第6話 7月24日(火)-1 郡山八幡神社

 沙紀と大知は今日も補習だ。赤点補習は来週月曜日まで続く。僕は大知との約束という名目でいったん学校へ行くことにした。

 朝、家を出る前にシャワーを浴びた。寝汗を流しておきたかった。できるだけ爽やか好青年でいたい。炭酸飲料を一気飲みしてもゲップ一つしないでクハーッと叫ぶイケメン俳優のような爽やかさを目指す。

「あんた珍しいね」

 口笛吹きつつドライヤーを当てていたら、出勤支度の母親に不思議がられた。うちの母親は市内にある県立病院の看護師だ。洗面所を使いたいらしく、邪魔者扱いされてしまった。ドライヤーを持ったままわきにどく。

「今日も学校行くの?」

「うん」

「あんたも補習なの?」

「違うよ。友達が補習だからつきあってるだけ。図書室で宿題やってるんだ」

「友達って、沙紀ちゃん?」

「沙紀もだけど、別の男の友達」

「お昼ご飯、お金置いておくから、適当にやってね」

 母親は先に出かけてしまった。

 ドライヤーの当て方が悪かったのか、昭和のサラリーマンみたいな髪型になってしまった。今までやったことがないから、どうやったらいいか分からない。いつもは洗いっぱなしで自然乾燥なのだ。

 もう一度グシャグシャにして、ブラシをかける。どうにもならない。無造作ヘアってことで諦めよう。結局いつもと同じだ。

 歯磨きを忘れそうになって、あわてる。磨きすぎて歯茎から血が出てきた。

 落ち着け。すべてが裏目に出てるぞ。

 危ない。昨日のカビくさいハンカチがポケットに入ったままだ。

 新しいハンカチを装備。完璧だ。

 靴を履き、玄関脇の鏡に自分の姿を映して深呼吸する。ここに鏡があったのはもちろん知っていたけど、出かける時に身だしなみを気にしたことは一度もなかった。鏡の中の僕はにやけている。残念ながら爽やかスマイルを練習している暇なんかない。

 つま先を地面にたたきつけて靴を履きながら玄関の鍵をかける。道路に出ると、今日も晴天に恵まれて、朝だというのにすでにアスファルトが熱い。もう鼻の頭に汗がにじみ出してきた。

 学校の昇降口には猫背でだるそうな連中と、暑さを跳ね飛ばすように気合いの入った連中がいた。赤点補習組と大学受験講習組だ。猫背のグループにあくびをしている大知がいた。

「やあ、おはよう」

「おう、今村。サンキュー。今日も来てくれたか」

 靴を履き替えていると、ちょうど沙紀もやってきた。予鈴が鳴る。

「何よ、あんた、また来たの?」

「べつにいいだろ」

「なんで制服なのよ」

「制服じゃないと学校に入れないだろ」

 本当は私服に自信がないからだけど、黙っていた。昨日あれだけ私服をバカにされたら、堂々と着られるわけがない。制服姿の言い訳になるというのも学校に来た理由の一つだ。勉学に励む品行方正模範生を演じることもできる。

 大知と教室に行こうとしたら、沙紀が僕を呼び止めた。

「あのさ、カズアキ、彩佳がね、帽子を持ってくるのを忘れたから買いに行きたいんだって。午前中に一緒に行ってあげてよ」

 水無月さんが僕に頼み事?

「僕でいいの?」

「あんたしかいないじゃない」

 よかった夢でも幻でもなかったんだ。それに、嫌われていたわけでもないんだ。昨夜の心配は杞憂だったんだ。天は落ちてこない。

 沙紀が僕の顔を見てにやけている。

「あんたさ、何? マジ?」

「え、なんだよ」

 口元を押さえて笑いをこらえている。

「あんた、大きくなったねえ」

 オカンか。

「彩佳があたしの家で待ってるから、今から行ってきてよ。どうせ宿題なんかやる気ないんでしょ」

「今から?」

「買い物は午前中に済ませて、補習終わったらみんなでお弁当持って遊びに行こうよ。あたし作ったからさ」

「へえ、すごいじゃん」

 みんなってことは大知も誘ってるってことだよな。いいチャンスじゃないか。

「ヤマト君も来るでしょ?」

「いや、すまん、俺はダメだ」

 なんでだよ?

