第252話 センシティブな大人の空間

 賀藤 千鶴。有名な演出家で、私が俳優をしていた頃にはかなりお世話になった人物だ。その人物が私と話がしたいとバーにお誘い頂いた。私としても無下に断るわけにはいかないのだが、生憎千鶴さんも私も既婚者だ。そういう間柄ではないにせよ男女2人が密会のようなことをするのは社会通念上好ましくない。


「おにいちゃん。お腹空いた」


 信号待ちの運転席で毛先を弄りながら退屈そうに外の景色を見ているのは、私の妻の従妹にして私のママであるサツキ君だ。彼女ならば同行しても良いと千鶴さんは言っていた。他の人物には聞かれたくない話で、私とサツキ君にならしてもいい話。つまり、そういう件のことか。サツキ君は従姉……つまり私の妻のことを本当に慕っていた。あの事件のことを思い出させて辛い想いをさせるくらいなら……


「おにいちゃん。私は大丈夫。もう、子供じゃないから」


 気怠そうに呟くサツキ君。その瞬間、信号が青になり車が発進した。サツキ君は感受性が高いタイプのクリエイターだ。だから、私の仕草1つから心情を察したのだろう。


 近くの駐車場にサツキ君の車を停めて私たちは指定されたバーに向かった。


「すまないなサツキ君。車まで出してもらって」


「気にしなくても良い。呼び出されたのは、おにいちゃんなんだから。お互い飲んでないとできない話もあるでしょ?」


 確かに私が車で来ていたら当然のことながら飲酒は厳禁だ。


 雑居ビルの地下にあるバー。明るすぎない照明が大人な空間を演出している。カウンター席には既に千鶴さんの姿があった。他に客はいない様子だ。


窪坂くぼさか君。来てくれたのか」


 窪坂 和己かずみ。それが私の本名であり、そのまま俳優としてもその名前を使用していた。


 透明な液体と氷が入っているグラスをカラコロと鳴らす千鶴さん。酔っている感じはしてないから多分水だろう。流石に私たちが来る前から1人で飲むようなことはしないか。


「お久しぶりです。千鶴さん。相変わらずのご活躍のようで」


「ああ……仕事をしてないと気が紛れないからねえ……まあ、座んなよ」


 千鶴さんは私たちにカウンター席に座るように催促してきた。いつまでも立ちっぱなしでいるわけにはいかないので、私とサツキ君はカウンター席に座った。


「そちらの彼女は……あの子の従妹さんかい?」


「ええ。サツキ君です。お互い会うのは初めてですよね?」


「よろしくお願いします」


 サツキ君が軽く会釈をする。そして、サツキ君はいつもの地雷系メイクである。私がお世話になった人と会うと言っているのにこれである。初対面の人間相手にこのメイクで行く度胸は凄いと思う。尤も私は、こういう時はどんなメイクが正解かというのは疎いからあまり口出しはできないけど。


「サツキ……? あの子の従妹の名前は確か」


「サツキということにしておいて下さい。これが今の彼女の名前なんです」


 私は食い気味で千鶴さんの発言を遮った。危なかった。サツキ君の本名は彼女の前では決して口にしてはいけない。それが彼女の“地雷”なのだから。サツキ君の本名は別に悪い名前でも意味もない。ただ名付けられた経緯けいいが問題なのだ。実際、真実を知らなかった頃のサツキ君は自身の本名を気に入っていた。


「さて、挨拶も済んだし私の話を聞いてくれないか?」


「はい。今日はそのために来ましたから……と、その前に注文を」


 私はマスターに強めのお酒を頼み、サツキ君はソフトドリンクを頼んだ。


「私の次男がクリエイティブな業界を目指しているようなんだ……この前も3DCGのコンテストに出るとか言い出してな。将来の仕事にするというわけではないから一応許可はしたんだ」


「3DCG……?」


 サツキ君の耳がピクっと反応した。やはり、生業なりわいとしていることに関する単語は耳に残ってしまうのだろう。それとも後輩の存在に何か思うところでもあるのだろうか。


「窪坂君も知っての通り、私は子供に私と同じようにクリエイティブな道を歩ませたくない。いや、歩ませてはいけないんだ。それが私の親としての責任だと思っていた」


 例の事件が起こる前のことだった。千鶴さんはその時から自分の子供には絶対に自分と同じような道を歩ませないと言っていた。それは彼女の過去を考えれば仕方のないことだと思う。私も彼女の立場ならば、同じことを思ったかもしれない。そして、千鶴さんはその過去を子供に話せない理由わけもある。でも、何も知らない子供からしたら、理不尽に反対されていると思うかもしれない。そうした親子のすれ違いが発生していると思うとこの親子関係が不憫だと思う。


