第7話 7月24日(火)-2 二人の買い物

 ファッションスーパーしもむらまで戻ると、彼女が怒っていた。

「ずるいよ、カズ君」

「ごめん、ごめん。つい競争して勝ちたくなっちゃって」

「意地悪したって沙紀ちゃんに言いつけちゃおうっと」

「あ、負けでいいです」

 水無月さんがようやく笑う。

「じゃあ、『アヤカ』って呼んで」

「……彩佳さん」

「『さん』はいらないよ」

「でも、『水無月』だと嫌でしょ」

「え、呼び捨て?」

「ほら、そうなるじゃん。『彩佳さん』でいいじゃん」

「全然違うのにな」

「とりあえず、今はこれで精一杯ってことで」と、僕は店内に逃げ込んだ。

 開店したばかりの『しもむら』にはお客さんはいなくて、ややぬるい空気が循環していた。それでも、外よりは断然涼しくて快適だ。入り口すぐの簡素なマネキンに帽子がかぶせてある。つばの小さい白っぽい色の麦わら帽子だ。彩佳さんが値札をめくると九百八十円と書かれているのが見えた。

「これ、安くておしゃれでいいね」

 かぶりながら僕を見る。

「似合うね」

「やっぱりほめてくれるね。ありがとう」

 そのままレジへ行くのかと思ったら、彩佳さんが思いがけないことを言い始めた。

「沙紀ちゃんがね、カズ君にTシャツ選んでやってって言ってたよ」

「え、あいつが?」

 なんでだよ。クタクタな服だと一緒にいて恥ずかしいからか。確かに、いつまでも制服でごまかすわけにもいかないだろう。でも、女子に服を選んでもらうなんて、沙紀にだって頼みにくいのに、こんなの無理だよ。

 僕は正直に言った。

「服のことはよく分からないんだ。センスないからね」

「帽子を選んでくれたから、今度は私が選んであげる」

 似合うとほめただけで僕が選んだわけではないんだけどな。

「ホントはね、変な私服も見てみたいんだ」

 彩佳さんが何かを思い浮かべながら笑みを浮かべる。嫌な予感しかしない。

「5のTシャツ」

 昔うちの母親が買ってきたTシャツだ。なぜか全体に大きく5という数字が逆さまにプリントされているのだ。何かのユニフォームとかと違って、全然おしゃれじゃないTシャツで、着ていたら、沙紀に大笑いされたのだ。

『ねえ、その5っていう数字、どこで転んで貼りついちゃったの?』

『漫画のカエルじゃないよ』

『しかも、逆さまって、数字も分からないの? 9が6になるなら分かるけど』

『いや、その方がかえって見分けつかないし』と僕のツッコミも変だった。

『どんだけ引き伸ばしちゃったのよ。拡大コピーに失敗したってこうはならないよね。いっそ、裏側まで回っちゃった方がいいんじゃないの。裏で逆さで元に戻るとか。もう何が5なのか説明してよ』

 そんなやりとりがあって、そのTシャツは夏のパジャマ用にして外では着ないことにしていた。

「あいつそんなことしゃべったの?」

「他にもいろいろ聞いちゃった」

 変な汗が出てきた。店内が急に涼しく感じられた。真夏の怪談だ。

「小学校六年生の時におねしょしたとか」

「え、なんであいつがそれ知ってるの?」

 いきなり致命的な話題が出て気が遠くなる。

「お母さんがお布団干しながら『うちの子、まだおねしょ卒業できないのよ』って教えてくれたって」

「うちの親も何しゃべってんだか」

 僕はおねしょを卒業するのが遅くて、確かに事実なんだけど、沙紀のやつ、知ってて黙っていたのか。内緒にしててばれてないつもりだったのに、なんかかえって恥ずかしいぞ。

「あとね、パンツ見てたって」

「え、それはないよ。いつ?」

「中一の時、制服のスカートが短いぞって階段の下から言われたって」

「あれは確かに注意してやったけど、見えそうだから親切に忠告したつもりで言ったんだよ」

 疑わしそうな目で僕を見ている。

「あいつさ、小学校の時は男子みたいにずっと短パンだったから、中学に上がって制服のスカートになれてないのか、急に危なっかしくなっちゃってさ」

「で、心配になっちゃったんだ」

「だって、しょっちゅうだよ。くるっとターンしてスカートがヒラヒラしたり」

「ヒラヒラで気持ちはヒヤヒヤ?」

 あれ、意外とダジャレ好き?

