第87話 2人だけの演奏
師匠のお願いなら無下に断ることはできない。でも、俺は歌手でもなんでもないただの一般的な高校生だ。そりゃ、バーチャルの世界では歌ってみた動画がそれなりにバズったりした。けれど、やっぱり俺の本業は歌ではないのだ。
「ダメかな? 私としては、キミの歌声で演奏してみたかったんだけど」
師匠が上目遣いでそう問いかけた。俺と師匠とでは身長の差がある分、その光景は良く映える。普段の強気な師匠とはまた違ったギャップがあり、庇護欲が湧いてくる。いけない。そんな雑念は捨てろ。背が低い女性とは言え、相手は俺より年上だ。そんな感情を抱いては失礼にあたるかもしれない。
「その……ダメじゃないです。師匠にはいつもお世話になってますし、その程度のお願いだったらいくらでもききますよ」
「そうか。ありがとうAmber君。ギターを取ってくるから少し待っててくれ」
師匠は自室がある方に向かっていった。客人を呼ぶことがあるリビングと違って、完全なプライベートな空間だ。当然、俺が立ち入ることは許されないので大人しくリビングで待ってよう。
数分後、師匠がギターケースを担いで自室から戻ってきた。
「お待たせAmber君。これからチューニングを行うから、少しだけ時間をくれ」
「ええ。いつまででも待ちますよ」
師匠が慣れた手つきでギターのチューニングを行っている。素人目でも、相当な練習を積んできたかのような手つきに見える。
「師匠はいつからギターを弾いてるんですか?」
「確か、中学生の頃かな? 親父が私の誕生日プレゼントに買ってくれたのが始めたきっかけだな」
「それって何年ま」
「それ以上言うな」
「あ、すみません」
師匠の圧に負けて、これ以上の発言はできそうもなかった。
「でも、Amber君が尋ねて来てくれたのが昼間で良かった。夜だったら流石に近隣に迷惑がかかるからな」
「師匠の部屋は防音設備はないんですか?」
姉さんが防音設備があるマンションに住んでいるから、師匠の家も当然あるものだと思ってた。師匠の方が収入が多そうだし。
「ああ。防音マンションはな。中々枠がいっぱいで入れないんだ。防音のマンションを選ぶ人というのは何かしらの目的があって入室するからな。滅多なことがない限りは出て行かないんだ」
確かに。いくらお金があったところで、そもそも空室がなければ入居することができない。既に住んでいる人を追い出すわけにもいかないし。
「ここ数年、入居競争の負けが続いていてな。私が狙っていたマンションもタッチの差で取られてしまった……そして、それを奪った相手はAmber君も良く知っている奴だ」
「ああ。アレに負けたんですね」
「そういう言い方するんじゃない」
世の中には頭が悪いけれど、変にめぐり合わせが良くて得する人間というのが存在する。なんていうか、そういうのを嗅ぎつける嗅覚みたいなものが発達しているのだろうか。羨ましくはあるけれど、尊敬には値しない。
「まあ、このマンションも生活音程度なら聞こえないくらい壁は分厚いから不満はない。楽器の演奏も9時から18時までは認められている。いらない近隣のトラブルを避けるためにこういった取り決めがあるのはありがたいことだ」
「騒音の問題は結構根深いものがありますからね。下手したら事件に発展することもありますし」
「そうだな。私としては時間帯に気にせず、好きな時間に練習したいんだけどな。そういう意味では真鈴の環境は羨ましい」
あの汚部屋を見ても環境が羨ましいと言えるのだろうか……俺は言えない。
「さてと。チューニングも終わったしそろそろ始めようか」
師匠がギターを構える。その姿からはオーラのようなものが出ていて威厳すら感じられる。長年ギターを弾いてきた貫禄がそこにはあった。
師匠の指先が前奏を奏でる。俺がかつて歌った楽曲『ブラッティータイム』だ。この曲は、生のギターソロで聴くのは初めてのことだ。そのせいか、なんだか新鮮味を感じる。
