第84話 山の陰から日は出づる
9月のバイトは、ほとんどが11時から20時までのシフトに入れられた。昼と夕の2回の食事という繁忙時をカバーできるようにとの事で、昼過ぎには上がりたい奥様方と夕方からしか入れない高校生に対して、9月も夏休みの大学生が体よく使われるハメになった形だ。
この日も11時からの勤務だった僕は、20時ぴったりにタイムカードに打刻し、早々に休憩室奥のロッカー室へと駆け込んだ。
「急いでるけど、美園ちゃん?」
「です。お疲れ様です、お先に失礼します」
ものの1分で着替えを済ませてロッカー室から出た僕に、リーダーが「速いね」と声をかけてから尋ねて来た。申し訳ないとは思ったが急ぎたい気持ちの方が強かったので、最低限の挨拶を済ませ軽く頭を下げて出ていこうとすると、「ちょっと」と上着を掴まれた。
「ボタンずれてるし、髪も着替えで乱れてる。早く会いたいのはわかるけど、鏡見てきなよ」
「この後シャワー浴びるからいいんです」
自分の部屋に戻り、軽い食事をとってシャワーを浴びてから美園の部屋に向かうつもりでいた。諸々の準備はバイト前に済ませているが、それの最終確認の時間を込みにしても22時前には彼女の部屋に着きたいと思っている。
「へえぇぇぇ」
先程の気遣うような顔は一瞬で失せ、ニヤケ面のリーダーが僕の上着を離した。
「お楽しみの邪魔してごめんね」
「はあ……いや! 違う!」
最初は意味が分からずにいたが、ニヤケた表情のリーダーが「まさか牧村君がそんな宣言するとはねー」とクスクス笑うので、すぐに理解した。
「勘違いしてますけどね――」
「美園ちゃんはいいの?」
「ああもう!」
弁明をしようとするとリーダーは心底愉快そうな顔で壁の時計を指差した。別にこのやりとりで何分も時間を食った訳ではないが、相手側からそう言われては反論に時間を割きづらい。
「お疲れ様でした」とだけ頭を下げて休憩室から出ると、「楽しんできてねー」と言う笑い声が背後から聞こえた。
◇
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
時刻は22時より少し前、大きなキャリーバッグを持って部屋を訪ねると、いつも通りの様子で美園は出迎えてくれた。
こちらとしては無駄に意識して激しく緊張していたので、正直少し拍子抜けした部分もあるが、やはりホッとしたという方が大きい。
いつものようにスリッパを履いて、部屋の中に入れてもらい、ソファーに腰掛けた。因みに今日は持っていた荷物が大きかったため、美園に預ける事はせずに自分で彼女のデスクの横まで運んだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
訪ねる前に連絡を入れておいたためか、美園はすぐに紅茶を出してくれた。そのまま隣に座った彼女が「どういたしまして」と微笑んだ。彼女も風呂上りなのだろう、シャンプーのいい香りが鼻に届く。
美園の髪を一撫でしてから口を付けた紅茶は、いつもの物と少し味が違うような気がした。尋ねてみると、時間が遅めなのでカフェインレスを用意してくれたと言う。そんな熱い紅茶が心を落ち着かせてくれたのか、バイト後の倦怠感もあって欠伸が出てしまった。
「ごめん」
「気にしませんよ」
謝る僕の頭をそっと撫で、美園は優しく微笑んだ。
「少し休みますか?」
ぽんぽんと自分の太ももを叩きながら言った美園は、今日も丈の短いワンピース。別に膝枕と言っても、頭を乗せる場所は実際には腿の上、膝が露出していようが本来は関係無いのだが、どうしたって意識はしてしまう。
「アルバイトでお疲れなところ申し訳ないとは思いますけど、日が変わる瞬間は起きていてほしいです」
「そう、だったな」
泊まる事ばかり意識していたが、それはそもそもが美園の誕生日の24時間を一緒に過ごすための手段だった。流石に睡眠を取らずに一緒に居続けるのは厳しいので寝る事にはなるが、それでも始まりの時間には誰よりも早く「おめでとう」と伝えたい。
