第57話 お散歩先輩と疲れをとる方法
「綺麗ですね」
「これか?」
ドリンクホルダーに転がした小さな海。ひもの部分をつまんで持ち上げ、そのまま美園に渡すと、彼女は両手で丁寧に受け取って、取り出したハンカチで触れた表面を拭った。
「はい。海みたいで、キラキラしていてとっても綺麗です」
そのままひもを持って、先程僕がしたのと同じように、陽にかざした。
「そう言ってもらえると、一生懸命作った甲斐があったよ」
「牧村先輩が作ったんですか?」
「ああ」
少し驚いたようにこちらを見る美園に、君をイメージして作りましたとは言えず、視線を逸らした。
「牧村先輩、もしかして体調が良くなかったりしますか?」
「いや、そんな事は無いよ」
体調は悪くない。僕の言った事に嘘は無いが、美園はとんぼ玉をドリンクホルダーにゆっくりと置いた後、じっと僕を見つめた。
「嘘です。いつもと比べてやっぱり元気が無いです」
そう言われてしまうと返す言葉が無い。美園が来てくれて嬉しいし、普段通りを装ったつもりだが、それでもやはり、先程の三人の会話と、それに伴って感じた自身の情けなさは、精神的な鎖になって僕をここに縛り付けている。
「どうぞ」
「ん?」
美園の声と同時に、フロントガラスを見ていた僕の視界に彼女の腕が入る。横を向いてみれば、伸ばされた両腕は招き入れるように僕に向けられている。
「どうぞ」
意図がわからずに見ていると、美園は僅かだが不機嫌そうになって、少しだけ語気を強めて同じ言葉を繰り返した。左手で自分の太ももをぽんぽんと叩きながら。
膝丈より少し短いスカートから覗く脚が綺麗だ。
「もしかして……膝枕?」
「はい。前の時は疲れが取れたって言ってくれましたよね」
少し自慢げに言った美園は「さあ」と言って、再び両腕を伸ばす。
正直甘えてしまいたい。サイドブレーキは足元にあるので、ひじ掛けを上げてしまえば準備は万端となる。
それでも、今甘えてしまえば、また致命的な思い上がりをしてしまいそうで、怖い。こうして美園の優しさに触れられるのは、僕だけの権利だとまた思ってしまう。
「ワックス付いてるし、遠慮しとくよ」
「気にしませんよ」
「僕がするから」
「私はしません」
断腸の思いで断った僕と目を合わせたまま、「票が割れましたね」と微笑んだ美園がおかしくて、僕は笑った。大声では無かったが、声を出して笑った。
美園は「どうして笑うんですか」と拗ねたような顔をしているが、その表情がやはり可愛い。
たったそれだけで、先程まで感じていた縛られて動けないような感覚は、その一切が消えてしまった。
「いや、ありがとう。もう大丈夫」
笑いを堪えながら礼を言い、自身の復調を伝えると、美園は拗ねたような表情のまま、僕に顔を近付けた。形のいい眉が少しだけひそめられ、細められてなお大きな瞳が僕をじっと見ている。
僕もそんな美園をじっと見ているので、必然目が合う。「あ」と呟き、慌てて顔を遠ざけた彼女は、そのままの勢いで顔を逸らした。
「確かに……もう、大丈夫、そうですね」
「わかるのか?」
途切れ途切れにそう言う美園に尋ねると、ふぅっと息を吐いた彼女がこちらを向いた。
「わかりますよ」
その顔は少し赤かった。
◇
「そろそろ行こうか」
「あ、もうこんな時間ですか」
腕時計を見た美園が驚いたようにそう言った。二人で話してもう30分程が経つ、集合時間はすぐそこだ。
あれから、お互いが今日どこに寄って来たかを写真を交えながら話した。僕の撮った拙い写真を見ながら、美園は嬉しそうに話をせがんだ。
僕としては美園が目を輝かせながら写真を見せてくれた、湖畔のテーマパークの話をもっと聞きたかった――今後誘う場所の参考に――のだが、時間切れとなってしまった。
「あ、そうだ。ジンに鍵返しとくよ」
「え?」
車を降りる前に、美園に向かって手のひらを差し出してそう言うと、彼女は不思議そうな顔をした。そして何かを考えるような仕草をして、「あ!」と声を上げた。
「あの!大丈夫です。自分で返します。悪いですし」
「ジンとは部屋一緒だし、気にしなくていいよ」
9台の車の9人のドライバーの内、7人は2年男子で全員が同じ部屋にまとまっている。翌日も運転があるドライバーが、飲み会に巻き込まれて寝不足にならないよう、ドライバー部屋には訪問禁止になっている。もちろんドライバーが自分から他の部屋に行く分には自由だが。
因みに残り2名の女子ドライバーだが、女子部屋には男子の訪問が禁止されており、女子会の場合もドライバーのいない部屋で行われるらしいので、こちらもある程度は落ち着いて休めるようになっているとの事だ。
「いえ。あの、自分で返します。お礼も言わないといけませんし」
「そうか?律儀だな」
「いえ、そんな事は……」
何故か美園は申し訳なさそうな顔をしている。
「どうかした?」
「いえ、なんでも。時間もありませんし早く行きましょう」
美園はそう言うが早いか、ドアを開けてスタスタと歩き出した。
「ちょっと待ってくれ!まだ荷物降ろしてないんだよ」
◇
ドライバー部屋に荷物を置いて、「晩飯まで散歩してくる」とサネに告げて中庭へと向かった。サネは「飲みに備えて寝る。疲れたし」と言って、座布団を枕代わりに畳の上で横になりながら、僕を見送った。
温泉宿の中庭と言っても、失礼ながら学生が集団旅行で使う安宿では、テレビで見るような日本庭園は望めない。別に僕もそれを望んで来た訳ではないので構わない。
少し一人になって考えたい事があって来ただけなので、他に誰も来ないような砂利に木が生えただけの中庭が丁度いい。
サンダルを借りて歩きながら考えるのは、これまでの事とこれからの事。
美園と初めて会ってから約4ヶ月。まだ、なのか、もう、なのかはどちらとも言い難い。短い間に沢山の事があったし、それでいて一緒にいなかった時の自分がどうだったか、思い出せないくらいの時間を共有したような気もする。
歩みを進めると、足元から砂利同士がこすれる、ザッザという音が小さく聞こえる。
花火の後に手を繋いで歩いた河川敷を思い出し、左手に喪失感を覚えた。
あの時、美園の隣は僕の場所だった。
それが永続的なものだと考えるのは確かに思い上がりだった。だが、しかし、それを永続的なものに
だから、その為の行動をしなければならない。
想いを告げて、拒絶されたなら。今の時間を失うくらいなら、「いつか」に希望を託していようと、きっと僕は考えていたのだろう。
だが違う。「いつか」が来る前に、誰かの手によって失われる可能性もある。そんな当たり前のことを、愚かにも僕は忘れていた。
拒絶される事は怖い。困った顔で「ごめんなさい」と言う美園を想像しただけで泣きそうになる。
ただそれでも、何もせずに彼女の隣を他の奴に持って行かれる事の方が耐え難い。
「告白か」
情けない話、言葉にしただけで割と怖い。告白の決意をしようとここへ来たというのに、それ自体は出来たものの、いつどんな風に告白をするかは全く考えられなかった。
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