 僕もだけど、誘った沙紀もガッカリした顔をしている。

「実は、うちのブルーベリー農園の手伝いをすることになっててさ」

「ヤマト君の家って、ブルーベリー農園やってるんだ?」

 沙紀が興味深そうに尋ねる。

「観光向けの日銭稼ぎだな。道の駅に出したり。田んぼよりも現金になるからな」

「じゃあ、今度みんなで遊びに行ってブルーベリーパイ作ろうよ」

「お、おう」

 甘い物苦手なくせに。

 でもいいきっかけにはなるだろう。よかったじゃないか大知。今日は残念だけどな。僕が大知の分まで楽しんでこよう。

「なあ、帽子買うのはどこがいい?」

「この辺で帽子が買えるって言ったら、『ファッションスーパーしもむら』しかないでしょ」

 国道沿いの全国チェーン店だ。ここ以外だと、山を越えた姶良のショッピングモールになってしまう。このへんの高校生はみな『しもらー』だ。

「歩きは遠くないか?」

「うちの自転車使っていいよ。鍵は玄関にあるから適当に合わせてみてよ。あんたは自分のあるでしょ。彩佳のスマホにあんたが行くって連絡入れておくからね」

 そう言い残して沙紀は大知の背中を押しながら補習に行ってしまった。

 大知もがんばれよ。

 僕はすぐに靴を履き替えて外に駆けだした。

 僕のことを待っている。

 沙紀はそう言っていた。

 また会える。しかも二人きりだ。

 家に戻って自転車を取ってきてから沙紀の家に向かった。急ぎすぎて沙紀の家で止まりきれずにブレーキが派手にキイッと鳴り響いた。

 インターホンを押そうとして、急に手が震える。また不安に襲われる。

 浮かれすぎじゃないか。相手はただ帽子を買いたいだけで、仕方なく僕に道案内をさせたいだけなんじゃないか。スマホで場所を調べたから一人で行ける、と断られるんじゃないか。

 震える手をおさえながらボタンを押す。心臓が二倍速になったような感覚に襲われる。

 反応がない。

 玄関脇の駐車場に軽自動車がとめてあって、その裏側に自転車が二台並んでいる。白と赤だ。白がいつも見かける沙紀ので、赤はおばさんのだろう。

 もう一度押そうかと思った時にドアが開いた。

「あ、おはよう。来てくれたんだ。ありがとうね」

 水無月さんだ。トートバッグを肩にかけて、すっかり出かける準備ができていた。

 彼女はまったく変わらず接してくれる。さっきまでの不安が吹き飛んでいく。

 上は淡い色合いの白と茶のボーダー柄、下がデニムレギンス、髪型は昨日と同じで前に垂らしているけれど、前髪を編み込みにしてあって、雰囲気が違っていた。僕は見とれてしまった。

「どうしたの?」

「あ、髪型が昨日とちょっと違うなって」

「うん、沙紀ちゃんがやってくれたんだ。どうかな?」

「あ、ああ、いいね」

 水無月さんがくすくす笑い出す。

「うふふ、笑ってごめんね」

 どうしたんだろう。何かしくじっただろうか。

「和昭君って、女の子の髪型に気がつくんだなって。意外だなって思っちゃった」

「あ、うん、すごく分かりやすかったから」

 さりげないふりをしたつもりだけど、本当は釘付け鷲掴みの虜状態だ。

 水無月さんが人差し指を立てる。

「さて、問題です」

 問題?

「今朝の沙紀ちゃんの髪型はどんなふうだったでしょうか」

 沙紀の髪型?

