第22話 青いジャンパーと水色エプロンの後輩
6月最初の土曜、やる事の減ってきた実務は14時前に終わった。
そして、僕が所属する文実出展企画部第2ステージ担当の歓迎会兼親睦会が、18時から開催の予定になっている。
『今からお伺いしてもいいですか?』
ドアを出るペンギンのスタンプと一緒に、そんなメッセージが届いたのは16時少し前。材料の買い出しは既に終わっているので、そろそろキャベツでも切っておこうかと思い始めた頃だった。
『いいよ』
『ありがとうございます。すぐに伺います』
即座に返信が来た。今度は敬礼のような動作をするペンギン付きで送られてきた。
「部屋は、大丈夫だよな」
デスク前の椅子から立ち上がり周囲を見渡すが、念入りに掃除をしてあるため部屋の中は完璧なまでに整っている。そのはずなのだが、どうしても不安になりあちこちと見ている内に呼び出しのチャイムが鳴った。
「はい!」
テレビラックの裏の埃まで確認していた僕は、慌てて立ち上がり玄関まで急いだ。
「こんにちは。牧村先輩」
「いらっしゃい、美園。上がって」
「お、お邪魔します」
ドアを開けて美園を招き入れたが、その緊張した様子に僕の方の緊張はほぐれてしまった。
だというのに、玄関から入る美園とすれ違った時に、凄くいい匂いに鼻孔をくすぐられ、ほぐれた筈の緊張が、より強い物になって襲って来た。
「牧村先輩、冷蔵庫をお借りしてもいいですか?」
香水をつけているのとは違う。シャワーでも浴びてきたのだろうか。とは言えそれを上手く聞き出せる程の会話の技量はない。
「牧村先輩?」
気が付くと靴を揃えた美園が、不思議そうに僕の目の前で手を振っている。
「ああ、ごめん。冷蔵庫、どうぞ」
「ありがとうございます。失礼しますね」
玄関のドアを閉めて美園をよく見ると、いつも持っている白いバッグとは別に、可愛らしい紙袋を2つ持っており、その内の小さい方の中から小さな容器をいくつか取り出して冷蔵庫に移していた。
「プリン?」
「はい。お店の物では無いのでお口に合うかはわかりませんけど……」
不安と恥ずかしさが入り混じったような表情でそう言われても、こちらとしては何の不安もない。あれはきっと美味い。
「美園が作ったヤツ? 美味しそう。食後のデザートに丁度いいよ、ありがとう」
「はい。私が作った物なのであんまり期待しないでくださいね」
「凄く期待してる」
「もう」
拗ねて見せる表情が可愛い。
「とりあえず中へどうぞ」
僕の部屋は1Kで玄関を入ってすぐのキッチン部分と、その奥に扉で仕切られた生活空間がある。冷蔵庫の横で膝をついていた美園を立ち上がらせ、ドアを開けて部屋の中へと促す。
「ここが牧村先輩のお部屋なんですね」
目を輝かせてそう言う美園だが、彼女の部屋と比べたらありきたりでセンスの欠片も無いような部屋だと思う。グレーの遮光カーテンに、木製の家具は基本的にナチュラルな木の色で、クッションや布団などは白か黒、調度品などは一切無し。
美園には白いクッションを渡し、部屋の中央のテーブル――冬はこたつになる――の前に座ってもらう。
「そんなに見ても、大した物は無いよ」
「いえ、素敵なお部屋だと思います。あ! あれ――」
美園の視線は、僕が座ったデスクの横に掛けてある青色のスタジャンに吸い込まれている。
背中には大学の名前と第58代文化祭実行委員の文字と去年の文化祭のロゴ、正面は無地だが左の二の腕部分には僕の名前が書かれている。去年の文化祭実行委員のスタッフジャンパーで、洗濯しても落ちなかった塗料汚れや、引っ掛けてほつれた痕が残っているが、間違いなく僕の宝物の一つだ。
「見せて頂いてもいいですか?」
「ああ。どうぞ」
美園は興奮気味に机に近づいて、スタジャンを見ている。去年の文化祭に来た事で実行委員入りを決めてくれたという美園にとっても思い出の品なのだろう、顔が少し赤い。
「手に取ってもいいよ」
「いいんですか!? 大切な物なんじゃ――」
「遠慮するなって言ったろ?」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」
デスクの横に立つ美園は、僕がハンガーごとスタジャンを渡すと、恐る恐るといった具合で受け取り、青いスタジャンにその白い指を這わせた。
丁度、左腕部分にある僕の名前、刺繍された「牧村」の文字を撫でる美園の、愛おしい物を見るような表情から目が離せなかった。
◇
「ありがとうございました」
「こんな事でよければ」
時計を見ると経過は2分程、美園がスタジャンを元の位置に返して、お辞儀とともに僕に礼を言った。
「6月の終わり頃には今年の分も注文するだろうから、試験が終わった頃には美園の分も出来るよ」
「夏休み前には出来るんですね。楽しみです」
興奮冷めやらぬ、といった様子の美園に自然と頬が弛む。
「あ、そろそろ準備始めますか? お手伝いさせてくださいね」
「じゃあそろそろ始めようか」
「はい」
微笑ましい気持ちで見ていると、その本人からそろそろ調理を開始しようと言ってきた。
とはいえ僕の家のキッチンは美園の家のそれほど広くない。2人で一緒にというのは難しいので、1人が先程のテーブルで生地作り、もう片方はキッチンでキャベツを切るという分担になるだろう。
「私がキャベツを切ってもいいですか?」
「了解。じゃあ僕が生地を作るかな」
「お願いしますね。キャベツはみじん切りと千切りの2種類用意すればいいんですよね?」
「ああ、よろしく」
「はい」
笑顔で応じた美園は、持ってきていた大きな紙袋からエプロンと髪留めを取り出した。
美園の部屋のカーテンなどと同じ薄い水色のエプロンと、髪留めの方は名前は知らないが鳥のクチバシのような形をした銀色の物。
アイボリーのワンピースの上から、手際良くエプロンを身に着けた美園は「鏡お借りしますね」と言って、壁に掛けた全身鏡の前で鳥のクチバシを使って髪をアップにした。
以前男だけで集まった時に女性のどこに魅力を感じるか、という話題になった事がある。その時にうなじと言ったドクに対し、僕は「ただの首じゃん」と言った記憶があるが、完全に間違っていた。これはヤバい。さっきとは別の意味で目が離せない。
「あんまり見ないでください。まだ上手く出来ないので」
完全に見入っていると、まとめ終わった髪を確認している鏡の中の美園と目が合ってしまい、恥ずかしそうにそんな事を言われた。あれで上手くないのなら、上手く出来た時の破壊力は一体どうなるのか。
「ご、ごめん」
慌てて目を逸らし謝ると、ふふっという笑い声が聞こえ、ゆっくりと視線を戻すと、悪戯っぽく微笑み僕を見る美園がそこにいた。
「上手に出来るようになったら、また見てくださいね」
「善処します……」
何をかは僕もわからない。
その後、心を落ち着けて生地作りを開始した僕の耳に響くのは、キャベツを切る包丁の心地よいリズム。美園の包丁捌きは相当なもので、謙遜こそしていたがこれならきっとあのプリンも期待以上の味が望めるだろう。
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