第86話 サプライズ VS サプライズ

 結局眠りに就いたのは1時くらいになったのではないかと思う。だと言うのに僕は5時前にはソファーの上で目を開いた。もちろん自然に目が醒めた訳はなく、今しがた震えを止めたスマホのおかげだ。


 本格的な暗順応には時間が足りないが、5分程慣らした目は、遮光性の高いカーテンに覆われた空間でも、ギリギリ手元くらいまでは捉えてくれる。

 目を慣らす間に耳をそばだててみたが、美園はまだ眠っている。僕より早く起きて化粧と食事の支度をしてくれるだろうと思っていたが、流石にこの時間ならば大丈夫だったようだ。


 眠り姫を起こさないようにそっとソファーから起き上がり、取り出しやすいようにしておいた物をキャリーバッグから掴み出し、彼女の眠るベッドへと慎重に近寄った。

 羽毛布団を少しめくり、美園の右腕にそっと触れて持ち上げて目的を果たす。目が慣れていないので作業がしづらくはあったが、正直それは幸いだったと思う。見えていたなら、彼女を起こしてしまうような事をしでかしたかもしれない。


 ミッションを達成した高揚感を抑え、ふんわりと羽毛布団を美園の体の上に戻し、忍び足でソファーへと戻った。彼女はどんな反応をするだろうか、それを見るまで起きていようと思ったはずが、いつの間にか意識は落ちていった。



 次に目が醒めた時、スマホの時間を確認すると8時になろうかという頃だった。


「おはようございます。牧村先輩」

「おはよう、美園」


 既に着替えも化粧も終えた美園は、穏やかな顔で僕の頭を撫でてくれていた。


「体は痛くありませんか?」

「……うん。いいソファーだからだと思うけど、全然」

「良かったです」


 起こしながら体を確認するが、痛みや凝りは無い。


「これ、ありがとうございます。本当に、とっても嬉しいです」


 柔らかな笑みを浮かべ、指を立てたまま手の甲の側を僕に向ける美園の右薬指には、ダイヤをあしらったホワイトゴールドの指輪。3時間ほど前に僕が身に着けさせた物だ。

 宝石店の店員さん曰く「比較的シンプルですが、上品で清楚な女性の魅力を引き立ててくれます」との事だったので、ならばと選んだ物だったが、謳い文句に偽りは無かった。


「気が付いたら指輪があって本当にびっくりしました」

「寝てる彼女に指輪をはめるのをやってみたくて。本当はどんな反応するか見たかったんだけどね。寝ちゃって残念だよ」

「もう……」


 少し眉を下げて笑う美園は、そのまま優しく僕を抱きしめてくれた。

 昨夜とは違う、いつもの彼女の優しく甘い香りをかすかに漂わせながらの抱擁は、待ち望んでいたもので、彼女の背中に回した僕の腕にも少しだけ力が入った。


「大事にします。ずっと、ずっと」



 ハグの最中に自分が顔も洗っていない歯も磨いていない髭も剃っていない、という状況に気付いた。そんな状態でハグ以上を求める事も出来ず、少し洗面所を貸してもらうと、美園はいつも通りに戻って朝食の準備をしてくれていた。

 そうなってしまうと「先程の続きを」とは言える訳が無い。とは言え夕食は外でとる事になっているが、それまではいくらでも時間があるのだから焦る事も無いだろうと思った。


 しかし朝食後、美園は僕と彼女の寝間着を洗濯機にかけて、昨日の洗濯物にアイロンをかけ始めた。何も今する事はないだろうとも思ったが、僕の物がある以上は今の内に、というのは理屈の上ではわかる事だった。

 更にその後も、明日に決まったドライブの行き先を考えようという話だったのだが、美園はテーブルの向かい側に座った。肩の触れ合う距離で、お互いのスマホで候補地を見せ合うというのを想像していた事もあって、かなり寂しい。

 避けられているのかと一瞬思ったが、時折指輪を見つめては顔を弛ませる美園からは、とてもそんな事を考えているとは思えなかった。そして僕はその度に、デート用の化粧をした彼女の笑顔に見惚れる事になった。