 いつもと同じだろ。

「え、何か変わったところあったかな?」

「さっき学校で会ったんでしょ。スマホに連絡くれてたもん」

 全然気がつかなかったぞ。気にもしなかったぞ。

 仮に髪型が変化していたとしても、それを沙紀に言おうものなら、一言『キモイ』と言われて終了だ。

「前髪少し切ったんだよ。私がカットしてあげたの」

「そんなの分からないよ」

「沙紀ちゃんがっかりするよ」

「しないよ。逆に、『髪切った?』なんて聞いたら、変態扱いされるよ」

「そんなことないよ。照れてるんじゃないかな。ホントは内心喜んでると思うよ」

 ふつうの女子はそうなのかも知れないけど、沙紀は違うと思う。

 でも僕がそう思いこんでいるだけなのだろうか。

 あいつは中学の頃に男子達に変なふうにからかわれることが多かったから、素直に受け止められなくなっているのかもしれない。今まで気がつかなかったけど、本当はあいつもおしゃれに気づいてふざけないでちゃんとほめてくれる男が現れるのを望んでいたのかもしれない。大知に教えてやったらうまくいくかもしれない。

 玄関には沙紀の言っていたとおり自転車の鍵があった。鍵も白と赤で分かりやすい。

「帽子を買いに行くんだよね?」

「うん、ファッションスーパーしもむらがあるって沙紀ちゃんが言ってたから」

「少し遠いから自転車で行こうよ。外のやつ使っていいってさ」

「じゃあ、案内よろしくね」

 外へ出ると水無月さんはおでこに手を当てて空を見上げた。

「うわあ、今日も朝から暑いね」

「帽子がないと大変だよね」

「和昭君は?」

「いつもかぶってないな」

「大丈夫なの」

「水飲むから平気」

「そういう問題?」

 本当は子供のころから頭がかゆくなるから帽子をかぶったことがないのだ。

 水無月さんはデニムレギンスの脚がすらりとしていて、隣に並ぶと僕の短足が強調されそうだ。

 赤い自転車の横に立つと、サドルの位置が一番下で、彼女には低すぎるようだった。

「少しサドル上げた方がいいね」

「勝手にいじっちゃっても平気?」

「後で戻しておけばいいよ」

 僕はネジをゆるめてサドルを調整した。

「ありがとう。器用だね」

 僕は気になることを尋ねた。

「乗れるんだよね?」

 水無月さんが少し頬を膨らませながら笑う。

「当たり前でしょ。うちの方だって自転車がないと生活できないよ」

「幕張って大都会だと思ってたから、もしかして乗ったことがないのかなって」

「そんなに都会じゃないよ。畑とか林なんかも残ってる地域だよ。青木昆陽がサツマイモの研究してたようなところだから」

「教科書に載ってた人か。サツマイモなのに鹿児島じゃなくて千葉なんだね。伊佐には地元の有名人なんていないな」

「新納忠元は?」

「ニイロタダモト?」

「島津の家臣で勇猛果敢な武将だよ」

「へえ、知らないな。教科書に出てた?」

「教科書に出てなくてもすごい人はいっぱいいるでしょ」

 そりゃそうだな。

「あの豊臣秀吉が島津にはすごい家臣がいるって感心したほど優れた武将だよ。伊佐の忠元公園って桜の名所なんでしょ」

 ああ、あの沙紀と大知がメジロの話をしたというあの公園か。

「地元だけど、そういう名前だったとは知らなかったよ。歴史にくわしいんだね」

「うん、私、歴史は好きなんだ」

「めずらしいね」

 僕はふと沙紀のことを思い浮かべた。あいつは歴史には全く興味ないだろう。過去のことなんて昨日食べた夕飯だって思い出せないようなやつだし、僕と喧嘩しても昔のことは根に持たない。男前女子だな。

