第5話 7月23日(月) 彩佳来訪

 週明け月曜日。

 赤点補習が始まった。

 僕は大知との約束を果たすために学校へ行った。教室には補習組の連中とは別に、優秀組のやつらも来ていた。別の教室で、大学受験向けの講習会があるらしい。僕らとは無縁の世界だ。

 ふだんと同じように予鈴が鳴って沙紀が駆け込んでくる。僕の姿を見て笑い出した。

「なによ、あたしに会いに来たの?」

 大知と沙紀の間を取り持つために来たなんて言うわけにはいかないから、僕は適当にはぐらかした。

「そんなわけあるかよ」

「じゃあ、なによ」

「宿題でも片づけようかなって」

「じゃあ、終わったら写させてね」

 そんなんだから赤点なんだろうという言葉を飲み込んで、僕は大知の背中を押した。早く『埼玉クイズ』を出さないと補習が始まるぞ。

 直立不動の姿勢で大知が沙紀に話しかけた。

「なあ、皆川、埼玉県の県庁所在地はどこか知ってるか?」

 そのまんまじゃないかよ。週末に一生懸命考えてそれかよ。少しはひねれよ。大知のケツをひねってやりたくなる。

「それくらい知ってるよ。『さいたま市』でしょ。平仮名なんだよね」

 あれ、ふつうだな。

 大知もがっかりしている。

 問題が簡単すぎてふつうに答えられたからか。僕は別のやり方を試してみた。

「なあ、沙紀、東京の南って何県だ」

「南ってどっち? 上? 下?」

「下だな」

「横浜だっけ」

「それは県庁所在地だろ」

「県は何だっけ」

 首を傾げて考えている。

「『か』で始まるやつ」

「鹿児島?」

 おまえ、今どこにいるんだよ。

「か……?」

 全然出てこないらしい。

「神奈川県だろ」

「ふうん、そう」

 まるで関心もないらしい。

「じゃあ、東京の上は何だよ」

「たいたまけん」

 大知の顔が輝く。

「鳥取と島根はどっちが右か分かるか」

 僕の質問に沙紀が即答する。

「右が鳥取で左が島根じゃん」

 なんでそこは間違えないんだろう。

「あたし、島根と鳥取は間違えないよ。区別つかないとか、意味分からないし。全然違うじゃん。砂丘あるし。神奈川と『たいたま』の方が分かりづらいよね」

 世の中でアンケート取ったら、逆の結果になるんじゃないか。

 沙紀の『たいたま攻勢』で大知が蜂蜜を浴びた熊みたいな顔になっている。

 ちょうど補習の先生が来たので僕は退散する。

「僕は図書室に行って宿題をやるよ」

「ふうん、どうせ寝るんでしょ」

「そっちこそ再補習になるなよ」

 沙紀が右手でパンチを繰り出す。顔は笑っている。

「宿題写させてくれたら許す」

 僕は廊下に出て、図書室へ向かった。北向きの廊下は少しだけ空気がさわやかだ。渡り廊下に出ると、むわっとした熱気がまとわりつく。この高校の渡り廊下は窓がなく、むき出しだ。雨の時は濡れるし、ふだんは砂埃がたまっていて、上履きが汚れる。

 でも、なんとなく開放的な空間で、僕は好きだ。ここに来ると、つい校庭を眺めてしまう。あっさりと県大会一回戦負けした野球部が練習をしている。三年生が引退して、部員は七人しかいないらしい。それでも声を張り上げて捕球練習をしている。

 僕は中学の時からずっと帰宅部だ。スポーツも文化系も興味がわかなかった。何かやりたいことなんてなかった。学校が終わったら家に帰ってだらだらする。本や漫画を読む趣味もないし、もちろん勉強なんてどうでもよかった。

 それでも退屈しなかったのは、沙紀も帰宅部だったからだ。何となく放課後にぶらついてどうでもいい話をしてふざけあう。そんな時間をずっと過ごしてきたし、そんな時間の消耗に疑いを感じたことすらなかった。

 向上心や生産性なんてものを気にしながら生きてきたことはない。どんよりとした未来しか待ちかまえていないのに、それに立ち向かったところで返り討ちにあうだけだ。ならば、現状を肯定して無為に過ごすのが一番消耗しなくて済む。

 ただ、野球部の連中のように、何かに打ち込む人を揶揄するつもりもない。僕とは違う人間なんだと思っているだけだ。お互い平行なレールの上をたどって同じ時間を過ごしている。右側と左側に分かれているだけで、向こうは先に進んでいるつもりかも知れないけど、錆びたレールの上を進んでいるのは変わらないのだ。