「じゃあ30分だけ。悪いんだけど膝貸して」
よくよく考えれば別に膝枕をしてもらう必要はなかった。普通にソファーで横にならせてもらえば良かったのだが、眠かった事と、実際に膝枕をして欲しかった事が理由だと思う。
「はいっ。どうぞ」
満面の笑みで腕を差し出す、受け入れ態勢万全の美園に向かってゆっくりと体を倒すと、優しい手に支えられてゆっくりと彼女の脚の上に招き入れられた。
正直一瞬死んでもいいとすら思った。柔らかな腿の感触はもちろんだが、甘ったるいと思える程のいい香り、そして頭と肩を優しく撫でてくれる美園の手。死んでもいい、ではない、死んだ。ここが天国だ。
「どうですか? 疲れはとれそうでしょうか?」
「死にそう」
「え?」
「あ、えっと。死んだように眠れそう」
「それなら良かったです」
口を滑らせて変な事を言ってしまったが、上手くフォローが出来たのか、美園は穏やかな声でそう言った。
「この匂い、いつもの香水とは違うけど、こっちもいいね」
「お風呂上りに塗った保湿用のボディークリームの香りですね。ちょっと強いかと思いましたけど、良かったです」
ふふっと笑う美園が、変わらず頭と肩を撫でてくれる。本当に気持ちがいい。「少しの間ですけど、おやすみなさい」と言う優しい声を最後に、僕の意識は沈んで行った。
◇
「そろそろ時間ですよ」
優しく体を揺すられて、意識がまどろみの中から戻って来る。相変わらず優しく髪を撫でてくれる手が心地いい。
目を開けると少し眩しい。横向きで膝枕してもらっていたはずが、いつの間にか仰向けになっていて、天井の照明が開いたばかりの目には少し強い。
「おはようございます」
「おはよう」
穏やかな声にボケッとした声で返すと、美園はクスリと笑った。その笑顔もまた眩しいが、その手前には丸みを帯びた遮光物が存在した。流石に視界を塞ぐ程ではないが、顔ごと動かさなければどれだけ視線を外しても視界に残る存在感がある。
寝返りをうったのか、90度回転した分だけ美園の体が近い。慌てて起き上がろうとするが、頭を少し起こしたところで、このままだとどう足掻いても件の遮光物にぶつかる事に気付いた。ぶつかったところで衝撃を吸収してくれるだろうが、いかに膝枕をしてもらったと言えど、そこを枕にするのは難易度が高すぎるように思う。
「ごめん起きるよ」
「まだいいですよ?」
「そういう訳にはいかないよ」
主に自分の体的な意味で。
手をついて体を曲げながら起き上がればいいという、当たり前の事に気付くまでに少し時間はかかったものの、なんとか衝突を回避しつつ起き上がると、美園は少し残念そうに笑った。
「それじゃあそろそろ着替えますか?」
「そうだね」
時計を見ると23時の少し前、お互いに今は寝る恰好をしていない。
「私の着替えは脱衣所に用意してありますので、牧村先輩はここで着替えてくださいね」
「了解」
そう言ってソファーから立ち上がった美園が、テーブルの上のリモコンをピッと操作すると、部屋が少し明るくなった。
「さっき暗くしてくれたのか。ありがとう」
「本当はもっと落としたかったんですけど。私が寝てしまうと困っちゃうので」
気遣いに礼を言うが、美園は少し困ったように笑った。
「それじゃあ、着替えてきますね」
「楽しみに待ってるよ」
「もうっ」
笑いながら口を尖らせた美園は、「覗いちゃダメですよ?」といたずらっぽく言って、僕が何も言い返せないのを満足げに見下ろしてから脱衣所へ向かった。
「意識させないでほしいよなあ」
覗きはしないが見たくはあるのだから。
深く息を吐いてソファーに体重を預けると独り言が出た。
「でも楽しみだ」
以前は寝間着に着替えてすぐにベッドに入ってしまった美園だが、今回は最低あと1時間起きていなければならない。嫌がられない程度にはじっくり見たいと思う。今は恋人なのだから。
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