「歴史とか戦国武将好きの女子ってけっこういると思うよ。二次元で扱いやすいからね」

「二次元?」

「あ、漫画とかアニメのことね」

「そういうのもよく見るの?」

「スマホで見るよ」

「ああ、そうなのか」

「スマホといえば、ねえ、和昭君」

 急に水無月さんの表情が硬くなって詰問口調になった。

「昨日の夜、連絡来るかと思ってずっと待ってたのに」

「え?」

 彼女も僕のことを思ってくれていたのか。思わずにやけそうになるのをこらえた。そんな顔をしたらよけいに機嫌を損ねてしまう。

「沙紀ちゃんとおしゃべりしながら、スマホが鳴るのずっと待ってたんだよ」

「ゴメンね。夜遅いと迷惑かと思って」

 素直に反省の意を表したら彼女もまた柔和な表情に戻った。

 実際、昨晩どれだけ僕も頭を悩ませたか言いたいくらいだけど、モテない認定されるだけだから言葉を飲み込んだ。

「つまんないなって言ってたら、沙紀ちゃんが頭撫でてくれたからいいよ」

 女子会というやつか。大知と僕だと想像したくもない。

 立ち話をしていたら沙紀のお母さんが出てきた。スーパータイヘーヨーに出勤するらしい。

「あら、あんた達、まだいたの?」

 ずいぶん話が長くなっていたようだ。

 おばさんは歩いて出かけるようだった。

「自転車はいいんですか」

「いいのよ、お昼から沙紀も使うっていってたから。二台とも使ってちょうだい。カズ君、彩佳ちゃんのお世話してくれてありがとうね」

「あ、いえ、どうも」

「車に気をつけてね」

 おばさんが行ってしまって、僕らも自転車をこぎ出した。

 住宅地の中を進んで国道まで出る。国道は古い街道そのままで、畑や田んぼの広がる田舎の風景の中を緩く蛇行しながら北に向かっている。この先の山を越えれば熊本県だ。

「来たことがない場所なのになんだか懐かしい気がするね」と僕の後ろをついてくる水無月さんがはしゃいだ声を上げた。

「古くて田舎だからじゃないかな」

 べつに駄菓子屋があるわけでも、カレーや蚊取り線香の看板が掛かっているわけでもない。ランニングシャツのガキ大将もいないし、風で飛んだ麦わら帽子を追いかける女の子もいない。

 強いていえばセミの鳴き声くらいか。

 でも、確かにそんな感じのする土地だ。

「時間の流れがのんびりだよね」

 といえば聞こえがいいけど、空気がよどんでたまっているからかもしれない。

 田舎の風景が途切れて薄桃色の建物が現れた。

「わあ、しもむらだ」

 ファッションスーパーしもむらに到着すると、水無月さんが歓声を上げた。

「うちの近所にもね、しもむらがあるの。このボーダーもしもむらなんだよ」

「あ、そうなんだ。おしゃれだよね」

 水無月さんがはにかむ。

「和昭君って、素直にほめてくれるよね」

 いけない、また調子に乗ってしまった。でしゃばるな。空気になれ。

 まだ時間が早すぎて開店していなかった。あと三十分くらいある。

「ここで待ってたら暑いよね。この先少し行ったところに神社があるから行ってみようか」

「うん、いいよ」

 僕らはまた国道に出て、ペダルをこいだ。

『焼酎発祥の地』と言われる郡山八幡神社はすぐ近くだった。

 それほど大きな神社というわけではないけれども、奥深い鎮守の森に囲まれているせいか、厳かな雰囲気が漂っている。鳥居の奥に続く参道の両側には朱塗りの灯籠が並んでいて、石垣にびっしり生えた苔が歴史を感じさせる。

 玉砂利が木漏れ日を反射して森を下から照らしている。空間が浮かび上がるような不思議な感覚にとらわれる。

 平日だからか僕たち以外に参拝客はいなかった。

 自転車を止めて石段を上がろうとしたとき、僕は思わず叫んでしまった。

「どうしたの?」

 後ろから来た水無月さんが心配してのぞきこんでくる。ふんわりといい香りが漂って思わず息を吸い込む。昨日のコンビニの時とは違う香りだ。逆に自分が汗くさくないか心配になってしまった。