 午前中、僕はエアコンの効いた涼しい図書室で夏休みの宿題に取り組んだ。といっても、時々居眠りしながらで、結局数ページしかすすんでいない。ある意味予定通りだ。

 十一時過ぎにチャイムが鳴って沙紀が図書室に駆け込んできた。手にはスマホを持っている。居眠りしていて気がつかなかったけど、補習の休み時間になったらしい。

「あ、いたいた。ねえ、カズアキ、今からバスセンターまで行ってきてよ」

 いきなり何を言い出すんだ。

「イトコね、午後かと思ったら昼前に着いちゃうんだって。迷子にならないように迎えに行ってやってよ」

「何で僕が。知らない人だし」

 案内役の話は聞いていたけど、出迎えまで頼まれるとは思っていなかった。今すぐ雨よ降ってくれ。

「うちの母親も仕事でさ。誰もいないのよ」

 スーパーのパート仲間の子供さんが熱を出したそうで、代わりに出勤したらしい。

「美少女がいきなり見知らぬ街で困ったらかわいそうでしょ」

 また美少女か。この世にそんなものいるのかよ。捜索願出すか。警察よりも、CIAとかNASAとかに。未知の生命体だからな。

「水無月彩佳っていうの。写真はこれ」

 沙紀が示したスマホの画面には、女子高生三人で撮った自撮り写真が映っていた。友達同士で撮った物なんだろうけど、動物の顔になるデコレーションのせいで誰が誰だか判別できない。

「ほら、これだよ」

「ウサギとリスと、これは犬?」

「猫でしょ」

「どっちでもいいよ。それより、どれ?」

「真ん中のウサギの子」

 みんな同じ顔だよ。

「昔と変わらないよ。相変わらずかわいいよね」

 昔とか知らないし。デコって盛ってあったら誰だか分からないよ。

 目なんかメジロよりまん丸で黒目がでかいよ。補正しすぎでそれこそ未知の生命体だ。分かるのは髪が長いということくらいだ。

 女子高生はお互いにこういうのが判別できるのか。

 チャイムが鳴る。次の補習の始まりだ。

「あ、もう行かなくちゃ。じゃあ、よろしくね」

「めんどくさいな」

「どうせ寝てたくせに。ヨダレ跡拭きなよ」

 バレてたのでは仕方がない。僕は荷物をまとめて沙紀と一緒に図書室を出た。

 教室前で別れて、一人、昇降口から外へ出る。校舎内の空気がよどんでいたのか、外に出た瞬間、ほんの少しだけ風が吹いて涼しさを感じた。でもそれはまったくの幻覚で、次の瞬間、一気に真上からの日差しに押さえつけられる。ここからバスセンターまでは歩いて十分くらいだ。中途半端な距離だ。

 アスファルトからの熱が靴底を通して伝わってくる。空気が揺らいでいる中をまっすぐに歩く。学校正面の道を進んで県道に出ると、交差点角のコンビニ前に伊佐高生がたむろしていた。女子三人組で、おそらく二年生の先輩達だ。ジャージやスエット姿で、髪といえば縛るだけ。日焼け止めも塗っていないから顔が赤黒くなっている。この辺りの女子高生といえばみんなあんな感じだ。沙紀が美人に思えてくるような世界なのだ。

 信号待ちの間になんとなく眺めていたら、目が合ったような感じになっていきなり舌打ちされた。そんなに近づいたわけでもないのに、ここまで聞こえてくる。

 いたたまれずに僕はバスセンターに向かって逃げ出した。

 通りに沿って柳の街路樹が並んでいて、提灯がぶら下げられている。今度の土曜日に町内会の夏祭りがあるのだ。真っ昼間に見る提灯は色あせた感じで、寂しげだ。最近飾られたはずなのに、去年のお祭りからずっと放置されていたかのようなわびしさを感じる。

 少子化で子供会の神輿を担ぐ子供が減って僕みたいな軟弱な子まで無理矢理かき集められたものだ。生焼けのタコヤキを食べておなかを壊したり、翌日に熱を出したり、あまりお祭にいい思い出がない。

