第6話 その目に映る自分
優しくて甘い声。鼓膜を震わせる聞き馴染んだ声に、一瞬ぼんやりとした。けれど何度も呼ばれて、天希は我に返る。
「な、なんで俺の電話番号、……って、個人情報は全部筒抜けか」
『え? これは昨日、あまちゃんが教えてくれたんだけどな』
「俺が?」
『そうだよ。帰ったら声が聞きたいからって、おねだりされたのに……電話はこなかったけどね』
「し、しらねぇ! そんなこと!」
『仕方ないか。あまちゃん、もうとろんとろんだったからね』
ふふっと小さく笑った声が、鼓膜にダイレクトに伝わって、天希の頬が赤く染まる。そんなおねだり、意識のある時にしたかった、と言うのが本音だ。
けれどそんなことも言えず、もごもごと口の中で、文句を呟くみたいになる。
「で、なんの用だよ」
『昨日、あまちゃんの眼鏡』
「あっ! やっぱり」
『僕もちょっと夢中になってて、気づかなかったんだけど。落として傷つけたみたいで』
「……え」
『だからあまちゃん、眼鏡を作りに行こう』
ふいに聞こえた言葉に、馬鹿みたいに反応した。次の言葉はまったく聞こえず、天希の頭の中には同じ言葉がリピートされる。
あの伊上が、自分に夢中になっていた。少しだけだとしても、自分だけを見ていた。
それだけのことに天希は胸を高鳴らせる。ふわふわとした心地に、くすぐったさを感じて、口元が緩んだ。
『じゃあ、ビルの前で待っていてくれる? 迎えに行くから』
「あ、でも仕事が」
『そんなにあるの?』
「なんか今日は忙しくて、仕事が山のようにある」
『ほかの社員はどうしたの?』
「あっ、……みんなほら、定時だし。適当なとこで切り上げて下りるから」
つい愚痴ってしまった天希は、慌てて話を切り替えた。問いかけてくる伊上の声が一段低く、機嫌が悪そうに聞こえたからだ。
これまで聞いたことのない平坦さだった。社員の職務怠慢さに腹が立った? と、考えたけれど、あまり仕事に干渉しない人であったと思い出す。
「まあ、いっか。俺が考えても、あの人の機嫌の振り幅なんてわかんねぇしな。これはキリのいいところまでやって、明日やろう」
通話を切って、時計を確認した。時刻は二十時――あと三十分と時間を決めて取りかかる。
このあと伊上と過ごせると思うと、かすみ目も辛くない。現金なやつだ、そう思いながらも、天希は鼻歌まで歌っていた。
特別なことはなにもない。ただ眼鏡を直しに行くだけ。それなのに浮かれてしまうのは、そのあとの期待があるからか。
「日付が変わればクリスマスイブだし、連れて行ってくれねぇかなぁ」
ニヤニヤと口元を緩めながら、天希はリズミカルにキーボードを叩く。いつもより捗りそうな気がした。人間というのは、鼻先にご馳走がぶら下がれば、やる気になるものだ。
しんとした広いフロア――小さな物音でもよく響く。黙々と作業を進め、気づいた時には集中しすぎて、少し時間が過ぎていた。
戸締まりの確認にきた警備員に声をかけられて、慌てて天希はパソコンの電源を落とした。
念のためスマートフォンを見たが、あちらからの連絡は来ていない。もう待っているのか、遅れているのか。わからなかったけれど、急いで身支度をする。
そわそわしながら、エレベーターに乗り込んだ頃に、手にあるものが震え、天希はとっさにそれに応答した。
「え?」
聞こえてきた声に、思わず言葉を詰まらせる。
そして一階に到着すると慌ただしく外に向け駆けだした。キョロキョロと辺りを見渡し、通りの物陰に見つけた背中に天希は走り寄る。
「雪雄!」
振り向いたのはひょろりとした背の高い、顔立ちの整った男。近づくと落ち着きない表情で視線を巡らせ、彼は乱雑に腕を掴んでくる。
挨拶もそこそこに、路地裏に引っ張り込まれた天希は、大きく息をついた。
「いままでどこに行ってたんだよ! お前のせいで俺が借金を背負ったんだぞ」
「悪かったよ」
さすがに本当に悪いと思っているのか。いつもはわりと大柄な態度をする、八つ年上の幼馴染み――雪雄が殊勝な顔をして見せる。
普段気が大きい男が弱いところを見せると、腹立たしいことも引っ込めずにはいられない。他人の保証人になるだけあって、天希の根はお人好しだった。
「こうしてきたってことは、金の算段はできたんだな?」
「……そのことだけど。このあとも引き続きお前が払ってくれ」
「はっ?」
「あ、俺も、いや、俺が元金は払うからさ。お前が払うと、半分でいいんだろ? 金利も安いし」
「なんでそんなこと知ってんだ」
「ああ、まあ、知り合いに聞いて」
眉をひそめた天希に、雪雄は視線をウロウロとさせる。その様子にまたピンときた。それに気づいた途端に、大きなため息を吐き出さずにはいられなくなる。
「雪雄、女だろ。組か会社の関係のやつに金、借りるように言われたんだろ。馬鹿だな。そういうろくでもないのには関わるなって、いっつも言ってるじゃねぇか」
昔からこの男は女に弱い。借金を作るほど、めり込むことはこれまでなかったけれど。それでもすぐにほいほい釣られて、痛い目を見る。
そもそもこれまでひどい目に遭わなかったのは、天希のおかげと言ってもいい。危なくなる寸前に手を伸ばしていたからだ。
「いい加減いい歳なんだから、自分の尻拭いくらいしろよ。来年にはもう三十だろ。子供じゃないんだからさ」
「天希」
「……なんだよ」
ふいに掴まれた腕をきつく握りしめられ、引き寄せられる。目前に迫った顔に、天希は肩を跳ね上げた。じっと見つめてくる、雪雄の目はなにかに焦っているような、必死さが滲んでいた。
「俺を助けると思ってさ」
「ちょ、ちょっ、な」
どんどんと近づいてくる雪雄から、無意識に身体が逃げる。けれど狭い路地では、あっという間に壁に追い詰められた。押さえ込むように身体を掴まれ、身動きができなくなる。
「お前、俺のこと好きだったろ」
「はぁっ? いまさら勝手なことっ……んっ」
カッと頭に血が上って、手を振り上げようとしたけれど、その前に口を塞がれた。押しつけられる唇。舌先で舐められると、ぞわりと嫌悪感が湧く。
しかしジタバタと天希がもがいても、どこからその力が出るのかと、そう思うくらいに壁に押しつけられる。
「んっ、やめっ」
確かに年上の格好いいお兄ちゃんは、天希の憧れだった。頭が良くて、なんでもできて。少しばかり態度が大きくて、女にはだらしないけれど、そういう欠点もひっくるめて好きだった。
思いあまって告白をした時は、おざなりにはせずまっすぐ謝ってくれた。
しかしそれは天希にとってもう過去の話だ。こんな形で利用されるのは、はらわたが煮えくりかえる。悔しさのあまり涙がにじんだ。
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