エピソード51-3

膜張メッセ 09:00時――


 一般参加者入場まであと一時間となった。

 真琴やシズムは、部員と休憩所でお茶を飲みに行っている。

 睦美と残りの部員は、品出しの段取りを確認していた。


「こんな感じですかね?」

「イイですヨ。自然な感じで。何やらせても絵になりますねぇ……むほぉ」

 

 カメラテストを兼ねて、ブースの設営風景を右京に撮影してもらっていたユズル。

 すると、ユズルに唐突に話しかけてくる者が現れた。


「あのぉ……購入、イイですか?『お取り置き』で」

「おっと、早速購入希望者様がいらしたぁ!」


 桃魔の部員にもいそうな、長い髪をおさげに三つ編みしたメガネをかけた女性だった。

 首にはパスケースを下げている。


「へ? ああ、お待ち下さい」


 そう言ってユズルは、左京に確認した。


「左京さん、まだ早いんですけど、購入希望者が来てて、『お取り置き』をお願いしたいみたいですよ?」

「勿論オーケーですよ。販売は開場後ですが、『交換』や『取り置き』はある程度『お目こぼし』がありますので」

「そうなんだ。じゃあ、あと頼めます?」


 ユズルは後の対応をスタッフに任せようとしたが、左京にある提案をされた。


「ユズル様、接客の経験値、積んでみたくありませんか? ニタァ」

「うへっ、やらないと、ダメ?」

「いざ開場となれば、ここは戦場、阿鼻叫喚の渦となります! 安全な今、このチャンスを逃してはなりませんよ?」ズイ


 扇子で口を隠し、ニヤついている左京にそう言われ、ユズルは少し考えたあと、提案を受けた。


(ちょっと手伝っておけば、後で文句言われずに済むか……)

「わ、わかったよ。やります、やります」

「そうですか! それは良かった。 それではこれとこれを……」

「……わかった。やってみるよ」


 左京から説明を聞き、ユズルは購入希望者に向かい、笑顔で対応した。


「お待たせしました。大丈夫みたいです」パァァ

「ひゃぁぁぁ、ど、どうも」カァァァ


 ユズルの満面の笑みを浴び、購入希望者の足が若干ぐらついた。


「えと、欲しい本と、お名前をお願いします」

「……全部お願いします。名前は、『かのこ』でお願いします」カァァァ

「え? 全部、ですか?」

「はい……全部、です」フー、フー


 今回出品している『薄い本』は8冊。それを全部買いたいと言う購入希望者に、ユズルは動揺し、聞き返してしまった。


「は、はい。かしこまりました。ではこのお預かりリストにお名前を……」

「サイン、してもらえますか? ユズル様」ポォォ


 メモ帳を渡すタイミングに被せて、購入希望者はサインを求めた。

 ユズルがすかさず左京を見ると、成り行きを見守り、相変わらずニヤついている左京が、右手で『OK』のサインを送った。


「え?……わかりました」

(サインなんて考えてなかったな……こうなりゃヤケだ)