 今も通りには人影がない。この街でお祭りなんてできるんだろうかと心配になるくらい閑散としている。猛暑の中、出歩くお年寄りなんていないんだろう。

 シャツが背中に貼りつくほど汗をかいて、ようやくバスセンターに着いた。でも、誰もいない。時間はちょうどのはずだ。

 車庫にバスが二台駐車してあるけど、運転手さんはいない。

 まだ着いていないのか。僕はこの暑さの中待っていなければならないかと思うと、帰りたくなってしまった。思わずため息が出る。

「沙紀ちゃんの、お友達、……ですか?」

 急に横から声をかけられてびっくりした。

「あ、そうです。今村です」

 振り向くと水色のワンピースを着た美少女がいた。やばいCIAとNASAに緊急連絡。この世に美少女は実在した。繰り返す、この世に美少女は実在した。

 胸まで伸びた豊かなストレートヘアを軽く揺らしながら美少女が僕に微笑みを向けていた。

 デコメより本物の方がいいじゃないか。

「びっくりさせてごめんね。私の他に誰もお客さんがいなくて、空港バスがちょっと早めに着いちゃってたの」

 彼女は急に声をかけたのがいけなかったと勘違いしているらしい。僕が女子慣れしていないせいで動揺していることには気づいていないようだった。

「皆川のイトコの水無月さん?」

「はい。水無月彩佳です。よろしくお願いします」

 身長は僕より少し低いくらいで、女子にしては背が高い方だ。すらりと細身だけど、ワンピースの半袖から出た腕は骨張っているわけではなく、健康的なラインを描いて伸びている。

 白いふくらはぎから足首にかけての流麗さを、アキレス腱の細さが際立たせている。サンダルから見える足の爪は綺麗に整えられて輝いていた。

 モデルみたいだなと思った。他人から見られている姿と、こう見られたいと思う自分を一致させている女子だ。このあたりにはいないタイプだ。さっきコンビニで見かけた先輩達と並べてみたくなる。もう舌打ちなんかさせない。

 二重まぶたの目の縁が印象的なのに、どことなく柔和な雰囲気も漂っている。沙紀も二重だけど、何かが違う。彼女に見とれてしまって、気がつくと僕は無言だった。

 水無月さんは僕の顔をのぞき込むようにしながら首をかしげた。

「ああ良かった。全然似てないから声をかけていいのかちょっと迷っちゃって」

「似てない?」

「沙紀ちゃんからスマホにメッセージが入っていてね」

 彼女が画面を僕に見せてくれた。

『フレンチ・ブルドッグに迎えに行かせたから』

 なんだよ。ひどいな。

「写真を送ってくれてたら良かったのにね」

 まあ、写真も当てにならない。どうせあいつのことだから、僕の写真にも変なデコレーションを盛るんだろう。それこそフレンチ・ブルドッグにされるな。ブサカワでいいじゃんとか本気で言うだろうな。

「僕、荷物持ちますけど大丈夫ですか?」

「あ、ほとんど宅配で送ったから、荷物はこれだけ」

 彼女は左肩を前に出して背中に回したトートバッグを示した。

「じゃあ、皆川は高校にいるんで、行きましょうか」

 僕たちはバスセンターを出て、柳の木が並ぶ広い道路を歩き始めた。ここはもともと鉄道の線路が通っていたところで、廃線になって再開発された大通りだ。今週末のお祭りでは、歩行者天国になる。

「この辺は平らで歩きやすいね」

 平ら?

「私の住んでるところって、千葉の幕張っていうところでね、埋め立て地のあたりは土地が平らなわりに高速道路とか国道が入り組んでて立体交差が多いし、私の家がある昔からの土地は台地になってて、地味な坂が多いのよ」

「幕張って、聞いたことある。なんか大きななんかがあるんでしょ」

 自分でもバカみたいだと思う質問をしてしまった。『なんか』って何だよ。それでも水無月さんは真面目な顔で答えた。

「幕張メッセのこと?」

「コンサートとかイベントやるんでしょ」

「うん」

「あ、なんか野球場もあるよね。マリンスタジアムだっけ?」

「今はね、なんかの会社の名前がついてるよ」

 水無月さんがふふっと笑う。

「私も『なんか』って言っちゃった。伊佐市流行語大賞だね」

 初対面なのに会話が続く。女子とこんなふうに話をしたのは生まれて初めてだ。知らない人を迎えにいくなんて気まずいと思ってたけど、ちょっと安心した。

「伊佐って盆地にあるって聞いていたけど、空が広いね」

 相変わらず遠くに雲がわき上がっているけど、確かに真夏の青空がまぶしく広がっている。

 この街には三階以上の建物がほとんどない。だから日陰もなくて、押さえつけるような日差しを避けるすべがない。水無月さんは帽子をかぶっていない。女子はふだんから日焼け止めを塗っているんだろうか。やたらと肌が白い。

 僕は横目で彼女のことを観察していた。彼女みたいなおしゃれ女子を見慣れていないから、どうやって見たらいいのか分からない。見てないふりをするのは逆に失礼なのだろうか。しっかり正面を向きながら堂々としゃべった方がいいのか。未知の体験に動揺していた。

 ばれていないつもりだったけど、いつのまにか見とれてしまっていたらしい。彼女に見つめ返されてしまった。ただでさえ日差しが強いのに、顔が熱くなって一気に汗が噴き出してくる。そんな僕を見て水無月さんが微笑んだ。

