交わし、小さく笑い合う。


「PP貰ったら速攻マッキーに全部入れるわ」

「あ、俺もそうしよ」

「やめろ! 僕が何したって言うんだよ」


 後ろから聞こえた声に慌てて振り返ると、呆れたように笑う同級生達が生暖かい視線を向けて来ていた。


「ぴーぴー?」

「罰ゲームのポイントみたいなものだよ。正式にはペナルティーポイント」


 可愛らしく首を傾げる美園に極々簡単に説明をする。文化祭本番が近付くと、疲労や睡眠不足から言動に支障を来す奴が発生する。多くは下ネタやネガティブな発言などの笑える物なので、そう言った笑える不祥事に対して皆でポイントを点け、打ち上げでの罰ゲームをさせる制度だ。


「じゃあ、牧村先輩が罰ゲームにならないように、私も頑張りますね」


 純粋な笑顔が嬉しいし眩しい。しかし、隅の方からは「俺も入れよ」「俺も」と言う声が更に沸き出ていた。



「次回はいよいよ私達の発表ですね」

「うん。応援してるよ、後ろから」

「はいっ。見ていてくださいね」


 第2ステージ担当としての、申し込み団体への対応と説明会、当日までと当日の注意事項、昨年までの課題と今年における対応策等をまとめたレジュメを次の全体会で通す事になる。

 各担当主導は当然2年生だが、後輩に経験を積んでもらう事と場慣れしてもらう意味を込めて、後期からの全体会での発表は1年生に任せる事が慣例らしい。


「読み手は雄一君ですけど、質疑応答は私も頑張りますから」

「今日の部会の感じを見てたけど、全然心配するところは無さそうだったよ」


 帰り道、小さく気合を入れた美園の頭を今度こそ撫でる。嬉しそうに笑う美園の髪の触り心地が気持ちいい。

 あの後学食で一緒に夕食をとり、全体会部会担当会と続いて時刻はもう21時を超えている。去年の経験になるが、後期の文化祭実行委員の活動日として今日の時間はまだ早い方だ。


「私は大丈夫ですよ」


 頭を撫でていた隣の美園がふと顔をこちらに向け、柔らかな笑みを浮かべた。


「心配そうな顔をしていましたよ? 智貴さんがそういう顔をする時は、私の事を考えてくれている時です」

「ん。まあそうかな。これからどんどん大変になっていくなあと思ってさ」

「辛い事があっても、もう一人で抱え込んで悩んだりはしません。私の周りには素敵な人がたくさんいますから」

「ああ」


 そう言った美園は繋いでいた手を解いて腕を絡めて来た。左腕に感じるのは彼女の柔らかな右腕と僅かな重み。


「だから頼りにしていますね、智貴さん。私にとって一番素敵な人はあなたですから」


 一点の曇りもない笑顔でそう言うと、美園は体勢を少し変えて絡めていた僕の左腕に抱きついた。柔らかな体温と、かすかに鼓動を感じる。

 顔が熱くて、小さく頷いてから顔を逸らした。そんな僕を見てか、美園はくすりと笑った。

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