 購入希望の『薄い本』に、少女が希望する場所にサインを記入し始めるユズル。

 ここで、左京がユズルの横に来て、口元を扇子で隠し、耳打ちした。


「え? 常識なんですか?」コソ

「論より証拠です。お試しあれ」コソ


 ユズルは半信半疑で購入希望者に聞いた。


「えと、宛名は『かのこさんへ』でイイですか?」

「へ? ち、ちょっと待って下さい……」


 ユズルがそう聞くと、購入希望者は頭を抱え出した。


「ああっ! 推しに真名を教えたのは迂闊だったぁ~! 無理無理無理……宛名は『ナンシー関サバ』でお願いしますっ!」

「は、はぁ……」


 無事にサイン入りの『薄い本』の取り置きを終えた購入希望者は、ホクホク顔で自分のブースに帰って行った。

 その後ろ姿を見て、ユズルは左京に聞いた。


「左京さん、名前の件だけど、何であんなに悩んでいたの?」

「フフフ。それは恐らく、ブログ等で自慢したいのでしょう。名前を伏せると真贋を疑われますから」

「成程ね。まぁその位で済んでよかった。写真とか言われたら面倒だもんね?」

「済まなかったみたいですよ? 戻って来ました」

「えっ!?」


 左京にそう言われ、振り向くと先ほどの女性が息を切らせ、ユズルに声をかけた。


「あのっ!……写真、イイですか?」ハァハァ

「へ? あ、はい。イイですよ……」


 色んな意味で裏切らない購入希望者であった。

 薄い本のサインをしたページを持ち、希望者とツーショットのものと、ユズル単独の写真をせがまれた。

 右京が希望者の携帯端末で撮ってあげた。


「撮りますよぉ、はい、チーズ牛丼!」パシャ

「あ、ありがとうございますっ! うはぁ、もう帰ろうかなぁ」

「フフフ。まだ、始まっても居ませんよ? そうだ、ちょっとお願いが……」ごにょごにょ

「……わかりました。やってみます!」


 左京はふと何か思いついたのか、その女性と何やら交渉していた。


「では、その方向でお願いしますね! ニタァ」

「お任せ下さい! ニタァ」


 その数分後、五十嵐出版ブースに、わらわらと購入希望者が湧いて来た。


「すいませーん、お取り置き、お願いしまぁす!」

「わ、私も。あとサインと写真、お願いしますぅ」


 いきなりそう言われ、ユズルは左京、右京と顔を見合わせた。

 ある購入希望者の一人が、三人に向かって話しかけた。


「ねぇねぇ、ちょっとコレ、本当なの?」

「ふむ……ちと拝見」


 購入希望者が携帯端末を見せて来たので、左京が確認した。

 開かれたぺージは、先ほどの『ナンシー関サバ』が呟いたものだった。



『【緊急】C999 I出版、今なら取り置き8冊20セットまで可能だって。そんでもって……何と!……今ならもれなく、井川ユズル様のサインと写真撮影ができまっせ♡』



 添えられた写真は、単独で薄い本を持つユズルだった。

 そのつぶやきを確認した左京は、見せて来た購入希望者に、笑顔で返事した。


「はい。事実です。さぁお並び下さい! あと20セットですよぉ♪」 


「「「きゃぁぁ~!」」」


 つぶやきが本当だと確認されると、瞬時に行列が出来た。

 それを見た左京が、口元を扇子で隠し、ユズルに聞こえる位の音量で話しかけた。


「仕事が早くて助かりますなぁ。ウヒヒヒ」

「まさか……もうUPしたの? ブログ」

「スタート前のウォーミングアップには丁度イイです。クヒヒヒ」


 部員たちがてきぱきと購入希望者の対応をやってくれている。


「はぁい、おめでとうございます! こちらの方で20セット目です!」

「いよっしゃあ! じゃあ、お願いしますっ、くぅっ」


 流れ作業の様に次々に沸いては消えていく購入希望者たち。

 ブースに戻って来た睦美は、行列を見てうなった。


「ほぉ。取り置き組か。盛況だな」

「もうじき20セット達成です。ほんの十分弱です!」


 よく見ると、列に並んだが間に合わなかった者たちが、肩を落として帰って行く姿が見えた。

 ユズルはそれを見て、睦美に言った。


「買えなかった人、可哀そうですね……取り置きの枠を増やす事は出来ないんですか?」

「それは難しいな。サークル参加者ばかりを優遇出来んよ。一番のターゲットは、開場を今か今かと待っている一般参加者なのだからね」


 一般参加者は、早い者では午前四時半から並んでいる猛者もいるわけで、サークル参加者の方が有利な条件では、いささか不公平に思う者もいるだろう。


「なぁに。部数は大目に用意したつもりだ。今買えなかった連中にも行き届く位にな」

「そうだと、イイのですが……」


 そんな事を話していると、部員がユズルを呼んだ。


「ユズル様ぁ~! サインとお写真、お願いしまぁーっす!」

「はぁーい!」


 購入希望者にあれこれ注文され、若干引き気味に対応しているユズルを見て、睦美は呟いた。


「静流キュン、済まない。この先もっと過酷な状況がキミを待っているが、辛抱してくれ……」

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