「すごい汗だよ。タオルいる?」

 僕はあわててズボンのポケットを探った。良かったハンカチが入っていた。いつから入っていたのか丸く固まったやつだけど、無理矢理広げて汗を拭いた。カビの匂いがする。

 さっき沙紀にヨダレ跡を拭いておくように言われたことをいまさら思い出した。ヨダレも汗ももはや区別はつかないか。

「いつもそんなふうに女の子のことじっと見てるの?」

「あ、いや、ごめん。この辺の女子とは違うなって」

「じゃあ、私だけ?」

 僕は曖昧にうなずいた。

「沙紀ちゃんは?」

「え、あいつ? ナイナイ」

「沙紀ちゃんに報告しないと」

 まあ、あいつにイヤミを言われるのは我慢しよう。からかわれてもいいや。

 水無月さんは柳並木から垂れ下がる細い葉を撫でながら僕の隣を歩いている。たまに手の風圧で葉が流れて空振りして、子供のように笑う。そんな何気ない表情に僕は魅了されていた。

 丸いおでこで自然に分けられた前髪がサラサラと流れている。ベタベタ髪の僕とは全然違う。

 気まぐれに風が吹くけど、周辺の熱い空気を丸ごと置き換えていくだけで、ちっとも涼しさは感じられない。

 汗を拭けば拭くほど垂れてくる。一度気にし始めてしまうと、みっともない姿を見せたくなくて、かえって焦って顔が熱くなってくる。

 彼女の魅力にすっかりはまり込んでしまった僕の頭の中はどんどん真っ白になっていって、間を持たせる会話が全く思い浮かばなくなっていた。

「鹿児島って距離はあるのに、千葉を朝出て昼前に着いちゃうんだもん。不思議だよね」

 水無月さんはとりとめのない話題を持ち出してくれた。

「そうだね。近いんだか遠いんだか分からないね」

 僕はその気遣いに甘えていた。

 さっき通ったばかりの道を戻っているだけなのに全然違う風景に見える。色あせていたはずの祭提灯も灯がともって輝いているように見える。土曜日どころかまだ月曜日の真っ昼間なのにもう祭り囃子が聞こえてきそうだ。

 いったいここはどこなんだ。

 鹿児島県伊佐市だろ。

 自分でバカみたいなツッコミを入れてしまう。

 浮かれすぎだろ。

 中学の社会科で先生が詐欺師の話をしていたことを思い出す。

『おまえらな、都会に出たら騙されないようにしろよ。美人が近づいてきたら詐欺だと思え。なんか高い物売りつけて、ローン契約したら消えちまうんだ。クーリングオフっていうのは通用しないからな』

 僕、騙されてないよね。

 いやいや、だって沙紀のイトコだぞ。

 身元だってはっきりしてるし、そんな悪い人なわけがない。

 まあ、もし詐欺師だったとしても、ほんの一瞬こんなに楽しい時間を過ごせたんだから騙されてもいいや。僕は大人になったらお金を貢ぐダメ人間になるタイプなんだろうか。

 とにかく落ち着け。舞い上がりすぎだ。空高く飛んでいった風船は上空で破裂する。まるで僕の心みたいに。やめろ、ポエムなんか語るな。だめだ、どうにもならない。

 住宅街の屋根の向こうに僕らの高校が見えるところまで来た。

 コンビニまで戻ってきたらさっきの伊佐高生達はいなくなっていた。僕は彼女を店内に誘った。少し頭を冷やしたい。

「もうすぐ皆川の補習が終わるから、ここで待ってることにしようよ。涼しいから」

「じゃあ、何か冷たい物でも買って、イートインコーナーにいようか」

 自動ドアが開くと一瞬で冷気に包まれる。天国だ。

 水無月さんはドリンク売り場へ向かって、迷わず天然水のペットボトルを取り出した。

「私、いつもこれなんだ」

「へえ、そうなのか」

 僕はお店で何を買うのかいつも決めているわけではないので、そういう人もいるのが意外だった。

 沙紀はいつも迷っている。新商品があると迷いに迷って結局僕に買わせて毒見をさせてから、半分よこせとか言い出す。女子もいろいろなんだな。当たり前か。

 僕もスポーツドリンクを取ってレジへ行こうとしたら、水無月さんがアイスのケースをのぞき込んでいた。

「どれがいい?」

「え、僕はドリンクあるからいいよ」

「ふうん、そう」

 彼女はプレミアムカップアイスのコンビニ限定味を眺めながら、これもいいけど、どうしようかなとつぶやいて、夏みかん味のアイスバーを指した。

「これは千葉では見かけないね」

「じゃあ、それにしてみたら。おいしいよ」

「へえ、食べたことあるの?」

「まあ、ここらでは定番かな」

「そっか、迷うな」とつぶやきながら彼女はそれも取らなかった。

 飲み物は迷わないのにアイスは迷うんだな。やっぱり女子だ。スイーツに妥協はない。

 ふと顔を上げたら店内の鏡に僕の顔が映っていた。僕は笑顔だった。

 ふとした瞬間に自分が笑顔だったことなんて今までなかった。

 おまえ誰だよ?

