第59話 不破と灰谷は別離を目撃する

 身動き一つせず座り込んだままの華乃に、猛烈な速度で接近するハイドラ。

 童士は這い寄る混沌ナイアルラトホテップに胸を貫かれ、微動だにせずうつ伏せで横たわり、彩藍は疾走するハイドラの背を、何も出来ずに見ているだけだった。

 華乃の頭上に迫る巨大な岩石、その先端が華乃の頭に届く寸前、ハイドラの伸ばした手は華乃の背に触れたように彩藍には見えた。


『ズドォッーーーーーン!!!』


 巨大岩石が洞窟の地面へと落下し、彩藍の全身を震わせるような振動が発生する。

 濛々と立ち込める土煙の中、彩藍は最悪の事態を想定し、絶望感に苛まれる。


「華乃……ちゃん…………」


 茫然とした表情で、華乃の名を呟く彩藍。

 土煙が収まり視界が晴れた時、彩藍の眼に映る景色は信じ難いものであった。

 巨岩に押し潰された少女の躰、その細く抜けるように白い腕は彩藍の方に差し伸ばされていたが、顔は反対方向を向いて……彩藍の側からは後頭部しか視認出来ない。

 どちらにしても、巨岩の下敷きとなっている肉体の持ち主の生存については、絶望的な状況であった。

 この惨劇の状況下において、唯一動ける存在である彩藍は、ヨロヨロとふらつきながら歩を進める。


「ど……童士………君…………

 華乃……ちゃんが…………」


 華乃の安否を確認するよりも先に、彩藍は倒れ伏す童士の許へと歩み寄った。

 最悪の結末を見ることを恐れて、真実を知る時を先送りにしたような格好だ。

 彩藍に声を掛けられた童士は、うつ伏せの体勢から身を起こしたが、這い寄る混沌ナイアルラトホテップに貫かれた胸の傷が堪えるのか……口からも血を盛大に吐いた。


「彩……藍…………

 華乃……が……どう………し……た…………?」


 薄っすらと眼を開いた童士には、彩藍の呼び掛けが聞こえていたようで、華乃の安否を彩藍に問う。


「……………………」


 言葉を絞り出そうと努力した彩藍だったが、どうしても童士に掛ける言葉を見つけられず、哀しげな表情で巨岩の下敷きとなった少女の腕に眼をやった。

 その白き腕を視認した童士は、カッと両眼を見開き切れ切れの声で叫ぶ。


「かっ………華乃っ!……華乃ぉっ!!」


 胸と口から大量の血液を滴らせながら、童士は立ち上がり巨岩の下敷きとなった少女の許へと歩き出す。

 数歩も行かぬ内に童士はよろけて、そのまま倒れ込みそうになる。


「童士君っ!!」


 童士に駆け寄った彩藍が、童士の左側から脇を抱え、倒れぬよう横から支える。


「彩藍………何が……あった…………?

 教えて……くれ…………」


 童士からの問いに彩藍は、自分が見たままの事実を告げる。

 這い寄る混沌ナイアルラトホテップを童士が打ち倒したこと、その右腕の触手が華乃を狙い童士が身代わりとなったこと、這い寄る混沌ナイアルラトホテップは突き飛ばされた華乃の上にある巨岩を、頭の触手を用いて落としたことを。


「あの……野郎…………」


 童士は這い寄る混沌ナイアルラトホテップの所業に対し、悔しそうな口調で呟く。

 牛歩のような遅い歩みではあったが、童士と彩藍は巨岩の落石現場へと辿り着く。

 巨岩に胸から下を押し潰され、ピクリとも動かぬ少女の後頭部の付近に童士はひざまずき……壊れ物を扱うようにその頭部を両手でそっと持ち上げ、自分の方を向くようにその頭部を動かした。


「………………。


 華乃……じゃない…………?」


 呆けたような童士の言葉が指し示す通り、巨岩に押し潰された少女は華乃ではなくハイドラであった。


「しかし……これは……誰だ…………?

 ハイドラの……顔では……ない…………」


 童士の疑問にまじまじと、押し潰された少女の顔を検分した彩藍が、ハッと何かに気付く。


「この顔は……泉美さんや…………。

 華乃ちゃんのお母さんの……泉美さんやん…………」


 確かに彩藍の言う通り、華乃に似た面差しの顔は漆原泉美の物だった。

 童士と彩藍、二人が顔を見合わすと……泉美の顔が両眼を大きく見開く。


「華乃……華乃は……何処だ…………?

 華乃…………」


 自らは巨岩に押し潰され身動きが取れないまま、泉美は娘の名を呼び続ける。

 彩藍が周囲を見回すと、もう一人の少女が巨岩の落下から際どく難を逃れた位置に倒れていた。


「華乃ちゃんっ!」


 童士を泉美の傍らに残して、彩藍は華乃へと駆け寄った。

 彩藍の声に華乃は薄く眼を開け、その顔を不思議そうに見つめる。


「彩……藍…………?

 アタシは……どないしたん……………?

 童士さんは……ドコ…………?」


 目覚めた華乃に重大な負傷がないことを確認した彩藍は、華乃を抱きかかえるように童士と……泉美の許へと連れて行った。


「童士さんっ!その……傷は………大丈夫っ!?