 自分で言って自分で照れているのがかわいい。

「ちらっと見えちゃったりした?」

「いや、だから、実際に見たわけじゃないよ」

「ちょっとがっかりしたんでしょ」

「そんなことないって」

 だんだん声が大きくなってしまう。彩佳さんが首をすくめながらそっとささやく。

「ホントに?」

「おねしょは認めるけど、そっちは絶対ないって」

 彩佳さんが笑う。

「おねしょは認めちゃうんだね」

「ああ、まあね。嘘はつかないよ、僕は。どうせバレてるんだし」

「じゃあ、信じるよ、私も」

 麦わら帽子をくるくる回しながら彩佳さんは店の奥へ進んでいく。

「男物のTシャツはどこかな?」

 信頼されるのは悪い事じゃないし、良いことも悪いことも分かち合える人というのはなかなかいない。沙紀と同じくらい近い関係と考えてもいいんだろうか。呼び名が変わったり、どんどん距離が近づいている。

 でも、近くなればなるほどなぜか最後まで縮められない何かが残ってしまうような気がした。それがなんなのかはよく分からない。僕がただ単に女の子と縁がなかったから分からないだけなのか。不安というわけでもなく、もっと曖昧なものだ。

 女の子と仲良くなるときにはこういった感覚に襲われるものなのだろうか。大知とはこんな事はなかった。一度お互いを知ったらそこにはただ居心地の良さだけがあって、くだらない話や滑ったジョークも笑って軽く受け流せる。同性だからだろうか。

 異性だとなんでダメなんだろう。

 余裕がないのか。

 そうだ経験がないから余裕がないんだ。

 僕は妙に納得してしまった。

 自分がモテない男子だと言うことに納得して安心するなんて、まあ、僕らしいや。事実だからな。

 考え事をしながら彩佳さんの後ろを歩いていたら、いつのまにか女性下着コーナーにいた。よりによってなんでこんなところで立ち止まるんだろう。

「ねえ、やっぱり男の子って胸の大きい女の子が好きなのかな」

「え、急にどうしたの?」

 ここでそんな話をしないでくださいよ。どうしたって、目が泳いでしまう。

 彩佳さんは近くのイチゴ柄の商品を手にとってサイズを確認している。

 あはは、目隠しにちょうどいいですね、なんて口が裂けても言えない。

「沙紀ちゃんすごいでしょ」

「ああ、中学になってから会ってなかったんだっけ。でも、小六くらいからけっこう目立ってたよ」

「カズ君も気になってた?」

「いや、そんなことないよ」

 嘘ではない。改めて考えてみると僕は沙紀を女子だと思ったことがなかったのだ。だから沙紀の巨乳にも関心が向かなかったんだと思う。少なくともからかったりしたことはない。

 比べるつもりはなかったのに、つい彩佳さんの胸を見てしまった。長い髪に隠れているけど、沙紀とは確かに全然違う。

「あ、私のブラね、けっこう厚みがあるのよ」

「厚み?」

「うん、ほら、そのね」

 ためらいがちに言葉をつなげる。

「ボリュームがないから、少しでも形を良くしたいというか、ね?」

 ね? と言われても返事に困る。

「沙紀ちゃんの場合は、中身が大きいから、そういう心配はいらないのよ」

 別に聞かなくてもいい情報をさっきからなんで教えてくれるんだろう。

「背ばかり伸びちゃってこっちに栄養行かなかったのかな」

 彩佳さんの髪は荘厳な滝のように胸の前で垂直にストンと落ちている。滝に打たれる修行僧のように、僕は無念無想を意識した。意識している時点で煩悩だらけだ。

 重苦しい沈黙に耐えかねて余計なことを言ってしまった。

「小学校の頃の沙紀の髪型に似てるよね」

「え、小学生なみの体型ってこと?」

「ち、違うよ。背は高いし、モデル体型っていうか、その……」

 あわてて顔を背ける。エアコンの効いた店内で汗がダラダラ出てきてしまう。すみません、タオル売ってますか?

「サイテー」

 背中をぐりぐりされる。

「罰ゲームで、変なTシャツ買わせよっかな」

「ゴメンって。おわびに5のTシャツ着てくるから、今回はカッコイイやつ選んでよ」

「しょうがないな。じゃあ、約束だよ」

 やっとのことでTシャツ売り場までたどり着いたら、彩佳さんはずらりとつるされたハンガーをさらりとなぞっただけで、すぐに一枚選び出した。

「これがいいよ」

 黒地にプロレス団体のロゴマーク入りTシャツだ。

 これ、かっこいいのか?

 まさか、さっきの失礼に対する仕返しとか?

 彩佳さんは鏡の前に移動して、僕にTシャツを当てて見せる。

「うん、似合うよ」

 そう言われると確かに鏡の中の僕は意外とイケているような気がする。今までがひどすぎたからか。

「こっちのロングTシャツと合わせてもいいかも」

 白のロングTシャツを下に当ててもう一度鏡の前に立つ。

 まるで別人だ。いい意味で。彼女のセンスがいいんだ。

 彩佳さんがふふっと笑い出す。

 あれ、やっぱりモデルがダメ?