 本当に今村和昭なのか。僕の知らない僕だった。

「じゃあ、これにしようっと」

 さんざん迷って彼女が手に取ったのは平凡なソーダ味のアイスバーだった。

 僕がドリンクをレジに出すと、彼女が自分の品物も一緒に並べた。

「私が一緒に払うよ」

「え、いいよ」

「迎えに来てくれたお礼」

 彼女は財布から緑色のカードを出してピっと機械にタッチした。

「すごいね、そんなの持ってるんだ」

「バス通学だから。電車にも使えるし」

 僕らはこんな物持ってない。公共交通機関を利用しない生活だから全く縁がない。

 僕はお礼を言ってスポーツドリンクを受け取った。

 窓際のイートインコーナーに並んで座ると、彼女はソーダアイスを半分に割った。きれいに半分には割れなくて、苦笑している。逆L字型の方を僕に差し出した。

「はい、大きい方あげる」

「え、遠慮しとくよ」

「だって、すごい汗だもん。水分取らなくちゃ」

 ペットボトルのドリンク買ったけど、まあいいか。

「じゃあ、ありがとう」

 受け取るときに彼女の指に触れそうになってしまって、あわてて落としそうになる。そんな僕の様子を見て彼女が笑う。

「目がまん丸だったよ」

「あせっちゃった」

「そっち毒入りね」

「毒? 何の?」

 なんだかよく分からないけど、アイスが溶けたらもったいないのでかじりついた。

 清涼なソーダ味の甘みが体の奥にしみこんでいく。二口目にかじりついた瞬間、キーンと頭が痛くなった。

 片目を閉じてこらえていると水無月さんが僕を見て微笑む。

「ほら、毒入り」

「やられた」

 ポケットの中で僕のスマホが震えた。僕はアイスを左手に持ち替えてスマホを取り出した。

『今、補習終わったよ』

Re:『コンビニで待ってる』

Re:Re:『了解。アイスおごってね』

 ちゃっかりしてるよ。

「だそうです」と僕は彼女にスマホの画面を見せた。

「じゃあ、今度は夏みかん味の買ってみようかな」

 そう言うと彼女は、僕のスマホを手にとった。慣れた手つきでメッセージアプリを閉じると、カメラを起動して、僕に顔を寄せてスマホを前に突き出す。

「はい、笑って」

 女子と自撮りなんて初めてだ。僕はスマホを持ったのが高校からだから、沙紀とも撮った記憶がない。

 画面の中ではソーダアイスを持った二人が笑っている。

 お前誰だよ?

 女子とこんな写真撮るような男じゃなかっただろ。

 昨日までの僕からは考えられない世界だった。いつものコンビニのはずなのに、異世界に迷い込んだような気分だった。

 シャッター音が鳴ったとき、タイミング悪く目を閉じていた。彼女が笑ってもっと顔を近づけてきた。ふわりとシャンプーの香りがする。

「お約束だね。もう一枚」

 今度は目を大きく開いてカメラ画面に映る自分を凝視した。

 彼女は撮り直した写真を確認しながら、僕の顔と見比べた。

「今村君って、目がまん丸だね。鳥みたい」

「メジロっていう鳥が目がまん丸なんだってさ」

「へえ、どんな鳥?」

 彼女は自分のスマホを取り出してメジロを検索した。

「あ、ホントだ。すごくまん丸。似てるよ」

 沙紀にはフレンチ・ブルドッグと言われ、今度はメジロ。少しはイケメンアイドルとかと比べてほしい。

 検索結果ゼロですか。

「ねえ、今撮った写真、私のスマホに転送していいでしょ」

 声が出ずに、ただうなずいた。画像を送信するということは、連絡先も交換するということだ。地元の人以外と連絡先を交換するのは初めてだった。というより水無月さんの連絡先を手に入れてしまったことに動揺していた。今なら大知の気持ちが分かる。『前略、お元気ですか』なんて送信しそうになる気持ちだ。