歌いだしのタイミングで俺は歌った。心なしか前よりもスムーズに歌えているような気がする。俺の歌唱力が上がっているわけではないと思う。ただ、この歌を師匠のために歌いたい。そう思うと不思議と歌声に気持ちが籠るような気がしてならない。
前までは、この曲に対して思い入れのようなものはなかった。ただ、単に気まぐれに姉さんが作った曲を歌っただけ。だけど、今は違う。師匠が所属しているバンドの曲だとわかっている状態で歌っているのだ。
師匠への恩返しをしたい。その想いで声を震わせる。
俺の歌唱が終わった後に、師匠が後奏を仕上げる。歌い終わった達成感に浸れるようなメロディだ。
弾き終わった後に師匠は目を瞑っていた。そして上を見上げスーっと目を開ける。
「私は今複雑な心境だ……」
「え? な、なんでですか!」
歌ってくれと言ったのは師匠なのに、どうして複雑な心境になっているのだろうか。
「誤解しないでくれ。いい意味だ。Amber君の歌声は素晴らしかった。けれど、私はそれを録音していなかった。だから、もう1度聞きたいと思っても聞くことができない」
「なんだ。そんなことですか。歌ってみた動画があるんだから、そっちを見て下さいよ」
「そういうことではない。今のAmber君の歌は素晴らしかった。それはライブ感によって生まれるもので、再現しようとしてもできないタイプの良さがあった」
「うーん……よくわかりません」
俺は音楽活動をメインでやっているわけではないので、その辺の事情というものはあまりピンとこないのだ。
「例えば作業中のCGのデータを間違って消した時に、もう1度同じものを再現しよようとしてもどこかしら違ってくるだろ。それと同じだ」
「確かに……消す前の方が良かったこととかありますね」
それで悔しい思いをするのは最早クリエイターあるあるだと思う。
「でも、この歌声はデータとして残さない方が良かったとも思っているんだ」
「それは何故ですか?」
素晴らしいと評してくれることは嬉しい。俺だったら自分が好きなものはいつでも見返したり聞き返したりできる状況にある方がいいと思う。
「あの素晴らしい歌声を聴いたのは世界中で私だけだ。他の誰もがもう聴くことはできない。私の思い出だけが独り占めできる歌声なんだ」
師匠の頬が少し緩んでいる。どこか嬉し気な表情だ。俺としては、そこまで評されるとなんだかむず痒く感じてしまう。俺自身は特別なことをしたつもりはないのに。
「それだったら、さっきの師匠のギターも俺だけが独り占めできる演奏ですね」
録音していなかったのはお互い様だ。師匠のギターだって、もう1度再現しようと思ってもできる保証はない。だったら、あの時の師匠の演奏は俺だけしか知らないのだ。
師匠の口元から文字では表現できないような声が漏れている。未知の生物の鳴き声を聴いている気分だ。
「Amber君はまたそうやって! どこでそういう言葉を覚えてくるんだ!」
なぜか知らないけど怒られてしまった。師匠が教えてくれた表現じゃないかとツッコミを入れようとしたけど、また怒られそうなのでやめた。
その後は、師匠と一緒に適当な雑談をしていた。話の内容はあまり覚えていない。あんまり重要な話をしていないはずだったけど、楽しかった思い出だけが残っている。
夕方になり、俺は師匠の家を後にした。名残惜しかったけれど、あんまり帰りが遅くなってしまっては家族に心配をかけてしまう。父さんはともかく、母さんはそういう所に厳しい。友人宅に泊まることは許されているけど、流石に一人暮らしの女性の家に泊まる勇気は俺にはない。師匠も俺が泊まったら迷惑するだろう。ならば、俺がとれる選択肢は遅くならない時間帯に帰るだけだ。
師匠の家に行く時はワクワクした気持ちだったけれど、帰りの電車では疲労感も相まってか物悲しい気分になっていた。
また師匠に会えるといいな。そんなことを思う帰路だった。
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