「カマキリがいてさ」

 石段の手すりにカマキリがぶら下がっていたのだ。気づかずにつかんでしまいそうになって思わず声が出てしまったのだ。

 ものすごくカッコ悪い姿を見せてしまった。

 水無月さんがカマキリをつかんで脇の植え込みの上に乗せる。

「虫、平気なんだね」

「カマキリは平気かな。背中からつかむと挟まれないし」

 なんだか意外な感じだった。ますます僕のヘタレ具合が際立ってしまう。

「いや、あの、突然というか、気がつかなかったからびっくりしただけだから」

 聞かれてもいないのに、余計な言い訳までしてしまう。

「手すりの陰にいたんでしょ。それはびっくりするよね」

 水無月さんはあまり気にしてない様子で、神社の由緒書きを読み始めた。歴史好きと言うだけあって、熱心だ。

 平安時代からある神社で、ここで見つかった戦国時代の木片に『修理をしたのに施主がケチで焼酎を振る舞ってくれなかった』という愚痴が書かれているのが『焼酎』という言葉の最古の使用例なんだそうだ。

「ふうん、愚痴っていうのがおもしろいね」

 興味深そうにうなずく水無月さんに調子を合わせて、とりあえず僕もうなずいた。

「へえ、そうだったのか」

「あれ、知らなかったの?」

 地元の人間だけど、全然知らない話だった。

「小学校の頃に課題学習で沙紀と調べに来たような気がするけど、全然覚えてないな」

「お酒の話だから、子供だとピンと来なかったのかもね」

 水無月さんは奥の社殿に向かって進んでいく。ちゃんと手をすすいで、掃き清められた参道の端を歩いていく。朱塗りの柱に白壁の社殿は緑の濃い森の中にひときわ鮮やかにたたずんでいた。

 二人並んで神前に立つ。二礼二拍手。水無月さんは目を閉じて何かを祈っている。

『水無月さんと会えたことを感謝します』

 僕は新しく何かを願うのではなく、お礼を言った。

 凛とした空気の中、ほんの一瞬が、ずいぶん長く感じられた。お参りを終えた水無月さんが一礼して僕の方を向く。

「和昭君はなんてお願いしたの?」

「あ、ええと」

 僕は言葉に詰まってしまった。

 君に会えたことを感謝していたなんて、そんなポエムみたいなセリフ、間違っても言えない。

 僕は彼女に嘘をついた。

「沙紀の補習がうまくいくようにって」

「ホントに?」

 うん、と僕はうなずいた。

「水無月さんは?」

「内緒だよ」と微笑みながら首をかしげる。

「え、ずるいよ」

「だって、人に話しちゃったら、願いが叶わないんでしょ」

「あ、そうか」

「あとで沙紀ちゃんに謝っておかないとね。補習はうまくいきません」

 大丈夫、祈ってないからとは言えなかった。

 それより、そもそも聞かないでよと抗議しようとしたら、彼女はくるりとかかとで回転しながら参道を戻り始めた。イトコだけにこういうずるいところは沙紀と似ている。それともただ単に僕がもてあそばれているだけなのか。頭の中で思考が空回りしているうちにだいぶ距離が開いてしまった。僕はあわてて追いかけた。

 参道脇に記念撮影用のベンチがあって、水無月さんがちょこんと座って手招きしている。

「ね、写真撮って」

 僕はスマホを取り出してカメラを向けた。画面の中の彼女が僕に満面の笑みを浮かべている。

 緊張しすぎてボタンを押す手が震えて連写になってしまった。昨日は目を閉じたり、撮る方も撮られる方も下手だ。

「和昭君って、写真撮るときって、かならずお約束をやるよね」

「普段撮らないから下手なんだよ」

 立ち上がった彼女にスマホを渡すと写真を確認して僕に返してくれた。

「じゃあ、今度は和昭君ね」

「え、僕はいいよ」

「座りなさい」

 先生が生徒に指導するみたいにベンチを指さす。仕方なく僕は腰掛けた。そのとたん、彼女が駆け寄ってきて僕の隣に座るなり顔を寄せてきた。スマホを突き出して自撮りする。突然のことに何の対応もできず、目がまん丸になってしまった。