 彼女は慣れた手つきで操作すると僕にスマホを返してくれた。

「ふうん、和昭君か。昭和の反対だね」

 スマホの画面に表示された僕の名前を見ながら水無月さんがつぶやいた。

「うん、よく言われる。小学校の頃はショウワの反対でワショウでワッショイとかって、なんかよく分からない呼び方されてた」

 彼女が口元を押さえて笑う。

 二人ともアイスを食べ終わってゴミ箱に棒を捨てた。

 手持ちぶさたになったところで、彼女がスマホの写真を見せてくれた。

「これ、私たちの高校の文化祭」

 写真には巨大な校舎とガラス張りの大きなエレベーターを背景に、文化祭の看板を挟んだ女子高生グループが写っていた。よく見ると、背景にいる高校生の数も僕らの伊佐高校とは桁違いのようだった。

「これ、高校? 大学とかじゃなくて?」

「うん、幕張海浜高校っていうんだけど、一学年で十八クラスあってね。全校生徒が二千人以上いるの」

 どこの夢の国だよ。あ、千葉だからか。

「うちの学校の十倍だね」

 他の写真を見ても、設備は豪華だし、人、人、人で、なんだか頭がクラクラしそうだった。休日のショッピングモールみたいだ。とても同じ高校とは思えない。

 次の写真には、突起物の並んだコンクリート壁が写っていて、命綱をつけた生徒がよじ登っている。四階建ての校舎と同じくらいの高さで、上に行くほど反り返っている。

「これ何してんの?」

「ボルダリングってスポーツ。部活だよ」

「じゃなくて、こんなのが高校にあるの?」

「うん、こういう自前の設備がある高校は珍しいみたいだけどね。だからよく大会の会場として使われてるよ。他にもいろんな部活があって私も全部は分からないくらい」

 僕の方がわけが分からない。僕らの伊佐高校は野球部の人数が集まらなくて助っ人かり集めて県大会にやっと出場してるくらいなのに。少子化って鹿児島県だけの話なのか?

 次々に見せてくれる写真はまさに夢の国のような学園生活だった。だらけたうちの高校の男子生徒とは違って、リア充っぽい連中ばかりだ。少なくとも、眉毛の飛び出た猫背の熊みたいな男はいない。ため息が出る。

「どうしたの?」

「僕らとは違うなと思って。かっこいい男ばかりだね」

「そんなことないよ」

 そう言いながら指をスライドさせると、次に現れたのは『一年十二組レトロ喫茶店』という看板を挟んで水無月さんがイケメン男子生徒とピースしている写真だった。

「あ、これは……」

 彼女が手で隠そうとしたけど、僕は見てしまった。

「へえ、ちゃんとメイド服なんだね」

「あ、うん。恥ずかしいよね」

 写真の中の彼女が着ているのは、メイドというよりは古風な女中さんといった趣の服だった。しっかりとした材料を使って細かいところまで丁寧に作られたもので、彼女の黒いストレートヘアにとても似合う衣装だ。

「こういうデザインとか裁縫が好きな子がいてね。よくアニメのコスプレもやってるらしいよ」

「うちの学校なんかとやっぱり違うね。僕らも喫茶店だったけど、ふだんの制服にエプロンだけだったよ。やる気が違うね」

「へえ、写真撮ってないの? 見せてよ」

 彼女は自分のスマホをしまって僕のスマホをのぞき込んだ。

「いや、写真は撮ってないな」

「えー、なんで?」

「なんか、いつもと変わらないし、女子みたいにあんまり写真撮らないからね。男子ってそうじゃない?」

「そんなことないよ。うちの学校の男子なんか、女の子の写真ばっかり撮ってるよ」

「いや、それはいろいろと違う意味で問題じゃないの?」

 ちょうどその時、沙紀がコンビニに到着した。

「お待たせ。わあ、彩佳、久しぶり。全然雰囲気変わったよね。めっちゃおしゃれ」

 さっきは昔と変わらないと言っていたくせに、女同士の社交辞令は見ていてハラハラする。

 水無月さんが大げさに手を振る。

「そんなことないよ。少し髪伸ばしたくらいかな」

「そうかな。ま、いいや。暑くて死にそう。カズアキ、アイスおごってよ」

 意外とあっさり沙紀が話題を変えたので、僕はそれを逃さないように自分から進んでアイス売り場に行った。なんでこんなに二人に気をつかっているんだろう。

 沙紀は夏みかん味のアイスバーを選んだ。水無月さんは僕に目配せをしながら微笑む。秘密を共有しているようで、少しドキドキした。

 コンビニを出ると温度差で頭がクラクラする。でも、おかげで異世界から現実の世界に引き戻されたような気がした。

「溶ける溶ける」と叫びながら沙紀がアイスの角を吸っている。

 大知も一緒に来るかと思ったけど、補習で一緒になるのですらいっぱいいっぱいの小心者だから、二人で下校なんて無理か。逃げるように一人で帰っていく姿を想像してしまった。

