第107話 彼の憂い事

(流行らないことをしている)


 短剣職に二刀流はない。


「――このまま忘れてくれるなら、見逃してあげるわ」


 唯一覆われていない少女の目元に、優しげな微笑みが浮かんだ。


「えらそうなことを……おめぇ、百武将じゃねぇな? おらのこと知らねぇんだろ?」


 ゾッカーが鼻で笑った。


 見たことのない女だった。

 同業なら百武将でなくとも知っている自信があったのだが。


「そうね。知らないわね」


「……おらがゾッカーだ。百武将随一の密偵だべ。ここで遭った以上は、死んでもらわにゃならんが」


 ゾッカーが左の頬を吊り上げるようにして笑い、白銀に輝く短剣を抜いて構える。


「あら、『ルルデミンの一等』かしら?」


 少女はこのS級短剣を一瞥すると、脇を晒して両手でポニーテールを直した。

 興味を持てないはずの年代の女に妙な艶を感じながらも、ゾッカーはここでやっと気を緩めた。


 この女は明らかに虚勢を張っている。

 この輝く短剣を見て、慄かなかった者は今までにいないからである。


 これで抉ってきた心臓は、ひとつやふたつではない。


「わざわざよじ登ってきたんだべ? おらに何の用だべ」


 ゾッカーは強気に言った。


「今しようとしたことを忘れて、帰還してほしいの。後はメメという人と幸せになればいいわ」


「……」


 開いた口が塞がらなかった。


 さっきの言葉を聞かれている。

 すぐそばで【姿隠しハイド】されていたということだ。


「……おめぇ、よっぽど死にてぇみてえだべ」


 顔が青くなっていく反面、馬鹿にされた時のような怒りが湧いてくる。


「前半の言葉は聞こえたかしら?」


 女が脅しに動じず、逆に切り返してくる。


「あん?」


「今しようとしたことを忘れて、帰還してほしいって言ったの」


 少女の言い方は優しいものの、見えない鋭さを持っている。


「……おめぇさっきから、何を忘れろと言ってるべ?」


 ゾッカーの声はもう、抑揚がない暗殺者のそれに変わっていた。


「つまり、ここが帰還リコールを使えないはずの場所だってこと」


 ゾッカーは首を傾げた。


「……わからねぇ。それをおらが忘れて、おめぇにいったい何の得がある?」


 これを忘れて報告しなければ、あの巨体の男は喜ぶかもしれないが。


「彼の憂い事はあたしの憂い事なのよ」


 女は謎の代名詞を口にした。


「……彼?」


 心臓が一瞬ドクンと跳ねて、止まった。


 何故知っている?


「………」


 それが指し示す事実に、頭が真っ白になっていく。

 そう、この女は、今、塀を昇って現れたのではない。


 「……まさか」


 この女は自分とともに、あの大広間にいた?

姿隠しハイド】して。


「あ、ありえないべ……」


 背中をだらだらと冷たい汗が流れ始めた。


 気配もしなかったし、【索敵】にも引っかからなかったのだ。


 第一、【姿隠しハイド】している自分に見つからないように過ごすことは、ゾッカーが見えていないと困難だ。


 だがもし。

 万が一、こいつにだけ、自分のことが見えていたら。


「………」


 ゾッカーの膝は、もう音を立ててしまうほど震えていた。


「このおらが、完全に出し抜かれていただと……!?」


 こんな経験は初めてだった。

姿隠しハイド】している自分を【姿隠しハイド】して観察しうる者がいるなど……。


 短剣を持つ手から汗が滴り落ちる。


(こいつは危険過ぎる)


 あの男の仲間なのは間違いない。

 どのみち始末の対象だ。


「知られたからには、生かして、おけん」


 ゾッカーが凄むが、声が恐怖で切れ切れになる。


「戦うのはやめましょう」


 少女は感情のこもらない声で言った。

 未だに武器は抜かない。


 少女が油断している今が、絶好の機会だった。


「うおぉぁぁ!」


 気合いの叫び声をあげて、ゾッカーが間合いを詰めた。

 いつもは無言の自分が。


 少女がざっ、と大きく足を開くのが見えた。

 黒のミニスカートがふわりと揺らぎ、小さな白い逆三角が覗かせる。


(殺れる)


