第78話 決意


 王宮への帰途。


 草原に風が渡る。


 不意に足を止めた俺を、リゼが振り返った。


「ロクさま? どうかなさいましたか?」


 不思議そうな神姫たちを見つめて、口を開く。


「ずっと考えてたんだ。いずれ来る、決戦のことを」


 神姫たちの顔が、はっと緊張を浮かべる。


 緑萌える丘の先。

 遠く、王都を見はるかす。家族や友人と笑い合い、平穏な生活を営む、たくさんの人々。


 今こうしている間にも、世界のどこかで誰かが傷付き、大切な人を奪われている。


 王宮に襲来したカリオドスに、シャロットを攫ったラムダ、天獣たちやビルハの人々を襲ったフムト。

 生きとし生けるものを恐怖へと陥れては、より力を蓄え続けている魔族たち。

 その根本を絶たなければ、哀しみの連鎖は終わらない。


 ――魔王を倒す。


 俺にはまだ、決定的な力が足りていない。それでも。


 この世界を――大切な人たちの笑顔を護りたい。


「そう遠くない未来に、決戦の時が来る。戦いはより熾烈になる」


 俺は風に首を擡げ、俺を見つめる姫たちを見渡した。


「俺はこれからも君たちと共にありたい。君たちが今日まで傍で支え続けてくれたことに、言葉を尽くしても足りないくらい感謝してる。だけど同時に――だからこそ、君たちの幸せを、心から祈ってる。もしも他に行きたい道があるのなら、幸せになれる道があるのなら、どうか迷わず選んでくれ。必ず君たちが選ぶ未来を祝福し、背中を押すと約束する、だから――」


「ロクさま」


 リゼが胸に手を当て、ふわりと微笑む。


「私たちは、ロクさまが後宮にいらした時から――掃きだめと呼ばれていた私たちの主となり、救ってくださったあの時から、貴方について行こうと決めました。私たちはロクさまの手足であり、心臓であり、の一部。ロクさまとともに歩むことこそが、私たちの選んだ幸せなのです。我ら神姫、どんなに困難な道であろうと、最後までお側で戦い抜くことを誓います」


 俺がこの世界に来た時から共に歩み、支えてくれた少女たち。


 その誰もが、強く、優しい目をしていて。


「一緒に、幸せになりましょう」


 胸に、温かな火が灯る。


「――ありがとう」


 噛みしめるように告げると、少女たちが花のように笑った。


 遥か北の果てへと目を馳せる。


 千年の長きに渡って人々を脅かし、今もなお恐怖の頂点として君臨する、魔族たちを統べる王――魔王が眠る瘴気の巣。


 いずれ来る、決戦の地へと。





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 その夜。


「どうやら、決意を固めたようじゃのう」


 書類から顔を上げる。


 公務用に宛がわれた執務室。

 いつの間にか、ビビは机に座って、おもしろそうに俺を覗き込んでいた。


 絹のようなぬばたまの髪に、夜を切り取ったようなドレス。整った顔の中でも一際印象的なアメジストの瞳が、いたずらっぽくくるめく。


 こんなに愛らしい女の子が運命神――神の一柱だというのが、未だに信じられない。……正確には分体らしいが。


「それにしても、あの災害級の貪食フムトまで退けるとは。カヅノ後宮、快進撃じゃのう」

「俺一人じゃ太刀打ちできなかった。みんなのおかげだ」

「これ、この慎み深さよ。そりゃああの初心な天獣たちすら虜にするわけじゃ。さすがは当代きっての伊達男。そういえば、カヅノ後宮天界支部ができたと小耳に挟んだぞ、この初恋泥棒め」


 大仰な口上に苦く笑っていると、愛らしい声がした。


「当たり前でしょ。なんたって、あたしのご主人さまマスターなんだから」


 祝福の剣から光が立ち上ったかと思うと、少女の姿を取った。


 ツーサイドアップに結った、艶めくピンクブロンド。小さな顔は人形のように整い、こぼれ落ちそうに大きな瞳は魅惑的なオーロラ色をしている。


 少女――祝福の剣アンベルジュは、長い髪を払って肩をそびやかした。


「それに、あたしがついてるもの。どんな魔族が来たって、負けやしないわ」


 ビビは真剣な顔になって、片眉を跳ね上げた。


「しかし、魔王を斃すのは簡単ではないぞ。彼奴きゃつは瘴気の巣に護られ、今この瞬間も、眷属を使って恐怖を喰らい、魔力を喰らって力を蓄え続けておる。忌々しいことにのう」

「瘴気の巣に近付く方法はないか?」

「ない。なにしろ瘴気が濃すぎる。いかなおぬしとて、あれが肺に入れば魂まで腐り果てるじゃろう」


 『反転』は、触れた相手にしか発動しない。広範囲に渡って瘴気を浄化できるスキルがあれば、瘴気の巣を払えるかもしれないが――


 ふと顔を上げる。


「そうだ。この前、古代魔術について聞いたんだけど、ビビは何か知らないか?」

「まだ世界が混沌から産まれたばかりの頃――魔もエーテルもひとつだった頃に存在したと言われる、原初の魔術じゃな。すべての魔術の祖と伝えられておるが、なにしろわしらが生まれる前の話じゃ、詳しくは知らん」