「何をニヤけてんのよ」

 沙紀に見とがめられて僕ははぐらかした。

「いや、ホント、暑いなって」

 僕らの家は高校のすぐ近くにある。コンビニを出ていったん高校の前に戻ってから、すぐ脇の住宅街に入る。

 アイスを情け容赦なく溶かそうとする夏の日差しと競争してあっと言う間に食べ終えた沙紀が棒で僕を指す。

「ねえ、彩佳、カズアキのことすぐに分かった?」

「フレンチ・ブルドッグって言うからどんな人かと思ったよ」と水無月さんが笑う。

「そっくりでしょ」

「そんなことないよね」と水無月さんが僕を見るけど、どう返事していいのか分からない。

「カズアキってね、中一の時に急に背が伸びて、いきなり百七十センチになったのよ。頭一つ飛び抜けてて、スネ毛なんかも生えちゃってさ、オッサン教師かって感じだったのよ。でも、それっきり成長が止まっちゃって、体型が変わらないから私服がずっとそのまんまでさ。Tシャツとか、お母さんに買ってもらったやつをいまだに着てるから微妙なセンスだし、襟なんかもうクタクタで格好悪いったらありゃしないのよ。一緒に歩くの恥ずかしいよ」

 沙紀のやつ、調子に乗ってやたらとしゃべる。聞いている水無月さんは僕の方をちらちら見ながら苦笑している。

「でも、中一の時からこれくらい背が高かったら、モテたんじゃない?」

 彼女の言葉を聞いた沙紀が僕の背中を叩く。

「背が高いっていうだけでモテるんだったら、キリン最強じゃん」

「それ、背丈というよりは首が長いだけじゃないの。子供の頃から首輪をつけて首だけ長くする民族っていうのがいるらしいよね」と水無月さんが昭和のテレビ番組みたいな情報を披露した。

「じゃあ、あたしも首輪つけてあげようか。散歩に連れて歩くの。あ、でも、それならフレンチ・ブルドッグのほうがましか」

「ペットかよ」とやっと僕は口をはさむタイミングをつかんだ。

 でもそれで矛先が直接僕に向いてしまった。

「あんた、目はフレンチブル・ドッグで鼻もフレンチ・ブルドッグで、口もフレンチ・ブルドッグなのに、なんで全体は全然かわいくないのよ? ブサカワっていうより、ただのブサイク?」

 そんなこと言われても困る。黙ってると、沙紀が調子に乗る。

「中学の時はましだったけど、高校で百七十センチだとけっこう普通じゃん。こいつ、このまま伸びないと、一度も来なかったモテ期が始まる前に通り過ぎちゃうよ。もう、フレンチ・ブルドッグに謝りなさいよ」

 暑さにやられたみたいにテンションがめちゃくちゃだ。大知をヤマトと勘違いした時みたいに悪口もどんどんエスカレートしていく。こういった暴走を止めるには、沙紀以上にこっちがハイテンションになるしかない。

「ワンワン!」

「何よ、急に」

「だって、犬だろ。人間の言葉じゃ通じないじゃん」

「ただのアホでしょ」

 ようやく沙紀の興奮が収まった。

 そんな僕らのやりとりを眺めていた水無月さんが思いがけないことを言った。

「ホント、二人とも仲いいよね」

 一呼吸置いてから、彼女が一言付け加えた。

「……ちょっとうらやましいよ」

「ちょっとだけだってよ」と沙紀が僕に片目をつむる。

「あ、うん、けっこうかな」と水無月さんが訂正する。

 なんだか唐突に曖昧な雰囲気になって会話が途切れた。

 遠くで鳴いているセミの声が急に気になりだした。何か会話のきっかけを持ち出そうとしたけど、セミの声に聞き入ってしまって何も言えなかった。非モテ男子に気の利いた話題なんてあるわけがない。