 結局昼食後もそんな調子で、僕はほとんど美園に触れる事が出来ず、逆に触れてもらいもしないまま、予約した店に向かう為に彼女の部屋を出る時間になった。

 いつもならば美園の言うところの「いってらっしゃいのちゅー」を求められるのだが、今日はそんな素振りすら無く、僕の方から求めるタイミングすら与えてもらえなかった。

 ようやく美園に触れる事が出来たのは街中の店の近くでタクシーを降りた後。エスコートの名目で彼女の手を取った時だった。


「それじゃあ、すぐそこだけど」

「はい。お願いします」


 付き合ったばかりの頃は、手を繋ぐことにさえ理由を欲して、特別だった。最近は知人の前以外では普通の行為になっていたが、手を繋ぐ事さえも尊く愛おしい事であると骨身に染みた。



 ディナーに関しては、以前美園が来たがっていた店の一つ――先日の僕の誕生日に作ってもらった料理がフレンチメインだったので、今日の食事はイタリアン――を選んだ事もあって、彼女は大変喜んでくれたと思う。

 料理も楽しんでくれているようだし、ここでも時折指輪を見て顔を綻ばせる美園を見られた。そんな彼女が最後のデザートを楽しんでいる最中、近くのウェイターにこっそりと合図を送った。


「お誕生日おめでとうございます」

「え?」


 突然現れたウェイターから誕生日を祝われ、美園は目を丸くしている。そして、彼が運んできたケーキを見て、次に僕を見て、頬を朱に染めた。流石に店内の人達に一斉に歌ってもらうような演出は出来なかった――する気も無かった――が、サプライズとしては効果があったように思う。


「びっくりしました」

「びっくりしてもらう為にやったからね」

「嬉しいです。ありがとうございます」


 ふふっと笑う美園に、「それじゃあもう一つ」と言って、テーブルの隣にこっそり用意しておいてもらった袋から、1本のガラス瓶を取り出した。中身はプリザーブドフラワーをオイルで浸したハーバリウム。高さ30cm弱の円錐台の中には、彼女の好む水色に近い世界が広がっている。


「綺麗……」


 少し暗めの店内と、蛍光灯とは違う照明の下で、ハーバリウムは少し幻想的にも見える。少しぽーっとした様子の美園は、「ありがとうございます」と言って両手で丁寧に受け取ってくれた。


「今日は今までで一番素敵な誕生日になりました」


 指輪とハーバリウムを交互に見やり、美園はうっとりとした顔を見せてくれた。



「写真撮らないか?」


 店を出たところでそう提案すると、いまだに少し上気したような美園は少し周囲を見渡した後、恥ずかしそうに「はい」と頷いた。金曜の夜で人通りは多かったが、通行人の目など気にせずに彼女を抱き寄せ、店をバックに写真を撮った。

 男一人で自撮りの練習をしていたなどとは口が裂けても言えないが、その成果もあって二人の写真撮影は一発で成功した。美園の顔は先程より赤く、「街中でいきなり……」と言うので、「いきなりじゃなければいいのか?」と尋ねると、顔はもっと赤くなって僕から離れてしまった。余計な事を言ったと思う。



 美園の部屋に戻って来たのは21時の少し前。約束の今日1日まであと約3時間。それが過ぎてしまえば、僕は帰らなければならない。明日の遠出では僕がレンタカーのドライバーなので、残念ながら彼女の誕生日が終わっても長居して睡眠時間を削る訳にはいかない。

 あと3時間。明日も朝から会う訳だが、文字通り1日一緒にいた美園とほとんど触れ合えなかった事を考えると、残り時間を更に短く感じる。


 いくつかのサプライズを用意し、美園はとても喜んでくれたと思う。それを見られただけで僕も満足だと、そう思っていた。しかしそれでも、大好きな恋人に触れられない事は寂しい。以前言った「一緒にいてくれるだけでいい」という言葉は我ながら大嘘だったらしい。


「それじゃあお風呂沸かしますので、牧村先輩からどうぞ」

「ああ、ありがとう」


 そんな事を考えながらソファーまで歩いたところで、後ろから聞こえた美園の言葉に頷いて礼を言う。


「え? え?」


 半ば条件反射で礼をしてしまった後、言葉の意味に気付いて驚いて振り返ると、「それじゃあ準備してきますね」と言って美園がニッコリと笑った。

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