 えっ…………………お……母………ちゃん…………?」


 童士の負傷した姿に驚いた華乃は、その近くで倒れている少女の顔を見て言葉を失う。

 華乃の声を聞いた泉美の顔は、その声がする方へ顔を向けた。


「華乃……良かった…………

 無事……やったん……やね…………」


 華乃を見て微笑む泉美、その顔は慈愛に満ちた聖母のようでもあった。


「お母ちゃんっ!

 お母ちゃんがアタシを助けてくれたん?

 何で?」


 泉美の顔に両手を添えて、ポロポロと大粒の涙を流す華乃……その顔を見つめて泉美は愛娘に声を掛ける。


「華乃……安心して……お母ちゃんは……もうとっくに………死んどるんやから…………。

 こんな目に……遭っとるんは……悪い化け物やねんよ…………。

 彩藍ちゃんが……化け物をやっつけてくれたから……私がここに……出られたんやで…………。

 そしたら……華乃が危ない……目にうとったから………気が付いたら……飛び出して……華乃の背中を……押したんや…………。

 それでも……華乃が無事で……ホンマに……良かったわ…………」


 ニッコリと安心したような笑顔の泉美に、華乃は涙を流して頷いている。


「あ……りが……とう…………。

 お……お母……ちゃ………ん…………」


 言葉に詰まりながらも母への感謝を述べる華乃に、泉美は笑顔のままで優しく言い添える。


「ほらっ……そないに……泣いとったら……明日の朝………には目ぇが……お岩さんみたいに……腫れてしまうよ…………。

 お化け……みたいな……顔になったら……折角の……別嬪さんが……台無しやで…………」


 努めて明るい声を出す泉美に、華乃は泣き笑いで応える。


「うん、お母ちゃん……判ったわ。

 アタシ泣き止むから、お母ちゃんも早く元気になってよ」


 華乃の言葉を聞いた泉美は、寂しそうな顔で首を左右に振って微笑んだ。


「この……化け物の……生命いのちも………もうすぐ尽きて……しまいそうや…………。

 そしたら……お母ちゃん……も……華乃と……お別れせな………アカン……ねん…………。

 ゴメン……な……華乃……を………独りぼっちに……して……しもて…………」


 泉美の途切れ途切れの謝罪に、今度は華乃が笑顔で返す。


「お母ちゃん、アタシは大丈夫。

 独りぼっちやないねん、童士さん……不破童士さんが一緒に居てくれるからっ!」


 華乃の言葉に驚いた顔をした泉美だったが、華乃を見、そして隣に並ぶ童士の顔を見て……優しく微笑んだ。


「華乃………アンタ……は………男さん……を見る眼ぇ……だけは………お母……ちゃんに………似んと……良……かった………なぁ……………。


 童……士………さん……ふつ……つかな………娘……ですが………末……永く……可愛……がって……やって……く………ださ……い…………」


 泉美の願いに、童士は深く頷いて応える。


「泉美さん、華乃のことは俺に任せてくれ………きっと、ずっと俺が守るから」


 童士の返答に頷くと、泉美は華乃に視線を戻す。


「華乃………お……かぁ……ちゃ……ん……の……むす………め………に……う……ま………れ………て……くれ……て………あ……りが……………と…………う………………ね……………………」


 泉美の言葉を聞いた華乃は、涙を堪えて大きな声で叫ぶ。


「お母ちゃんっ!

 アタシを産んでくれて、ありがとうっ!

 アタシ………お母ちゃんの娘で……幸せですっ!!」


 華乃の叫びを聞いた泉美は、静かに眼を閉じ……その両眼から一条の涙が零れ落ちた。

 それを見た華乃は、堪えていた涙を溢しながら崩れ落ちた。

 童士はそんな華乃の、小さな肩を抱いていることしか出来なかった。



_________________



「さて……感動の再会はもう宜しいですか?

 私にも………時間はあまり……残されてはいないようですから…………」


 後方から突然掛けられた声に童士と彩藍は、華乃を背に守るように振り返った。

 三人の目の前には、下半身を断ち斬られた姿のままの這い寄る混沌ナイアルラトホテップが、先程と変わらぬ位置に佇んでいる。

 それぞれの得物を手に構え、這い寄る混沌ナイアルラトホテップを睨みつける童士と彩藍。


「私もおいとましないといけないので……残務処理をさせて戴きますよ…………」


 童士と彩藍の存在を無視したように、這い寄る混沌ナイアルラトホテップが右腕の触手を振ると……ハイドラの死体から光る球状の物質が浮かび上がる。

 光の球はフラフラと這い寄る混沌ナイアルラトホテップの方へ飛んで行き、接触するやその体内に吸収され消えた。


「ハイドラの現し身は最早、使い物にはなりそうもないですからねぇ。

 この段階まで育て上げた、悪意の種子は……私の遊戯ゲーム再利用リサイクルさせて戴きますよ。

 それでは………不破童士さんに灰谷彩藍さん、またお会い出来る日を楽しみに待っていますよ………ごきげんよう……………」


 台詞と共に黒い微粒子となって掻き消えた這い寄る混沌ナイアルラトホテップの上半身、その痕跡を睨みながら童士は吠えた。


 「這い寄る混沌ナイアルラトホテップっ!!

 手前テメエだけは許さねぇっ!

 次に遭う時が、手前の最期だと覚えておけっ!!」


 地底洞窟に殷々と谺する童士の叫び、その声を本人以外で聞いていたのは……二名の生者と一名の死者だけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る