「なによ、役に立たないわねー」

「おぬしこそなんかいろいろ大事なこと忘れとるじゃろうが」

「あたしは所詮武器道具だもん。あんたは腐っても神でしょうが」

「運命神なんて、所詮は末席じゃし? 世界をひっくり返すような権能とか持っておらんし? そもそも本体石化されとるしぃ~?」


 ビビはぺろりと舌を出しておどけると、アメジストの目を細めた。


「なんにせよ、神など役に立たんよ。時代を進めるのは、いつだっておぬしら人の子じゃ」


 白銀の魔力が通う手のひらを見つめる。


「俺の魔力のこと、何か知ってるか? 属性とか……」

「おぬしの力は何にも属さん。しいて言うなら無属性といったところかのう」


 この世界の魔術は、自然に存在する元素を媒介にする。属性がないなら、魔術を発動できないのは道理だ。肝心の媒介を持たないのでは、いくら魔力があっても顕現させる術がない。


 強大な魔術もスキルも持たない身が歯がゆくて、目を伏せる。


(……俺に、何もかもを為し得る力があれば……)


 思考の底に沈んでいると、ビビが可愛い牙を見せて笑った。


「そう焦らずとも良い。おぬしの元には、類い希なる力や、鍵を握る存在が、自然と集まってくる。そういう星の下に産まれておる。今まで通り、出来ることを続けるが良い。そうすればきっと皆が力を貸してくれる――こやつのようにな」


 ビビに視線を送られて、アンベルジュが背筋を伸ばした。


「ああ。アンベルジュが俺に力を貸してくれて、本当に助かってる。ありがとう」


 目を細めると、アンベルジュは「べ、別にっ?」と真っ赤になって顔を逸らした。


「まあ、どうしてもお礼がしたいっていうなら、もっと特別な方法で魔力をくれたっていいのよ? 例えば、こうやって――」


 柔らかな肢体が猫のようにしなやかに、俺の膝に跨る。細い腕がするりと首に回ったかと思うと、桜色に艶めく唇が近付き――咄嗟にその口を手のひらで遮った。

 アンベルジュが「むぐ」とくぐもった声を漏らす。


「いいじゃない、キスくらいーっ」


「俺にはちょっと刺激が強いんだ」


 それでも不満そうなアンベルジュに苦く笑って、「君があんまり可愛いから」と付け足すと、白い頬がぱっと染まった。


「ふ、ふーん? ふーん、そう……」


 ご満悦で俺をちらちらとうかがっていたかと思うと、そっとしなだれかかる。

 細い手が俺の胸を撫でるように這い、恍惚と艶めいた声が耳をくすぐった。


「ねえ、せっかくなら、キスよりも、もーっと刺激的・・・な方法……試してみる……?」

「こんなちんちくりんじゃ、勇者もそそらんじゃろ」

「だから、あたしの本当の姿はこんなもんじゃないんだってば! もっとグラマラスでダイナマイトでエレガントな――」

「なーにがエレガントじゃ、魔物さえ喰らう悪食めが」

「だから美食家だって言ってるでしょー!?」


 賑やかなやりとりに、ふと口を挟む。


「アンベルジュは、魔物の魔力も取り込めるんだな?」

「え? ま、まあ、その気になればね。あんまり口に合わないケド、魔力は魔力だし」


 顎に手を当てて考え込む。


 何か、重要な手掛かりになるような――


「――本気なのね?」


 真剣な声に目を上げると、オーロラ色の双眸が強い光を湛えて、俺を見つめていた。


「……ああ」


 強大な魔の前に、俺はあまりにも無力だ。

 だが、それでも前へ進まなければならない。もう誰も傷付いて泣かなくていいように。大切な人を奪われて、ひとりぼっちにならないように。


 魔王を斃せば、リゼを蝕む呪いのアザも、今度こそ消せるだろう。

 それに。


「魔王を倒せば、ビビの石化も解けるんだよな?」


 尋ねると、ビビはきょとんを目を丸くし、それから泣きそうな顔で笑った。


「神さえ救おうというのか。おぬしは本当に、千年前あの時から変わらん……呆れるくらいのお人好しじゃのぅ」

「? あの時って?」

「ええい、聞き流すが良いわ。乙女だけでは飽き足らず神まで殺す気か、痴れ者め」

「そのあだ名、ちょっと物騒なんだよな」


 苦笑いする俺から、心なしか頬を染めたビビがぷいと顔を背ける。

 アンベルジュが微笑んで、俺の胸にそっと手を添えた。


「忘れないで。あなたは唯一無二の英雄。その心臓は、無限の魔力炉。その深い魂は、無辺の器。その脈が続く限り、私はあなたの傍にいるわ。私の特別な、ただ一人の勇者さま」


 小さな手に手を重ねて、ありがとう、と呟く。


 遥か北の果て。

 瘴気の巣で覚醒の刻を待つ魔王に想いを馳せながら、俺は白銀の魔力が宿る手を固く握り込んだ。






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