「カズ君、楽しそうだね」

「え?」

「楽しそうな人の服選ぶのって楽しいよね」

 彩佳さんは別のロングTシャツを持ってきて、鏡の中をのぞき込む。

「うん、やっぱり、さっきの方がいいかな。ね?」

「あ、うん」

 正直僕はどちらでも良かった。彼女の選んだ物なら何でもいい。

「とりあえず、今日はこれでいいかな」

 というわけで、黒のTシャツと白のロングTシャツを買うことになった。幸い、昼食用にもらったお金を合わせてお小遣いで払える金額だった。いきなり服を買って帰って親に見せたら熱でもあるのかと心配されるかもしれない。でもこれでやっとオカンTシャツの呪縛から逃れられる。

 彩佳さんはレジでお金を払うと、僕が会計をしてもらっている間にタグをはずしてさっそく帽子をかぶっていた。

「さ、これで外でも大丈夫」

「補習が終わるまでまだ少し時間があるけどどうしようか」

「じゃあ、昨日のコンビニで待ってようか」

 今度は競争なんかしないでのんびりと田舎道を走って街まで戻ってきた。

 コンビニにはユニフォーム姿の伊佐高生集団がいた。陸上部の連中だ。部活の途中で水分補給にでも来たのだろうか。店頭に自転車を止めると、連中は急に無言になって彩佳さんの姿を目で追いはじめた。僕と目が合うと、意外そうな表情になる。まあ、確かに僕には似合わない美人だよなと納得してしまう。安心してください。ただの付き人ですから。

 僕は昨日と同じスポーツドリンク。彩佳さんは夏みかん味のアイスバーを買った。

 イートインコーナーに座るとほっとする。けっこう暑い中ずっと外にいたから気がつかないうちに疲れが出ていたらしい。彩佳さんに無理をさせていないか心配になったけど楽しそうにアイスバーをかじっている。

「ホントだ、これおいしいね。いっぱい汗かいたあとだからかな」

 汗?

 僕は確かに全身ぐっしょりだけど、彩佳さんが汗をかいていたなんて全然気がつかなかった。

「あんまり汗かいているように見えないけどね」

「そんなことないよ。けっこう体も熱いし」

 あんまりじろじろ見てもいけないかと思って僕は天井を見上げながらスポーツドリンクを一気飲みした。

 コンビニの外にいた連中がゴミ箱にペットボトルを次々に放り込んで「おっしゃー」と叫びながら高校に戻っていく。

 その様子をぼんやりと眺めているうちにまた会話が途切れてしまって、微妙な沈黙が漂う。そんな僕の戸惑いを察したのか、「カズ君は補習じゃないんだね」と彩佳さんがさりげなく話題を提供してくれた。

「うん、成績は良くないけど、赤点はなかったよ」

「夏休みの宿題はないの?」

「あるけど、そんなにないかな。先生も、どうせ出したって誰もやってこないと思ってるんじゃないかな。彩佳さんの学校は宿題出てるの?」

「もう、たくさん出てるよ。全部の科目に小冊子があって、休み明けにそれのテストもあるの」

「ふうん、うちの学校とは大違いだね」

「私たちも、今度一緒に勉強しようよ。この辺にも図書館とかあるでしょ」

 思いがけない提案に言葉が出なかった。

 勉強は苦手だし、気が乗らないけど、彩佳さんに誘われたら断るわけにはいかない。

 でも、そんなに悪い話じゃないような気がした。

 女の子と図書館で勉強するなんて、僕の人生にはなかったことだ。沙紀とはあるわけがない。三分とたたないうちに、『勉強飽きた!』とか叫びだしてつまみだされるだろう。

 なんだか急に今すぐ勉強したくなってきた。

 僕のスマホが震える。沙紀からだ。昨日と同様、補習が終わったという内容だった。コンビニで待っていると返信したら、今度は彩佳さんのバッグの中でスマホが鳴った。僕は気にしないふりで窓の外に顔を向けた。彼女はスマホを取り出してチラリと見ただけで画面を消す。