「びっくりしたでしょ」

 うん、とうなずくのが精一杯だった。

「写真を拒否したから罰ゲームです」

 彼女のスマホ画面に映る写真は、真顔の僕と微笑み美少女のとてもじゃないけどフォトジェニックとは言えないものだったけど、フレームの中にちゃんと神社が収まっているのが見事だ。女子高生ってすごいな。

「じゃあ、データ交換しよ」

 僕らはお互いのスマホを並べて写真を交換した。

 境内には誰もいない。木立に囲まれた清浄な空間に僕ら二人きりだった。

 でも、静謐というわけではなくて、セミの鳴き声や野鳥の鳴き声がひっきりなしに響き渡っている。二人で話そうとすると、野鳥にひやかされるみたいに、鳥の鳴き声が被さって聞き取りにくい。自然とお互いに顔を寄せ合うような格好になってしまった。

 ベンチに座ってスマホの写真を眺めながら水無月さんがつぶやいた。

「鹿児島の男の子って、西郷さんみたいな人ばかりかと思ってた。上野の銅像みたいな感じ」

「あれの元になった写真が本人じゃないらしいよね」

「和昭君と同じで写真に興味なかったのかもね。薩摩隼人は質実剛健」

「僕は鹿児島生まれじゃないんだよ」

「あ、沙紀ちゃんと同じ? 引っ越し組?」

「僕は茨城の土浦市だけどね。引っ越してきたのは同じタイミングだったんだ」

「へえ、茨城かあ。千葉と茨城って『チバラキ』って一緒にされるよね」

「保育園の頃まで住んでいたけど、あんまり覚えてないよ」

「土浦って、霞ヶ浦のそばだよね」

「大きな湖だね。父親に連れられて行くと、次の日必ず熱を出していたから、あんまりいい思い出がないな。風が強くて体が冷えちゃったんだろうね」

 僕は子供の頃、霞ヶ浦の湖畔のような自然の中で遊ぶとどういうわけか必ず熱を出した。自分はひ弱な子供なんだろうかと思いこんでいたくらいだ。

 でも、中学の頃は沙紀にうつされたインフルエンザで休んだだけだったから、結局のところ、よく分からない。霞ヶ浦の河童の呪いだろうか。あれは牛久沼だったっけ?

 僕にとっての茨城なんて、その程度のものだ。正直、関心は薄い。

 そんなとりとめのない僕の話を彼女は微笑みながら聞いてくれている。とたんに、楽しんでいるのは自分だけかもしれないぞという不安がわきおこって急に動揺してしまう。昨日から、安心と喜びに不安と動揺が必ずくっつくようになってしまった。フライドポテトみたいなものだ。単品で売ってほしい。

「土浦の家から霞ヶ浦に行くときにね、川沿いのサイクリングロードを通るんだけど、僕はまだ小さくて補助輪が取れたばっかりだったから、高い堤防の道から下に落ちないかって怖かったのを覚えてるな」

「和昭君って、けっこう怖がり?」

 さっきのカマキリでバレバレだろう。

「うん、そうだね。特に高いところは苦手」

 水無月さんがふふっと笑う。

「え、どうしたの?」

「見栄張らないんだね」

「ミエ?」

「男の子って、自分を強く見せようとするじゃない? かっこよくとか、かしこくとか、自分を大きく見せようとするじゃない。なのに、和昭君はあっさり認めちゃうんだもん。おもしろいなって」