 自分にはこの短剣がある。

 ピュアミスリル性S級武器、『ルルデミンの一等』が。


 そう言い聞かせながらも、ふとゾッカーの頭を、素朴な疑問がよぎっていた。


 ――これだけ自分を翻弄していた相手に、勝ち目などあるのだろうか、と。


(考えるな)


 よぎった考えを強引に消し去り、ゾッカーが短剣を突き出す。


 一方、やっとここで少女が鞘から抜いたのは、燃えるような真っ赤な短剣。


「……!?」


 それを目にしたゾッカーは、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。


「……か……!」


 紅蓮の枢機卿カーディナルレッド――!


【遺物級】紅蓮の枢機卿カーディナルレッド


 短剣職が憧れる真っ赤な短剣で、血を吸うたびに強くなると言われている。


 手に入れるには3匹のレイドボス討伐が必要だと言われているが、どのサーバーでも手にし得た者の名乗りは聞かなかった。


(――まずい!)


 この女、本物だ。


 しかしそう理解できたところで、もはや体は止まらない。


 ゾッカーは腰の引けた体勢で、短剣を突き出すはめになる。

 ガキンという金属音の後、ゾッカーの短剣を持った手が下から上へと跳ね上げられる。


 白銀に輝くものが宙を舞い、城の外へと飛んでいく。


 ゾッカーは腕を上に持っていかれ、一瞬、万歳したような格好で胸をガラ空きにしてしまった。


 死んだ、と思った。


 来る。

 短剣職の必殺の一撃、【致命傷の一撃クリティカルブロー】が。


 ゾッカーは心臓をひと突きにされる苦痛に耐えようと歯を食いしばり、目を閉じた。


 その瞼の裏には、あの幼女の顔。


(くそ……こんなところで)


 目頭が熱くなった。

 せっかく大金を得て、あいつと一緒に暮らせるはずだったのに。


 あの奴隷女を、まともな生活に引き上げてやれるはずだったのに……!


「………」


 しかし、いつまでたっても衝撃は襲ってこない。


 いい加減不思議になって目を開けるころに、ゾッカ―の胸にポンと何かが当たった。


「ほぁ……?」


 足元にころころと転がる赤いもの。


 林檎だった。


「――お腹空いてるんでしょう? ずっと【姿隠しハイド】ばかりだったものね」


 ふふ、と笑うと、少女はもう戦う気はないとばかりに背を向けた。


「お、おめぇ、今、殺せたはずだべ……」


 ゾッカーは青ざめた顔で、喉から絞り出すように言った。


「そうしたくないの」


 少女は紅蓮の枢機卿カーディナルレッドをそっとしまうと、両手を背中の後ろで組んだ。


(け、桁が違う……)


 ゾッカーは立っていられなくなり、膝をついた。

 急にガタガタと、体が震え出す。


 怖かった。

 そして今、ゾッカーの心を占拠しているのは、広い空を埋め尽くすほどの安堵。


(そうか、おら……)


 死にたくなかったのだ。 

 生きて戻って、あの幼女に会いたかったのだ。


 ゾッカーはいつの間にか、四つん這いになって泣いていた。

 今はただ、殺されなかったことに心底感謝していた。




      ◇◆◇◆◇◆◇




「……もうまずい時間だわ」


 暗殺者が帰還リコールで立ち去った後、少女は日が高くなりつつある空を見上げて丸い溜息をついた。


 彼はこれからこの城で、命懸けの戦いに臨むのだろう。


 どれだけ厳しい戦いになるか、容易に想像がつく。

 命を落としてしまうかもしれない戦いだ。


 来てみたけれど、自分のささいな困り事など、持ちかけている状況ではなかった。


 ふっと気が緩んだ拍子に、涙が頬を伝う。

 慌てて人差し指の腹で、その滴を拭う。


 昔のように、傍で一緒に戦いたかった。

 彼の背中を、この赤い短剣で守りたかった。


 苦しい。


 羨ましい。


(ずっと続く訳じゃない。こうやって傍にも居れる。しっかりしなきゃ)


 ああもう、ってあたしが言いたいわと口を尖らせると、少女は城壁からひらりと身を躍らせた。

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