 その瞬間、またスマホが鳴る。今度は確かめようともしない。

「あ、どうぞ。返信したら」

「ううん、グループメッセージだから」

 彼女はスマホを僕に見せてくれた。部活の夏合宿で撮影した写真のようだった。

「これは何部?」

「ハンドボール部」

「ハンドボールやってるの?」

「私はやってないけど、クラスの人がね」

 写真に文化祭の時に見たのと同じ男子生徒が写っていた。なるほど同級生なのか。

 僕がスマホを見つめていると、彩佳さんが画面を消した。

「カズ君は沙紀ちゃんにメッセージとか写真は送らないの?」

「僕の方からはしないな」

 僕の方からスマホにメッセージを送ったことは、思い出す限りはない。

 いつも僕は返信専門だ。

 そりゃそうだ。

 僕の方から言いたいことなんて何もない。

 おもしろいことなんて思いつかないし、思いついたところで、それを沙紀にわざわざ教えてやらなきゃならない義理もない。必要なことは学校で言えばいい。

 またスマホがつく。

『タカユキ』という名前が表示される。

 彼女はメッセージを確認しないで画面を消した。

「大丈夫? いっぱい来るけど、返信したら」

「ううん。クラスのグループメッセージだから。電源切っておくね」

 鞄にしまうと、彩佳さんが席を立った。

「何かお菓子でも買ってこようか」

 アイスバーの棒をゴミ箱に入れながら彩佳さんが歩き出す。僕も店内をついて回った。

 お菓子売り場の新商品を眺めてから、チョコレートの棚の前で止まる。

「カズ君て、沙紀ちゃんからチョコもらったことある?」

「チョコ? あいつポテチばっかり食べてるよ」

「そうじゃなくて、バレンタイン」

 チョコと言われてバレンタインという言葉がさっぱり結びつかない非モテ男子だとばれてしまった。まあ、もうお見通しだろうから、あきらめるか。

「ないよ。あるわけないじゃん」

「どうして?」

「だって、何とも思われてないだろうし、あいつ、男子にそういうのあげたことないんじゃないかな。あったらみんな知ってるはずだからね。ここは人間関係が濃いから」

「ふうん、そうなのかな」

 彩佳さんは定番のストロベリー味のチョコを買って、またイートインコーナーに座った。

「はい、カズ君も食べて」

「ああ、ありがとう」

 彩佳さんが顔を寄せてくる。

「女子の大好物って何だか知ってる?」

「さあ、なんだろう。パンケーキとかスイーツ系?」

 僕は知る限り一番おしゃれな単語を言った。

「恋バナだよ。コ・イ・バ・ナ」

 見事に外れて恥ずかしくなった。

「カズ君って、鈍感だもんね」

「そんなことないよ」

「今何食べてる?」

「チョコ?」

「バレンタイン半年前記念だよ」

「そんな地球の裏側みたいなこと言われても気づかないよ」

 ちょうどそのとき、自動ドアのチャイムが鳴り響いて沙紀が入ってきた。

「お待たせ。あ、帽子いいじゃん」

「うん、カズ君がほめてくれた」

 沙紀が腰に手を当てて口をとがらせる。

「それより、あんたらさ、いったい何してたのよ」

「何って、しもむらに行ってきただけだよ」

「なんかさ、補習の間ずっとスマホがついてるのよ。電池減っちゃってしょうがないじゃん」

 僕が彩佳さんと一緒にいるところを街中の知り合いに目撃されて、沙紀にどんどん連絡が入っていたらしい。

「みんなあたしのことをなんだと思ってるのかね。いちいち浮気現場発見とか、連絡よこすことないのにね。密会写真撮られてるよ、あんたら」

 沙紀が僕に突きつけたスマホの写真は、望遠で最大に拡大したものだった。画像は粗いのに、だらしなくにやけた僕の顔がはっきり写っていた。

 ここは街中探偵だらけなのか。

 将来この街では絶対に浮気しないようにしようと肝に銘じた。

「あたし、あんたの保護者じゃないのにね」

 沙紀の愚痴に彩佳さんがつっこむ。

「ふつう、そこは『カノジョじゃないし』って言うところじゃないの?」

「やめてよ、彩佳、ありえないじゃん。あーやだ、なんかゾワゾワする。背中に毛虫入れられたみたいな感じ」

 そこまで言いますか。

 彩佳さんが僕を見て肩をすくめる。欧米みたいなジェスチャー初めて見た。

 僕は無理矢理話題をそらした。

「それよりお弁当持ってどこかに行くって言ってたよね」

「うん、家に用意してあるから、あたしの自転車も取ってきて、廃校に行ってみようよ。あそこ高台だから眺めもいいし」

 廃校というのは、町外れの丘の上にある古い小学校跡だ。

 中学校の社会科で人口ピラミッドの勉強をしたとき、地元の過疎化について調べたことがあった。

 その地域には戦前に金山があった関係で百戸ほどの集落があったけど、今はお年寄りが数人残っているだけで、昭和の時代に廃校になっていた小学校が地域の集会所として公開されているのだった。

 僕らは早速沙紀の家に寄ってお弁当と自転車を取ってきてから廃校を目指した。

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