 ああ、そうなのか。そういうものか。

「いい人なんだね」

 彼女は真っ直ぐに足を伸ばして森を見上げながら微笑んでいた。

 これはほめられたって事でいいのだろうか。女子にほめられたことがないから素直に受け取っていいのかすら分からない。

 イケメンだったら、『よく言われるよ』なんてジョークで軽く笑いも取れるんだろうけど、僕が言ったらしらけるだけだ。また一人で勝手に落ち込んでしまった。

 僕は内心の動揺をごまかすために、無理矢理話を元に戻した。

「でも、ホント、それくらいしか記憶にないよ。茨城のことは覚えてないや」

「私も沙紀ちゃんとは小学校前までは姉妹みたいに遊んでいたけど、沙紀ちゃんが鹿児島に引っ越しちゃってからは全然会ってなかったんだ。中学に入る前の春休みに一回だけ千葉に来てくれた時だけかな」

 そういえばあいつ、夢と魔法の国に行ったって自慢してたっけ。

「遠いもんね」

「だから正直、前みたいに調子が戻るか心配だったんだよ」

「へえ、そうなのか」

「カズ君が間にいてくれて良かったよ。いきなり二人だと気まずかったからね」

 猪原みたいな事を言われてびっくりした。

「あ、『カズ君』って呼んでいい?」

 それもまたびっくりだった。改めてそう言われると、意識してしまって何も言えなかった。僕が黙っていると彼女は口を尖らせた。

「私のことも『アヤカ』って呼んでいいから」

 ムリムリ。名前なんかで呼べないよ。心の中で呼ぶだけでも照れくさい。

 昨夜の練習を思い出したら、ますます恥ずかしくなってしまった。そんなのがばれたらモテない男子認定でゲームオーバーだ。リセットして課金しても元には戻れないだろう。

 顔が熱くなって熱を冷ますように首を振っていたら、水無月さんが頬も膨らませた。

「カズ君は沙紀ちゃんのことを『サキ』って呼ぶでしょ」

「いや、あいつのことは『おまえ』って言ってるかな」

「わあ、なんか昭和の夫婦みたい」

「夫婦とかそんなんじゃないし」

「あ、和昭君だけに、昭和って?」

 ジョークが下手すぎてつい笑ってしまった。彼女も照れくさそうにしている。その表情がとてもかわいくてこの瞬間が止まってしまえばいいのにと思った。

「ま、いいや。そのうち絶対『アヤカ』って呼ばせてみせるからね。勝負だよ」

「勝負?」

「『アヤカ』って呼んでくれたら私の勝ちね」

 もう勝負は負けだ。

 昨晩、僕は何度『アヤカ』と呼んだだろう。

「勝ったら何かあるの?」

「私がうれしい、かな」

「じゃあ、負けたら?」

 彼女が首をかしげて口をとがらせる。

「ねえ、カズ君。この勝負で私が負ける可能性ってあるの?」

 あ、そうか。そんな結末だったら、天が落っこちてくるのと同じか。たらいの落ちてくる昭和のコントみたいに、僕に直撃して終わりだ。

「ああ、まあ、その……少し時間をください」

「うん、絶対言わせてみせるからね」と片目をつむってみせる。

 ウィンク下手なんだな。

 イトコだけにこんなところも沙紀に似ている。

 彼女を観察していてもあまり緊張しなくなっている自分に気が付いて、かえって顔が熱くなってしまった。鼻の頭に汗がにじんであわてて拭く。そんな僕を見て、また水無月さんが微笑む。

 止まれ。

 僕の一生がこの一瞬だけになるように。

 時よ止まれ。

 不謹慎にも神社で叫びたくなってしまった。僕はスマホの時刻を確認してから、そろそろ買い物に行こうと声をかけて自転車のところまで戻った。

 抑えきれない気持ちをエネルギーにして自転車をこぐ。

 こんな夏休みは生まれて初めてだった。

「待ってよ、カズ君」

 追いかけてきてくれ。

 僕はもっと勢いをつけながらそう祈った。

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