 そのまま沙紀の家の前に着いてしまったので、僕は二人に手を振った。僕の家は道一本裏のすぐそこだ。

「じゃ、僕はここで」

「うん、また明日ね」と沙紀がすっかり乾いたアイスバーの棒を振る。

「今日はありがとう。これからもよろしくね」

 水無月さんは首をかしげながら胸の前で両手を振ってくれた。良かった笑顔だ。さっきまでの曖昧な雰囲気がどこかへ消えていた。

 二人と別れて角を曲がった時、僕はゆるんだ頬を押さえつけた。鏡を見なくても分かる。僕は今笑顔だ。家に帰るのがこんなに楽しいのは初めてだった。

『これからもよろしくね』

 彼女は確かにそう言っていた。これからもあるんだ。

 僕はスマホを取り出してコンビニで撮った写真を見た。

 画面の中の僕は彼女の隣で満面の笑みを浮かべている。

 おまえ、うらやましいぞ。

 夏休みはまだ始まったばかりだ。

 その夜の僕のはしゃぎっぷりは他人に見られたら言い訳できないレベルだった。

 ベッドに入って枕を抱きしめてしまったのだ。

「彩佳」

 名前を呼ぶ練習だ。

 こんなところを見られたら街を歩けなくなる。

 沙紀にバレたら「キモイ」の一言で終わりだ。それならまだましな方だ。今後、存在自体を無視されるだろう。

 ゴキブリならまだ叫んでもらえる。目に見えないダニ以下の存在にされるだろう。

 でも僕はやめられなかった。何度も何度も枕に名前を呼びかけた。

 昼間抑えていた興奮が頭の中を駆け巡る。こんなの初めてだった。

 人を好きになるって事がこんなにも破壊力を持つなんて知らなかった。

 今までの自分は木っ端みじんに吹き飛んでしまった。

 彼女との出会いはまさに電流のような衝撃だった。

 もう自分でもおかしいと分かってるのに、この気持ちは止められない。

 古くからの知り合いみたいに自然に話せた。

 女子と仲良くなりたいと思ったのは初めてだ。

 この狭い街ではあまりそんなふうに思った相手はいなかった。

 もうこれは運命としか言いようがない。

 僕は何度も同じ事を考えていた。

 運命なんだ。

 絶対に間違いない。

 これは運命なんだ。

 勝手にストーリーを思い描いて期待してしまう。

 僕の一方的な片想いに過ぎないことも頭の隅では理解している。でもそんなのどうでもいい。今はただこの妄想に浸りたいんだ。

 枕を抱きしめながら不意に不安に襲われた。

 水無月さんは単に知らない土地に来て、他に頼れる人間がいなかったから当たり障りのない態度で接してくれただけなのかもしれない。

 明日になったら、気まずかったりして。

 そもそも、こんな狭い街で、もう案内なんかいらないからと断られるかもしれない。

 きっとそうだ。

 おまえ、今村和昭だぞ。

 地味で無色透明、無害な男。

 期待なんかするな。

 沙紀の家で今頃、「沙紀ちゃん、ヒドイよ、あんな人よこして」とか、悪口言って盛り上がってるかもしれない。

 いや、彼女はそんな人じゃない。

 彼女をそんなふうに悪く言うやつはこの僕が許さない。

 僕自身が僕を責める。

 あんなに笑顔で話してくれた人がそんな悪い人なわけないだろ。

 そうに決まってるよ。

 僕は必死に彼女のことを擁護していた。

 僕はお人好しなのか。チョロい非モテ男子なのか。

 学校で習った『杞憂』という言葉を思い出す。

 天が落ちてくるんじゃないかと心配で仕方がなかった男の話から、しなくてもいい心配をすることを杞憂というようになった。今の自分がまさにそうだ。

 いやいや、杞憂なのか。もし本当に嫌われているのなら、杞憂じゃなくて、まさに天が落ちてくるほどのインパクトだ。僕は立ち直れないだろう。

 起き上がってスマホを手に取った。

 連絡してみようかと迷った。

 もう一度ベッドに横になりながらメッセージの文面を考えたけど、うまい言葉が思いつかない。

 大知にアドバイスを求めてみるか。

『前略、お元気ですか』

 ああ、今あいつがいてくれたら、二人で写真を撮って、「これ僕の友達です」って送信できるんだけどな。

 送られてもどう返事していいか困るか。

『迷惑なメールフォルダ』に振り分けられてブロックされてしまう。

 結局何もできなかった。

 僕はいつのまにか眠りかけていたらしく、頭の上にスマホが落ちてきて気がついた。

 僕は昼間気になったことをスマホで検索した。

 水無月さんと沙紀の目の違いだ。

『目の下のふくらみ』で検索。

 涙袋というのか。

 水無月さんの二重の目は涼やかなのにどこか柔和な感じだった。それが涙袋の印象だったのか。

 僕はもう一度スマホの写真を見つめて、涙袋とつぶやいた。

 思えば今日は人生で一番いろんな事があった日だった。

 昼間の出来事は、僕にとっては紛れもなく楽しいひとときだったんだ。

 こんなに素敵な日が来るなんて、昨日まで予想もしていなかった。

 今はそれでいいじゃないか。

 夢みたいなものだったんだ。

 それだけでいいじゃないか。

 寝よう。どうせ何もできないんだ。

 明日になれば分かる。

 眠ってしまえばヘタレな自分を責めなくて済む。

 そんな言い訳を考える間もなく、僕は眠りに落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る