「丁度、私と一緒の仕事をしている子がいてね。その子も次男と同じコンテストに参加するのさ……で、その子に聞いたわけさ。そのコンテストは今から勉強したとして、賞を取れるのかと……その結果は、今から間に合う程甘いものではないらしい」


 千鶴さんの顔が変化する。私が知っていた千鶴さんは、自他に厳しい仕事の鬼という感じの人で、こんな寂しいような切ないような表情をする人ではなかった。やはり、自分の家族に向ける感情は他の人とは違うのかもしれない。


「その息子さんは今まで勉強してこなかったのですか?」


 私は息子の受賞の可能性がなくなったものだと思ったから、そんな表情をしているのかと思った。その道に歩ませることは反対でも、賞を取れないことを不憫に思うのかもしれない。そう感じたからだ。しかし、千鶴さんは首を横に振った。


「わからない。私はあの子のことが何にもわかってないのさ。でも、私の演出家としての勘のようなものが言っている。結果を残す演者には必ずオーラのようなものが出るものさ。コンテストについて語っていたあの子には……そのオーラが出ていた。多分、あの子は何かしらの賞に引っかかると思う。そして、それは……あの子が私に隠れて着実に力をつけていたことを意味する。まぐれや偶然で獲れるような賞じゃないからね」


「なるほど……そういうことですか」


 千鶴さんが息子さんが受賞しないことを心配しているのではない。受賞した時に、息子さんが本気でその道を目指していたことがわかってしまうことに何かしらの感情を持っているんだ。私には子供がいないから、千鶴さんの気持ちを完全におもんぱかることはできない。でも、自分が反対していたことを何の相談もなしに、子供がしていたらと思うときっと晴れ晴れした気持ちにはなれないだろう。


「次男は……昔、画家を目指していた。大人も参加しているようなコンクールで賞を獲った経験もある。あの子は才能がある。ちゃんと結果を残しているから、親の贔屓目なんかじゃない。だから、私はあの子に対して申し訳ない感情を持っている。親が私で済まない……あの子の親が私なんかじゃなかったら、今頃あの子はもっとのびのびと活動できていたかもしれない」


「その気持ちはお子さんに伝えたんですか?」


「言えるわけないさ……全てを伝えてしまったら……」


 千鶴さんはその先のことを言わなった。私とサツキ君の前だから気を遣っているんだろう。私はあの件はどうしようもなかった事故だと思っている。千鶴さんがあの話をしなかったとしても、起こり得た話だ。けれど、サツキ君は、きっかけを起こした千鶴さんのことを当時は物凄く恨んでいた。


「あの子は画家になる夢を1度は諦めた。あの子自身も自分の実力に限界を感じ挫折した結果さ。けれど、それは子供だから諦めただけで済んだのかもしれない。人間は労力をかければかける程、諦め辛くなるし、諦めた時のダメージは大きくなる。もし、そのダメージを受けたのが大人になってからだったのなら……そう思うとやっぱり私はあの子には安定した職業に就いて欲しいと思う」


 千鶴さんがグラスの中の液体をグイっと飲み干した。


「私は……千鶴さんの想いをお子さんに全て話すべきだと思います。親の心を知った上で、彼に判断させるべきかと。年齢的には高校生くらいですよね? なら、現実を受け止められる年齢かと」


「高校生はまだまだ大人のフリをした子供さ。この話をするには重すぎる……」


「千鶴さんでしたっけ? あなたは自分の子供を信じてないんですか?」


「お、おい……サツキ君!」


 横で話を聞いていたサツキ君が急に口を挟んできた。


「私もおにいちゃんの意見に賛成です。理由も知らずに芽を摘まれるお子さんが可哀相です。どうせ花を奪われるなら理由を知った方がまだ納得できます」


 千鶴さんは何やら考える素振りをして黙っている。そして、寸刻後ゆっくりと口を開いた。

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